第72話 アリスとラング准将


 館内を移動中、アリスが髪を振り乱して近寄って来た。


 ここは建物の一階部分で、西翼と本館の繋ぎ部分に当たる。距離は短いが柱廊形式となっていて、壁がなく吹き放しになっていた。


 驚いたことにアリスは、屋外からショートカットして直接ここへ来ようとしているらしい。しかも彼女は単独で行動していた。


 常識外れのルート選択、護衛がついていないこの状況――あまりに異常だった。彼女の鬼気迫る勢いに圧倒され、祐奈は体を強張らせてしまう。


 柱廊には壁がないとはいえ、植え込みや果樹がすぐそばに生い茂っているので、スマートな方法ではすんなり外から入って来られない。それをアリスは力ずくで踏み越えてきた。植え込みの枝を折りながら突進してくるさまは、怪獣がビルをなぎ倒しながら進む特撮ものの一場面にも似ていた。


 魔法で木々を焼き払わないところを見ると、相当に慌てているようである。


 また攻撃されるのか――と身構える祐奈であったが、アリスはラング准将が目当てらしく、直接彼の元に詰め寄った。ラング准将のほうが祐奈よりも外側に控えていたので、アリスが祐奈の元まで到達することはなかった。


 ちなみに今この場にいるのは、祐奈と護衛のラング准将、そしてリスキンドの三名だった。そこにアリスが加わった形である。


「――どうして連絡をくれないの、エドワード」


 恋人から冷たく捨てられたのを責めるような口調。アリスの瞳には怒りと、焦燥と、懇願が滲んでいる。唇は血の気を失い、ぶるぶると震えていた。


 彼女はほとんど腰砕けになっており、ラング准将のほうに体を投げ出すようにして、なんとか転倒するのを免れたようだった。


 対し、ラング准将は顔色ひとつ変えていない。アリスに掴まられても、体幹がしっかりしているのでよろけることもなかったが、紳士らしく手を差し伸べようともしない。こういったケースでの最低限の気遣いさえ見せることはなかった。


「護衛は?」


 ただ静かに尋ねる。


「見て分からない? ひとりよ! 私、窓から抜け出したの」


「あなたの居室は二階でしょう。空でも飛んで来たのですか」


「冗談を言っている場合?」


 アリスがヒステリックに喚く。


「あなたに会う必要があったから――だから、この私が! こうして頭を使って! わざわざセッティングしたんじゃない!」


「どういう意味です?」


「朝一で祐奈と面会するよう、司教に命じたのよ。そうすれば祐奈に帯同して、あなたがここを通る。私は入浴したいと護衛を騙して、一階の浴場まで来たの。お風呂に入るふりをして、浴場の窓から這い出て、外回りでここまで来た。こんな――こんなことを私にさせて、あなたは申し訳ないと思わないの?」


「なぜ私がそれを気にしなければならないのです?」


「あなたは義務を果たしていない! 私は内密にあなたと話す必要があった! あなたのほうが気を回して、上手くセッティングするべきでしょう? 私からは色々と難しいのに、こんなことまでさせるなんて――」


「――それほど、キング・サンダースを出し抜くのは大変ですか?」


 ふたり、しばし黙したまま見つめ合う。


 アリスはピンと張り詰めた糸を思わせるような、奇妙な緊張感をその身に纏っている。対し、ラング准将は泰然としている。


 見守っていた祐奈は複雑な心境である。


 ふたりの距離感は一線を越えているように感じられるのだが、それでも互いのあいだには明らかな温度差があった。アリスは沸騰しそうなほどに熱を上げているのに、一方のラング准将は冷めきっている。とてもじゃないが恋仲には見えない。


 昨日アリスは祐奈のことを散々なじってきた。勘違いしている、あなたはラング准将に迷惑をかけているのだと。だけど自分はどうなの? ラング准将のほうはこの事態を歓迎しているようには見えない。


 ――そして、おかしいと感じていた突然の司教からの呼び出し。アリスの計画だったのか。しかも彼女が仕組んだ理由は、『ラング准将と話したかった』から。


 振り回されたのが分かり、嫌な気持ちになる。なぜアリスの勝手な都合で、朝から司教と会談しなければならないの?


「私の護衛になる件、OKよね? そのつもりだと言って。そして私を抱きしめて。態度で表してよ」


 アリスの鬼気迫る問い。


 祐奈はハッと息を呑んだ。……彼女の護衛になる? 具体的にそういう話が進んでいるの?


