第69話 アリスの色仕掛け
レップ大聖堂の司教と打ち合わせを終えたところで、ラング准将はアリスから呼び出しを受けた。
――次から次へと、面倒事ばかりが降りかかってくる。
アリスのいる部屋へ向かうと、扉前の護衛はマクリーンが務めていた。彼と顔を合わせるのは、先日ショーの告白を目撃したあの時以来だ。
アリスがラング准将を部屋に呼びつけたので、マクリーンは気を揉んでいるようだった。気遣わしげにこちらを見る彼に、大丈夫だと視線で答える。
マクリーンが扉を開き、ラング准将を中に通した。
光が射し込む居心地の良い広間で、アリスが待ち受けていた。応接セットのそばではなく、彼女は窓を背にして佇んでいる。
「――キング・サンダースは?」
部屋には彼女の姿しかない。珍しいこともあるものだとラング准将は思った。
「留守よ。ねぇ、彼のことはいいから、早く来て。そんなに時間がないの」
適切な距離を置いて対面するも、アリスのほうが距離を詰めてきた。
この部屋はあまりに静かすぎる。彼女が動くたびに、ドレスの衣擦れの音まで聞こえるくらいだ。
つ……と彼女が手を伸ばし、ラング准将の肩に触れた。そっと。なまめかしく。そして戯れのように指でなぞる。
「私の護衛に戻らない?」
囁くような声音。彼女は伏せていた瞳を、自身の指先のほうにゆっくりと動かす。視線で撫でるように。
ラング准将はそれを静かに見おろしていた。彼の端正なおもてには、なんの感情も浮かんでいない。ただ静かで、どこか謎めいていた。
返事がないことに焦れたのか、アリスが睫毛を上げる。しっかりとアイメイクを施した人工的な瞳が、ラング准将の心情を量るように据えられた。
「ねぇ、何か言って」
「護衛は足りているでしょう。ご用があるなら、ハッチにおっしゃってください」
「冗談でしょう? ハッチなんか使えたものじゃない」
アリスの眉が顰められる。
まぁそれについては同感だ。表情も変えずに、ラング准将はそんなことを考えていた。
「あなたが言うことを聞いてくれたら、私……なんでもしてあげる。なんでも、よ。あなたが欲しいものを、あげるから」
アリスの声は蜂蜜のような甘さを含んでいた。絡みついて、ゆっくりと浸潤してくるような、奇妙な毒々しさもあった。
キング・サンダースと蜜月なのかと思っていたのだが……ラング准将は興味を引かれ、探りを入れてみることにした。
「私があなたの陣営に入ったら、サンダースが心穏やかでいられないのでは? ご存知のとおり、私たちは先日揉めていますので」
ロジャース家の居間で、ラング准将はサンダースを容赦なく叩きのめした。あの男は山よりもプライドが高い。相当恨みに思っていることだろう。
アリスもあの場面を見ているはずだ。奥の間の扉を開けて、こっそり覗き見をしていたのは承知している。
「でも、あなたならなんとかできる」
アリスの声に僅かに力が入った。平静を装っているが、彼女がかなり必死なことが伝わってきた。
「エドワード――あなた、中央に繋がるパイプを持っているわよね。サンダースも人の子だから、政治的な決定には従わざるを得ない。彼を王都に送り返すよう、すぐに手続して」
「枢機卿に頼んでは?」
「私はあなたにしてほしいのよ。ねぇ、いいでしょう? エドワード――あなたにお願いしているの。やると言って、お願いよ」
体を這うアリスの手の動きが少し変化した。まるで蛇のようだった。うねるように強弱をつけて、入り込もうとしてくる。
――その時だった。不躾なノックの音が響いたのは。
アリスが返事もしていないのに、外から扉が開かれた。ラング准将が振り返ると、乱入してきたのはなんとリスキンドだった。普段はのらりくらり半分脱力したような態度の彼が、珍しく顔を強張らせている。
「――ラング准将。枢機卿が急ぎの用でお呼びです」
「分かった」
ではこれで、とラング准将が暇(いとま)を告げる。別に何も起こりはしなかったというような、端正な態度で。
――入口付近でラング准将を迎えたリスキンドは、彼と一緒にアリスの部屋を辞去し、並んで歩き始めた。
廊下を進みながら、
「お邪魔でしたかね」
つい皮肉が口をついて出る。
するとラング准将がからかうようにこちらを横目で見た。
「怒っているのか? 珍しい」
「心配しているんです。危ないところだったでしょ」
「お前はいつから私の騎士(ナイト)になったんだ」
「……祐奈さんが泣くと困るので」
