第67話 VSアリス③ ――敗北――


「何がおかしいのですか」


「あなた、自分だけが魔法を使えると、勘違いしているんじゃない?」


 気づいた時には炎の渦に取り囲まれていた。それはリング状に大きく広がり、敵味方含めその場にいた全員を中に閉じ込めてしまった。


 とぐろを巻いた蛇のようだ、と祐奈は思った。


 炎は波のように細かく振動しながら、長く尾を引き、ぐるぐると回り続けている。あの小刻みに揺れている上下運動はおそらく、あえてしなくてもいいような遊びの細工を入れて、その芸当をこちらに見せつけようとしている。


 ――コントロールは精密で繊細。あまりに完璧だった。


 祐奈は火の魔法を使えないが、使えたとしても、このような制御を行なうのは絶対に不可能だ。一輪車に乗った状態で、綱渡りをするくらいに難しい芸当だろう。神がかったバランス感覚が必要になってくる。


 そして機械のように正確なだけでもない。根底には、重厚な音楽の波長にも似た、鳥肌が立つようなすごみもある。


 ――熱い――


 皆が恐怖を感じ始めた頃、ふ……と炎の魔法がかき消えた。しかし消え方もまたとんでもなく凶悪だった。


 一体何が起きたのだろう。


 祐奈は視界が揺らぎ、大きくよろけてしまった。脳が揺れたような衝撃と気持ち悪さに、地上にいるのに溺れかけている心地になる。この衝撃により、祐奈の魔法も強制解除された。


 アリスによってもたらされた圧力は暴力そのもの。体全体が軋む。許してくださいと許しを乞うて、縋りつきたくなるほどの苦痛に襲われた。


 不快な残響だった。おそらくアリスが魔法を引っ込める際に、有り余った魔力の波動を、祐奈に向けて叩きつけたのだ。


 ――こんな使い方があるのか、と驚いた。魔法ではなく、魔力そのものを、鞭のようにぶつけてくるだなんて!


「――私のほうが、あなたより、強い」


 女王の貫禄でアリスが告げる。氷のように冷たい視線が、祐奈を射抜いていた。


 彼女に突きつけられた言葉が、胸にしっかりと刻まれる。アリスの力は圧倒的だった。彼女の魔法を正面から受け止めて、祐奈は正しくそれを悟った。


 ――レベルが違う。


 大人と子供ほどの力の差がある。いや、そんなものでは済まされないかもしれない。象と蟻くらいの差があるかも。あまりに格が違いすぎて、祐奈はアリスの実力の底を見極められないほどだった。


 どうあっても勝てない――勝てる気がしない。だけど、どうして?


「なぜこんなに差が?」


 カナンルートとローダールート――別々の道を歩んで来た差が、これなのか? しかしそんなことでは到底説明がつかない。


 祐奈は各拠点で正しく魔法を取得してきたはずだった。スタート地点のモレットでは、祝福の精霊アニエルカの指導も受けた。


 驕るつもりはないが、祐奈は自身の特性と、魔法行使の相性は良いようだと考えていた。イメージしたことを実行に移す過程で、誤差が出ることがほとんどないのだ。自転車に乗れるようになった時には、あれこれ考えなくてもバランスが取れているのと一緒で、自分の状態はよく分かっている。


 修正すべき欠点はないはず。――それでも、これ以上があるというの?