 心臓が潰れそう。彼に縋って、もう面倒はかけないと誓うから、どうか捨てないでと泣きつきたくなる。あなたが嫌なことは二度としないし、言うことはなんでも聞く。だから――


「返事がほしいのですか?」


「焦らさないで。エドワード、ねぇ、お願い」


「焦らすつもりはないのですが」


 そう告げてから、ラング准将はしなだれかかっているアリスの肩に触れた。彼女は彼から触れられて、その先の行為を期待するように頬を紅潮させる。


 しかしラング准将は、突き放すように彼女の体を遠ざけてしまった。――それは引き剥がす、までの乱暴さではなかったけれど、あまりに冷たい仕草だった。


「――護衛の件、正式にお断りします」


 誤解のしようもない、きっぱりとした口調で彼が告げた。


「なんですって?」アリスはほとんど取り乱しかけている。「馬鹿な――あなたは、断れる立場にない」


「それは見解の相違ですね」


「許さないから」


「では、サンダース経由で苦情を申し立ててください」


 アリスがほぞを噛む。彼女が言葉も出せないくらいに追い詰められているのを、祐奈は初めて見た。


 アリスは混乱したように視線を彷徨わせたあと、ふたたび怒りの感情を取り戻したらしく、目の前のラング准将を恐ろしい形相で睨み据えた。瞳は充血し、憤怒の表情で涙をこらえている。彼女の細い顎が、怒りのあまりぶるぶると震えていた。


 ラング准将が気まぐれのように続ける。


「ひとつアドバイスを。交渉を進める際は、相手に自分の弱点をさらさないほうがいい」


「私に弱点などないわ、私は完璧な存在なの!」


「けれどあなたは全身で訴えていましたよ――キング・サンダースが怖い、と。私が欲しいのなら、先に彼と対決し、決着をつけてからにすることですね。今の連れ添いときちんと別れてから、次に手を出したらいかがです?」


「彼はパートナーじゃない。それにね――私が『次を』と望んだら、あなたはサンダースを排除して、自分の身を差し出すべきなのよ。膝を折り、私に乞いなさい」


「笑わせる。私が膝を折るのは、あなたに対してではない」


「では誰に?」


「本当に聞きたいのですか?」


 もしかするとラング准将は悪い男なのかもしれない。笑んでもいないが、少し嗜虐的でもある態度だった。彼はアリスの気持ちを弄んでいるかのように、気ままに振舞っているように見えた。


 そのままのらりくらり、彼らしくなく、適当にあしらって終わりにするのかと思った。――だけど違った。


 ここでラング准将の纏う空気が少し変わった。


 より濃密に。


 より仄昏く。


 彼からの逆らい難い圧を感じ、アリスは息を呑んだ。


「それからもうひとつ、言っておくべきことが。――先日、祐奈を脅したと聞いている」


「だ、だったら何よ。私がそのつまらない小娘を脅したとして、それが何」


「私にとっては大問題だ」


「は、何を言って――」


「――次、彼女につまらないちょっかいをかけてみろ。ただでは済まさない」


 耳を傾けていた祐奈は、思わず体を強張らせていた。驚いたことに、ラング准将がアリスを脅している。


 彼の怒りは相当なものだった。怒鳴ってはいないけれど、言葉に彼の意志が乗っている。それはあまりに苛烈だった。聞いているだけで、震えが出るほど。かつてないほどに彼が腹を立てていることが祐奈には分かった。


 これに対し、アリスはほとんどヒステリーを起こしかけていた。彼の佇まいに恐怖を感じるよりも、女性として受け入れてもらえなかった怒りが勝ったのだろう。


 まるで川面を棒で無茶苦茶に叩いているみたいに、駄々をこね始める。


「もう、何よ、何よ――馬鹿にして! ただでは済まさない? はぁ? 誰にものを言っているのよ、ふざけるんじゃないわよ! どうする気よ? 私を殴る? でもあなたより私のほうが強いわよ、みくびらないで」


「強いと信じているなら、試してみるといい。勧めはしないが」


「あなたの物言いはあまりに不敬よ。訴えてやるから。奴隷のように扱ってやる。踏みつけて、根こそぎ尊厳を奪ってやるわ。あなたは一生私に奉仕するのよ。そのうちに私に乞うようになる。私が欲しいと言わせてみせる」


「訴えるなら、どうぞご自由に。そうしたらサンダースにも話が行き、君の裏切りがバレることになる――恥知らずにも、君が、私を欲しがったとね」


「この……人でなし!」


「これが最後の警告だ。二度目はない。――次、私に無断で祐奈に近づいたら、生まれてきたことを後悔させてやる」


 ラング准将はそう言い捨て、祐奈の背に手を回した。そうしてこの上なく丁重に祐奈を促す。リスキンドも黙ってそれに従った。


 一行は、アリスがいないかのように存在を無視して、その場を立ち去った。


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