第64話 すれ違い


 翌日も朝からラング准将は大人気だった。


 レップ大聖堂の司教、枢機卿、アリス――誰も彼もがラング准将と話をしたがるよな、とリスキンドは考えていた。このあとも顔を出すように言われているらしい。


 ちょっとやそっとのことではびくともしないはずの彼が、なんだか少しお疲れモードのように見えたので、リスキンドはつい声をかけていた。


「もしかして……機嫌、悪いですか」


「どうしてそう思う?」


「うーん……」


 リスキンドは躊躇った。答えが出ていないのではなく、口にしてよいのかを。


 そもそも彼は好き勝手に振舞っているようでいて、他者が大切にしている領域に踏み込むかどうかの判断は、かなり慎重に下すところがあった。おめでたいことなら冗談めかしてからかうこともあるけれど、今回のケースはまた違うというか、ラング准将のほうから相談されたのでなければ、迂闊に口を出さないほうがいいと思っていた。


「遠慮しなくていい」


「そうですねぇ、機嫌が悪いのとも違うような」


「機嫌は悪くない」


「……では、途方に暮れている?」


 自分で言ったくせに、その内容のありえなさに改めて驚いてしまう。


 ……ラング准将が途方に暮れているだって? そんな馬鹿な!


 彼は命のやり取りをしている時でさえ、すべきことを見失ったりはしない。けれど今日の彼はやはり、いつもと違うように感じられるのだ。


 この時ふたりは書斎で話をしていた。


 ラング准将は机上に浅く腰かけ、腕組みをしている。彼にしてはお行儀の悪い態度であるが、お育ちが良いせいか妙にさまになっていた。


 リスキンドは彼の傍らに佇み、気遣わしげにラング准将を見遣る。


 ラング准将のアンバーの瞳が、なんだか億劫そうに伏せられた。端正な大人の男がこういう仕草をすると、妙な色気が滲むものだ。


 それを眺めるうち、リスキンドは本格的に心配になってきた。


「あの、大丈夫ですか?」


「――祐奈のことだが」


「え」


「彼女は……ショーが好きだったのだろうか」


 ラング准将の美しい虹彩が気まぐれのようにこちらに向く。リスキンドは呆気に取られ、彼の琥珀色の瞳を見つめ返した。


「はぁ?」


 驚きすぎて、衝撃が少し遅れてやってきたくらい。


 ……ええ? まさか、冷静沈着、ミスをしない、ミスター・パーフェクトなラング准将に対して、『あなた正気ですか?』という感想を抱く日がこようとは!


「昨日のあの告白」


 ラング准将が眉根を寄せ、口元に仄かな笑みを浮かべる。


 なんともいえない空気が流れた。


 分かっている――彼はおかしいから笑っているわけではない。たぶん今リスキンドも同じ表情になっているはずで、こちらの内心も、おかしみとは無縁だった。


 根底にあるのは、呆れ。そして怒り。


 個人的な感情は抜きで判断したとしても、あれはない。


 散々ヴェールの聖女を貶めておいて、『愛している』は勝手がすぎる。チンパンジーでももう少し分別をわきまえていると思う。


 遡ってみれば、ショーが王都で祐奈を糾弾したことがきっかけで、揉めに揉めることとなった。


 ヴェールの聖女の評判が地に落ちたため、引き取り手がおらず、ラング准将は祐奈の護衛をすることになった。それは結果的にはよかったのかもしれないが、だからといってショーを褒める気になれないのは当然の話だった。


 国の一大事が、ショーの世迷言ひとつで、捻じ曲げられてしまった。


 正しい経緯を踏んだ上で祐奈がサブに回されたなら、それは仕方のないこと。けれど現実はそうじゃない。


 ひとりの無害な女性をあれだけ叩きのめしておいて、呆れたことに、今度は恥知らずにも好意を示す――ラング准将としては、いい加減にしろと言いたいところだろう。そしてそれはリスキンドも同じだった。


 けれどたぶんラング准将がこれから言うことは、そういった道義心とは関係がないことだ。おそらく私的な事柄。


「ショーから『愛している』と告げられて、彼女は何も返さなかった。俺は祐奈がすぐに拒絶すると思っていた。結婚しようと投げかけられたんだ――『いい加減にしろ』という言葉が口を衝いて出るだろう、と。でも違った」