ラング准将にこんな忠告をする日が来るとは思いませんでしたよと、リスキンドは八つ当たり気味に考える。こんなお節介、こちらもしたくないっての。
「そんなことにはならない」
「でも結構いい雰囲気でしたよねー。もっとバシっとはねのけるかと思っていましたよ」
そう言いながら、これじゃヤキモチ焼きの彼女みたいな振舞いじゃないかとリスキンドは思っていた。でも苛々するのだから、どうしようもない。
横目でラング准将を見遣ると、彼は何か考えを巡らせているようだった。横顔のラインが綺麗で、なんだか毒気を抜かれてしまう。
しばらくたってから、琥珀色の瞳がこちらを向いた。どこまでも深みがあり、透き通っている。
「――アリスがミスを犯した」
「え?」
呆気に取られる。ありえないという思いが、理解を遅らせた。
ラング准将が微かに瞳を細めながら続ける。
「用心深い彼女にしては、らしくない失態だった。よほど焦っていたとみえる。優位に立って交渉を進めたかったようだが、かえって弱みをさらしてしまった」
「まさか」
あのアリスが? 今世紀最強の毒婦、みたいなしたたかさを持つ女だぞ。
ラング准将は『アリスが焦っていたせい』だと言うけれど、もしも彼女が本当に弱みをさらしたというのなら、別の理由からではないかとリスキンドは思った。
――彼女は意外と、ラング准将に本気なのかもしれない。だからこそペースを乱された。ラング准将とサシで対面した時点で、すでに冷静ではいられなかったのだろう。
「アリスが犯した失態って、なんです?」
「彼女はサンダースを恐れている。それをこちらに悟らせたのは、致命的なミスだ」
「え? だけど……そんなはずはない」
アリスの魔法のレベルは、祐奈をはるかにしのぐレベルだったらしい。
アリスと祐奈の面談の中身について、リスキンドはカルメリータから詳しく報告を受けていた。それはラング准将も同様である。
祐奈はアリスに完敗した。――けれど祐奈が弱いわけではない。共に戦ったリスキンドは祐奈のすごさを知っている。
おそらくであるが、祐奈の力量であっても、サンダースを制するのは簡単なのではないか。サンダースは超人ではないのだから。
それなのになぜ、向かうところ敵なしのアリスがあの男を恐れる?
「彼女は私に、中央とのパイプを使って、政治的にサンダースを排除するよう依頼してきた。自分の力では、それができないということだ」
「キング・サンダースってそんなに強いですかね?」
「そんなことはない。お前でも倒せるはずだ」
一瞬間が空いて、ふたりは真顔で見つめ合った。
なんでそんなことが分かるのだ、という気持ちを込めてリスキンドが眉間に浅い皴を寄せると、ラング准将がついと視線を逸らして、億劫そうに白状した。
「やつを締め上げたことがある」
「えー、マジすか! 見たかったぁ! いつですか」
「ロジャース家で。……言っておくが、絡まれたから仕方なくだ。俺のせいじゃない」
「えー、ほんとに?」
仕方なくぅ? 本当かなぁ?
疑いの眼を向けるが、ラング准将にしれっと流されてしまう。
「普通に打撃は効いたし、やつに特別な脅威は感じなかった。腕が立ちそうな護衛騎士に命じて、物理的に排除する方法も取れそうなのに、アリスはそれすらもできないでいる。さて――そうなってくると、アリスはサンダースの何を恐れているのか」
「レップにいるあいだに真相を突き止められますか? あまり時間がない」
状況はあまりかんばしくない。こちらの陣営はいいようにやられている。だからこそリスキンドは焦っていたのだ。対抗する手段がないから。
そんな中でやっと聞けた良いニュースだった。ところが、あと一歩――アリスとサンダースの秘密を知ることができなければ、どうしようもない。
中身の分かっていないカードは使えない。強い手であるのは分かっているのだが。
しかし、
「突き止めなくても、問題はない」
ラング准将がそんなことを言い出したのには、驚いてしまった。
「どうしてです?」
「――内情は知らずとも、脅しには使える」
耳を傾けながら、リスキンドは思わず顎を引いていた。
……おお怖……これだからラング准将だけは怒らせてはいけないんだ。
【後書き】
(※)念のための補足ですが、過去一度も、アリスとラング准将のあいだに肉体関係はありませんでした。(……要らぬ補足ですね、すみません……)
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