第66話 VSアリス② ――血――


 祐奈の態度に変化があったことを感じ取ったのか、アリスが小首を傾げてみせる。


「お願いというのはね、あなたにヴェールを取って欲しいってことなの。というのもね? ショーがあなたの顔を気に入っているから、ヴェールなしがいいんですって」


 何を言っているのだ。提案された内容が心底気持ち悪いと思ったし、この騙し討ちにこの男も関わっていたのだと知って、さらに怒りが込み上げてきた。


 反射的にショーを横目で見ると、相変わらず能天気な佇まいだった。緊迫した状況も、祐奈の立場も、何ひとつ理解していない様子で、にっこりと笑みを浮かべて話しかけてくる。


「会えて嬉しいよ、祐奈。親睦を深めるために素顔で話したいんだけど、だめかな」


 祐奈は衝動的になることがあまりない。ヒステリーを起こした経験もほぼないのだが、かなり危険な領域に陥ったことは何度かあり、それはすべてこの世界に来てからのことだった。


 その中でも今がトップクラスにイラついていた。


 ショーの大馬鹿野郎! ティーセットを顔面に投げつけてやりたい衝動に駆られる。


 どんだけなんだ! いい加減にしろ! 顔も見たくない! 大嫌いだ!


「祐奈さん、ヴェールを取って」


「お断りします」


「あら、断っていいって、誰が言った?」


 アリスが退屈そうに足を組み直すと、キング・サンダースが近寄ってきた。


 祐奈はほとんど無意識に雷撃を放っていた。咄嗟に出したので、『弱』よりもさらに弱い。それは放電に近いレベルであったが、バチリと手を弾かれたサンダースのおもてに驚愕の色が浮かぶ。


「――私に触らないでください」


 しっかりと声を出す。


 ラング准将は祐奈のことをずっと大切に扱ってくれた――あなたにはその価値があるのだと、態度でも、言葉でも、示してくれた。


 そうされると祐奈も、自分に対して意識が変わってきた。あれほどの人が護ってくれているのだ。誰であろうとも、尊厳を穢させたりはしない。


「ちょっと、祐奈さん」


 アリスが『困った子ね』と言わんばかりの笑みを浮かべる。けれど余裕ばかりではないようで、そこにはほんの僅かに驚きも混ざっていた。――まさか祐奈が魔法を使って反撃するとは思ってもみなかったのだろう。


 しかしソファから腰を上げようともしていないので、深刻な事態とまでは考えていないらしい。


 祐奈のほうは警戒態勢を解かなかった。


「サンダース氏を下がらせてください」


「なぜ?」


「ヴェールを取れとのことですが、私は彼に素顔を見られたくない。この人が同席する限り、あなたの要求を呑むつもりはありません」


「驚いた」


 アリスがソファの座面に手を置き、ゆったりとした優雅な仕草で腰を上げた。彼女がすっと背筋を伸ばして立つと、空気がピリッと引き締まる。履いているヒールが高く、元々高身長でもあるので、立ち姿に圧倒された。


「――次」


 アリスが冷ややかな瞳で祐奈を見据え、一言一句、区切るように告げた。


「生意気を言ったら、承知しない。サンダースに対する無礼な態度も、禁止する。従えないのなら、あなたからラング准将を取り上げるわよ」


 明確な脅しだった。気をしっかり保とうと思うのに、やはり動揺してしまう。アリスはよく分かっているのだ――祐奈の急所を。


 ラング准将がいなくなる。


 それは王都を出てから、心の奥底で祐奈がずっと恐れていたことだった。よりによって今ここで、アリスからラング准将のことを言われるなんて。息が詰まる。


 彼を渡しはしない、そう啖呵を切る権利が、果たして自分にあるのだろうか。


 社会的に、祐奈は罪人も同然の扱いを受けている。王都では性的嫌がらせをした下劣な聖女として、取り調べを受けた過去もある。だから清廉で美しいと評判のアリスが『ラング准将が欲しい』と望むのなら、祐奈にはどうすることもできない。


 そして何より、ラング准将自身も、アリスの元へ行くことを望んでいるのなら?


 王都にいた際、彼は皆の犠牲になる形で、祐奈の護衛に付くこととなった。それは誰も希望者がいなかったせいだろう。責任感の強いラング准将は、部下に汚れ仕事を押しつけることができなったのかもしれない。


 けれどここへきて状況が変わった。――護衛を率先して引き受けそうな人間が現れたのだ。それはショーである。


 彼は今や祐奈に好意を抱いているらしいから、この先、専属護衛を務めるつもりになっているのかもしれない。ということは、ラング准将がこれ以上自分を犠牲にしなくてもよくなる。


 ――ところでショーはサンダースの背後に佇んでいるのだが、困惑するばかりで、ただ事態を静観しているだけ。


 やはりアリスに対して尊敬の念があるので、あちらに逆らってまでは、祐奈を助ける気はないらしい。いや、むしろ、『君に好意はあるけれど、それはそれ――祐奈は立場をわきまえて、アリス様にちゃんとへりくだろうね? 失礼だよ?』くらいの感覚なのかも。