 何か祐奈が知らない要素が絡んでいなければ、現象の説明がつかない。


 ――先に祐奈が発した「なぜこんなに差が?」という問いに、アリスが気まぐれのように答える。


「理由はふたつある。まずひとつ目はね――滞在期間の差」


「え?」


「私はあなたより三カ月早くこの世界に来た。だから私はあなたよりも、体が世界と馴染んでいる」


「そんなことで?」


 あまりに単純ではないか。そしてそれは努力ではどうにもならないことだ。


「そんなこと、と言うけれど、時間のアドバンテージは大きいわよ。たとえばね――才能に差がない、同い年の幼い子供を集めて、かけっこで競争させてみたとする。普通に考えたら、才能に差がないのだから、皆横並びにゴールしそうなものだけれど、トップとビリのあいだにはかなり差がついてしまった――それはなぜか? 単純な話よ、たとえ子供たちの年齢が同じでも、誕生日が何か月も離れていたらどう? 早く生まれた子は、そのぶん体も成長している。初期の頃ほど、こういうところに差異が出るの。けれどまぁ、そうね――あなたと私のあいだに開いた差は、五年もたてばなくなるかもしれない。でも意味はないの。だってウトナに着くまでのあいだに、この差が埋まることはないんですから」


 では考えてみても仕方ない。しかし気になったのが、ルート分岐の条件だ。


 祐奈は自身が醜聞まみれだから、カナンルートに回されたのだと思っていた。しかしそうではなく、来訪時期で、すでに優劣はつけられていたのだろうか?


「私は遅く来たから、カナンルートを割り振られたのですか?」


「いいえ。あなたは上層部に嫌われたから、カナンルートになった。ただそれだけよ」


「では、アリスさんがカナンルートを進んでいた可能性もある?」


「ええ」


「本当に?」


「過去の例では、早くにこの世界にやって来た強いほうが、カナンルートになったこともあるのよ。だけどね――強いほうがそちらに回されて、実力で状況をひっくり返そうとしても、それは絶対に不可能」


「なぜ?」


 カナンルートは死のルートだと聞かされている。けれど強いほうがそちらを進んだのなら、生き残ることはできないのか?


「ふたりのあいだで実力が勝っているのだとしても、どのみち聖典の力には敵わない――ローダールートには聖典の加護がつくけれど、カナンルートにはそれがない。だからどうあってもカナンルートは負けルートなのよ。私がカナンルートだったとしても、運命に抗うことはできなかったはず。……嘘はついていないのだけれど、どうにも納得がいってないって顔ね」


「疑問だらけです」


「では、分かりやすく説明してあげましょうか――私が大天才であると仮定して」


 アリスが軽く肩をすくめてみせた。


「超難関の試験を受けたいとする――実力は十分――だって誰よりも賢いのだから。でもね、そもそも受験するために必要なお金がないとしたら? そして、私より賢くない二番手は、受験費用を払うことができる。――さて、この状況で試験に受かるのは、どちらかしら?」


「二番手」


「そういうこと。実力者だからって、それに見合った結果を得られるとは限らない。私には実力があるけれど、それに加えて、ローダールートをあてがわれるという最強の運もあった。だからあなたはどうあっても勝てない。諦めて」


 意図せず、呼吸が浅くなっていた。心が折れそうだった。


 けれどできるだけ情報が欲しい。祐奈は自身に鞭打つような気分で、なんとか言葉を押し出した。


「魔力に差が出ている原因ですが、『滞在期間の差』――それは分かりました。ほかには?」


「私は失踪していたあいだに、真理を司る聖具に触れた。――あなたはこの世界の言葉を表面上でしか理解できていない。でも私は違う。言葉の成り立ちを知っているようなもので、それはすべての基礎になる」


「それは言葉に関係する聖具なのですか?」


 言葉のみなら、ここ――レップの聖具とかぶっているようだが、彼女は『真理を司る』と語っているので、別のものだろう。


「なんと言ったらいいのか……それは言葉でもあり、進むべき道筋を示すものでもある」


 言葉。真理。何かが引っかかった。自分はその答えを知っているはずだという、根拠のない確信のようなものがある。


 しかし頭の片隅に浮かんだ正体不明なその直感は、泡が弾けるようにどこかへ消えてしまった。


 ――今、大事なヒントを掴んだ気がしたのに――その微かな痕跡を追おうとすればするほど、輪郭がどんどん曖昧になってくる。起きた瞬間に忘れてしまった夢を必死で思い出そうとしているような感覚。一度見失ってしまえば、もう手繰り寄せることはできない。


