第73話 祐奈、ラング准将に怒られる
しばらくのあいだ黙って歩いた。あのお喋り好きなリスキンドですらひとことも発しない。
祐奈は気もそぞろで、ラング准将のエスコートに従って歩き続けた。
ふと気づけば本館を通りすぎていて、司教との約束の場所に向かうには、道が違うのではないかと祐奈は思った。
「中庭を抜けるルートで、西翼に戻りましょう。司教との会談は、私がキャンセルしておきます」
ラング准将の落ち着いた声音。彼の手が背中から離れた瞬間、祐奈の胸の奥から何かが込み上げてきた。
衝動――不安――疑問――居ても立っても居られなくなる。ラング准将のアリスに対する態度は、誤解のしようもないほど潔癖だったけれど、それでもまだ不安が去らない。
祐奈は思い切って口を開いた。
「あの、大丈夫なのでしょうか? アリスさんに……あんなことを言って。ラング准将が罰せられるようなことは……」
「あなたが私の心配をするのは、筋違いです」
「でも、アリスさんはものすごく怒っていましたし」
祐奈がしどろもどろにそう告げると、ラング准将が足を止めた。
祐奈もそれにならう。ふたり、静かに向き直った。
彼の瞳にはいつもの包み込むような穏やかさがない。さきほどのアリスに対する態度とは質がまるで違うものの、今の彼が親切かといえば、そんなことはなかった。まるで抜き身の剣みたいだと祐奈は思った。
彼に傷つけられるかもしれないと感じたのは、これが初めてのことだった。
「本当に気がかりなことは、別にあるのでは?」
「それ、は」
「あなたは何を恐れているのです」
いつも安らぎを覚えていた、深みのあるアンバーの瞳。しかしごまかしを許さないと言うように見つめられると、心が乱れて。怖くなる。
「ラング准将が、我慢をしているのではないかと」
「我慢?」
「本当はアリスさんの護衛に戻りたいのに、義理を優先しているのではないですか? 私の護衛になってしまったから、裏切れないと。本心で選んだわけじゃなくて、仕方なく」
「それを私に答えさせようとするのは、ずるいです」
「え?」
「あなたは……私がアリスと行ったら、嫌ですか?」
「それはもちろん、嫌です」
「なぜ?」
「だって……ラング准将がいないと、私」
「困る?」
困るというのとも違う。損得ではなくて、もっと単純なこと。心の問題。あなたがいないと……いないと……
「あなたは何も打ち明けてくれない。――どうしてアリスとの一件、話してくれなかったのですか。カルメリータから聞きましたが、私はあなたの口から聞きたかった」
「あなたの負担になりたくなかった」
「そうされると拒絶されている気分になります。――隠されたら、護れない。壁を作られたら、踏み込むことができない。あなたは私を必要としていないように見える」
「そんなことありません。私はあなたを頼りにしていて」
「そうは思えない。あなたは他人行儀だ。信用されていないのかと、悩みました」
ラング准将の言葉が胸に刺さった。首を横に振る。涙が滲んだ。違うのに。ただあなたを失いたくないだけ。大切すぎて、失くすのが怖いだけ。
「私がアリスの護衛になったら、どうして嫌なのか――……その理由を考えてみてください」
そんなの……考えなくても分かっている。でも言えない。彼は困るに違いないから。
「……分かり、ません」
彼の美しい虹彩が、目の前にある。手が届きそうで、とても遠い。
彼が囁きを落とす。その言葉は突き放すようでいて、茨の棘のように、祐奈を絡め取った。
「分からないなら、分かるまで――ずっと私のことを考えてください」
* * *
ラング准将が司教に会いに行くと告げ、途中で別れた。リスキンドとふたりきりになり、彼から、
「大丈夫?」
と問いかけられる。気遣いが身に沁みた。
ラング准将と離れた瞬間、彼にひどいことをしたような気持ちになっていた。……でも、どうしたらよかったのだろう?
「私、自分のことでいっぱいいっぱいで……ラング准将みたいに立派だったなら、私も自分に自信が持てるのに。自信が持てればきっと、素直に思いを言葉にできる。でも」
「……そうかな。立派なラング准将には葛藤がない?」
リスキンドにそう言われ、戸惑いを覚えた。なんだかその口ぶりだと、ラング准将にも悩みがあるように聞こえる。
リスキンドが続けた。それはいつもの彼らしくない物思うような調子だった。
「ラング准将だって人間だよ。あの人は超人だけれど、それでも心は傷つくし、自信を失くすこともある。俺らと何も変わらない。彼が魅力的で、能力が高くて、誰もが憧れる存在だからといって、本人がそれで何も悩まないわけじゃない。相手の気持ちが分からなくて不安になるのは、誰だって一緒だろ」
この時のリスキンドは、先日のラング准将の姿を思い出していた――祐奈がショーのことを好きだったのではないかと、気にしていた彼。
こう言ってはなんだか、それがとても人間くさく感じられて。こんなにすごい人でも、こんなふうになることがあるのかと驚いた。
本人がどんなに優れていようが、そんなことは関係ない。相手に心のうちをさらけ出すことが、怖くなることもある。
祐奈は瞳を伏せた。――胸にずしんときた。
確かにリスキンドの言うとおりだ。『ほかの人なら余裕だろう』なんて考えは、ものすごく自分勝手だった。傲慢ですらある。自分はこのとおりつらいけれど、ほかの人はもっと楽なはず、だなんて。
勇気を出せないことを、傷つけられた過去のせいにしてはだめだ。
どうしてだろう……どうして大切なラング准将を避けてしまったのだろう。もしも自分がそうされたら、すごく悲しい気持ちになったはずだ。
ラング准将は上辺だけで嘘を言ったりする人じゃない。もっと彼を信じればいい。祐奈のことで困ったことがあるのなら、ラング准将ならたぶんちゃんと言ってくれる。だって、さっきの彼がそうだった。祐奈に対して嘘は言わなかった。
彼は結構怒っていたと思う。……初めて、本気で怒られたかも。すごくつらくて、申し訳なくて、泣きそうになった。
それなのに嬉しいと思ってしまった。彼を身近に感じることができた。彼は神話に出てくるような手の届かない存在なんかじゃなくて、ひとりの人間で、祐奈がしたことで、傷ついたり、悩んだりすることもある。
それって祐奈と同じだ。彼がしたことで、傷ついたり、悩んだりする。
彼は「分からないなら、分かるまで、ずっと私のことを考えてください」と言った。
でもね。ずっと考えている。ずっと前から、あなたのことばかり。あなたが呆れるくらい、あなたのことを考えている。
いつかそれを伝えられるといい。ヴェールを取って、彼の目を見て――ちゃんと言えるといいな。
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