 この先の長い旅路をショーと共に進むという暗黒の未来図が脳裏にちらついてしまい、吐き気が込み上げてきた。


 ――怖い。底なしの穴に落ちて行くかのような、とてつもない恐怖を覚える。


 祐奈が怯んでいるのを見て、カルメリータが覚悟を決めた。


「――リスキンドさん、来てください!」


 振り返り、扉のほうに向けてカルメリータが声を張るのだが、奇妙なことになんの反応もない。


 アリスがゆったりと微笑んでみせる。


「レップはね、『音の聖堂』とも呼ばれているの。ここの聖具は音に関係するものだから、貴賓室の防音は完璧にできている。外の音は普通に中まで響いてくるのだけど、中の音は一切外に漏れない。――だから助けを求めても無駄よ、廊下側には音が聞こえていないから」


「それなら扉を開いて、助けを呼ぶまでです」


 出入口に向かって歩き出そうとしたカルメリータを、先回りしていたサンダースが止める。彼がカルメリータの腕を掴み、そのまま乱暴に捻り上げようとしたのを見て、祐奈の頭にカッと血が上った。


 警告なしで雷撃を彼の腕に向け、放つ。バチリと音がして、サンダースが腕を押さえてこちらを恐ろしい形相で睨んできた。


 しかし祐奈のほうだって彼に負けず劣らず怒っていた。


「――下がりなさい。私の侍女を脅すことは許しません」


 一触即発の空気。


 アリスがふぅ、と息を吐き、


「分かったわ。あなたの侍女に手を出すのはやめる」


 そう言って、優雅な仕草でアンを呼び寄せた。


「こちらへいらっしゃい、アン。あなたは枢機卿の側近でしょう。ここは私に敬意を示しておいたほうがいいわよ」


 アンは顔を強張らせた。しかしアリスからの命令には逆らうことができず、従順に足を踏み出した。


 この時の祐奈はどうしたものか決めきれずにいた。――『行かないほうがいい』と警告するのもおかしな話だ。アンは枢機卿の部下なので、どちらかといえばアリス側の人間と言えるのかもしれないし。


 アリスには確かに底知れないところがあるが、そうはいっても女性であるし、暴力的な手段に訴えることもないはずだ――そう思っていた。


 しかしその見通しは甘かった。祐奈はアリスのことをみくびりすぎていた。


 アリスはソファの前に泰然と佇み、アンが目の前にやって来るのを待った。


 アンがそばに来ると、アリスは優雅に腕を持ち上げた。それはまるでオーケストラを前に指揮棒を掲げるマエストロのような、厳格な仕草だった。


 そうして情け容赦もなく、アンの頬を平手で打ち据えた。手加減は一切なかった。


 肉を叩く激しい音が響き、アンはローテーブルを押しのけながら床に倒れ伏した。テーブルの角に打ちつけたのか、側頭部を押さえて蹲ってしまう。


 あまりにありえない事態に、祐奈は呆気に取られてしまった。


 一体、何が起きたの? いきなり殴りつけるなんて!


「なんということを……」


「当然の躾(しつけ)よ。彼女は枢機卿の側近でありながら、あなたの侍女が騒ぐのを黙って見ているだけで、止めようともしなかった。私とヴェールの聖女――どちらの味方につくべきか、分かり切ったことなのに、愚かだわ。彼女にはこれからローダーまで付いてきてもらうから、今のうちに思い知らせておかないと――だけど、これで彼女も理解できたでしょうね」


 打ちのめされたアンが血の気の失せた顔を上げると、その唇は痛々しく切れて、血が滲んでいた。


 アリスがピンヒールでアンの義手を踏みにじる。その美しいおもてには獰猛な笑みが浮かんでいた。


「――ほら、ごめんなさいは? アン・ロージャ――お前、左手がないだけじゃなくて、口もきけなくなったの? お馬鹿さん」


 到底許すことはできない。祐奈は集中して魔力を練り上げていく。渦巻くように祐奈の周囲に力が集まりつつあるのを、当然アリスも関知しているはずだった。


 彼女がこちらをチラリと横目で見た。


「驚いた。私を魔法で攻撃するつもり?」


「彼女の体から足をどけてください」


「ふふ、勇ましいこと」


 アリスはおかしそうに笑ったあと、床に座り込んでいるアンの胸倉を掴んだ。その細腕のどこにそんな力がと驚きを覚えるくらいの乱暴さで、アンを無理矢理立たせる。非力なアンはよろけ、アリスの腕に縋りついてしまう。


「――もう一度言います。アンさんを解放してください」


「嫌だと言ったら?」


「攻撃します。警告はこれが最後です」


「やだもう、おっかしい!」


 アリスが噴き出した。それがこの場にそぐわぬ、あまりに無邪気な笑みであったので、ぞっとするような狂気を孕んでいるように思われるのだった。

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