 祐奈はアリスに屈するしかなかった。


「……分かりました、ヴェールを取ります」


「そう、よかった」


「ただし、キング・サンダース氏をこの場から退去させてください。どうしてもこの人に素顔を見られたくない」


「あなた、かたくなねぇ。……まぁいいわ。いじめすぎて可哀想になってきたし、私も鬼じゃないから、そのくらいは聞いてあげる。でも、カルメリータとアンも一緒に下がらせる。私と、ショーと、あなた――三者面談でどう?」


 それでも祐奈は構わないが、カルメリータとアンが心配だった。サンダースのような狼藉者と一緒にしておくのは不安がある。


「アリスさんからサンダース氏に命じてください。ふたりに指一本触れぬよう」


「ちょっと、サンダースだってケダモノじゃないのよ? でも分かったわ。私って優しいから」


 アリスがサンダースのほうを向き、告げる。


「ふたりに手を出したらだめよ。約束を破ったら、あなたでも許さない」


「承知しました」


 内心どうなのかは分からないが、表面上は礼節をわきまえた態度で、サンダースが頭(こうべ)を垂れる。アリスはこの野性の虎をすっかり調教できているようだ。


 それでも少し思うところがあるのか、アリスはサンダースを油断のない目つきで見据えた。しかしそれは一瞬のことだった。


 いなくなる前にと、祐奈はアンのほうへ近寄る。彼女は足に根でも生えたかのように、アリスのそばで体を強張らせていた。顔についた傷があまりに痛々しく感じられて、胸が痛んだ。


「……私の力不足です。本当にごめんなさい」


 そっと囁いて、彼女の顔の横に手のひらを近づける。


『――回復――』


 ゴールドの光が舞い、あっという間に元の状態に戻った。驚愕のあまりアンは喘ぐように微かに唇を開いたが、言葉も出ないようだった。


 なぜかアリスのほうも体を強張らせていた。驚きよりも、そのおもてには恐怖が滲んでいるように感じられたのだが、なぜだろう。


「アンとカルメリータを向こうに連れて行きなさい」


 アリスがサンダースに命じると、カルメリータが心配そうにこちらを見つめてきた。祐奈は安心させるように、しっかりと頷いてみせた。――私は大丈夫です――たとえ大丈夫じゃなくても、ここは祐奈がしっかりする必要がある。危険なアリスのそばから、カルメリータを遠ざけなければ。カルメリータもこちらの意図を汲んでくれたらしく、もう一度祐奈を見つめてから小さく頷き返してくれた。


 サンダースを先頭に、カルメリータとアンも奥の間に向かって歩き始める。彼らはリスキンドと枢機卿が待つ表廊下のほうに出ることはない。向かうのは、元々サンダースとショーが隠れていた、奥の間だ。


 彼らが出て行き、大広間には三人が残された。


 ――アリスと、ショーと、祐奈。


 王都を出発した際、この三名で会談する未来が来ようとは、誰が予測しただろう?


 ショーがちゃっかりと隣にやって来て、図々しくも手を握ってきた。今になって深刻そうな顔を取り繕っているのが、見るにたえない。


「俺がついているからね。俺だけは君の味方だ」


 もうやめて。しかし祐奈はショーの手を振りほどく元気もなかった。無力感に打ちのめされていた。


 自分には実力も、運もない。自分が不甲斐ないせいで、アンは殴られ、血が流された。護れなかった。


 先行きも暗い。あの強靭な炎の魔法――どうやったらあれに勝てるのか、想像もつかなくて。


 ここにラング准将はいない。いつまでそばにいてくれるのか、もう分からない。叫び出したくなるほどの孤独に襲われる。


「さぁ、仕切り直しね――ヴェールを外して、おかけになって、祐奈さん」


 アリスは姫君のように、にっこりと可愛らしい笑みを浮かべた。

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