「それはでも、驚いただけでは?」


「そうかな」


「そうですよ」


 どうして分からないのだろう、リスキンドは心底不思議に思った。祐奈を見ていれば、ショーに気がないことは分かるじゃないか。


 それはもう『1+1』が『2』だというくらいに、明白なことである。それがよりにもよって、当のラング准将が分からないとは。


 ――あなたなのに。


 ショーがどうのこうのではなく、祐奈の一番近くにいるのは、あなたなのに。


「元々、祐奈はショーに好意があったのかもしれないな、と」


 彼の呟きはあとに何かを残した。まるで水に落としたインクの染みのように、ジワリと。


 それを聞いたリスキンドは眉尻を下げ、小さく息を吐く。……ラング准将も人間なんだなぁ。しみじみとそんなことを思いながら。


「それは絶対ないと思いますよ」


「なぜ?」


 なぜ、って。


「彼女を見ていれば、分かります。分からないやつは寝ぼけている」


「ずいぶんな物言いだな」


「私情を挟むと、物事が見えなくなりますからね。早く目を覚ましてください」


 そう言ってやると、ラング准将が片眉を上げてみせた。それはいつもの彼らしい、余裕のある大人な態度だった。


 彼の口元に笑みが浮かんでいるのを眺めて、リスキンドも微笑んでみせる。


「……お前に説教されるとはね」


「人聞きの悪いことを。これは励ましているんですよ」


 部屋を出ていくラング准将の背中を見送りながら、リスキンドは難しい顔になっていた。


 すれ違っているなぁ……これはよろしくない兆候かもしれない。


 遠くに見えていた雨雲が、ふと気づけば頭上に差しかかっていたというような、なんともいえない嫌な予感がした。




   * * *




 ラング准将不在の中で、祐奈はアリスから呼び出しを受けた。


 伝えにきたのは例の触覚のような眉をした修道女で、先日同様、事務的で冷淡な態度だった。「すぐにアリスの待っている部屋に行くように」と告げるだけで、詳しい説明をする気もなさそうである。


 そういえば……と祐奈はあることを思い出していた。


 浴場のダブルブッキングについて、枢機卿は『レップ側に抗議する』と言っていたように記憶している。あれはどうなったのだろうか。きつく言い含めておいてくれないと気が済まないということでもないのだが、こうなってくると顛末が気になってくる。


 というのも、修道女の態度があまりに不遜であり、先日のミスを気にしている素振りが見られなかったからだ。枢機卿経由で叱られれば、普通ならば、今後は失礼のないようにと過分に気を遣いそうなものである。しかしそんな感じもない。


 リスキンドは警護役として浴場に帯同していたし、一連の出来事に納得もいっていなかったので、彼が口火を切った。


「昨日のレップ側の不手際により、こちらは大変不快な思いをしたのだが――まずそのことを詫びたらどうだ」


「わたくしはただの伝言役です。今はアリス様からの呼び出しのお話をしていますので、関係ない話をされても困ります。無駄にゴネるのをやめて、早くアリス様の元へ向かってください」


 伝言役と言うわりに、修道女の言動はまるで上司か得意先のそれである。しかも彼女はレップではかなり高い地位にいることがカルメリータの調べで分かっているので、『私は知りません、関係ありません』という態度を取るのはいかがなものかと思われた。


「あの件で枢機卿から抗議は行っていないのか」


「枢機卿には誠心誠意、お詫びしました」


「こちらには?」


「アリス様のお部屋にお向かいください――これ以外、申し上げることはございません」


 取りつく島もない。これにはリスキンドもすっかり気分を害していたし、カルメリータも同様だった。普段温和なカルメリータがきつく眉を顰め、修道女を睨みつけている。


 そんな中、祐奈は考えを巡らせていた。……なるほど。


 あの一件は枢機卿に対しては詫びるが、ヴェールの聖女に対しては、頭を下げる必要はないと考えているわけね。清々しいほどに分かりやすい。


 ここで『こちらにも誠心誠意詫びてください』と迫ってみても、彼女が改心することはないだろうし、それこそ時間の無駄になる。この人はこれっぽっちも申し訳ないと思っていないのだから。


 祐奈は深く息を吐き、落ち着いた声音を心がけて彼女に問いかけた。


「アリスさんとの会談――了承してもいいですが、条件があります」


「あなた様は条件をつけられる立場では――」


「では、私の首に縄を括って、引きずっていきますか?」


 祐奈が退かないと分かったのか、修道女の取り澄ました顔に嫌悪感が滲んだ。


「そのように居直られても困ります。とにかく急いでもらわないと」


「では条件を聞くべきです。私は譲りません」


 しばし沈黙が流れた。相手は敵意と苛立ちを滲ませてこちらを睨み据えてきたのだが、祐奈のほうは『関係ない』という気分だった。


 誰かに嫌悪の感情を向けられるのが、以前はつらかった。他者には礼儀正しく親切に振舞うようにしていたから、その返礼が心ないものであった場合、なんだか裏切られたような気持ちになって。


 自分が不甲斐ないから、そのように軽く扱われてしまうのかと、自身を責めてみたりもした。


 けれど長い旅をしてきて――少しだけ変わったのかもしれない。


 こちらに対して苛立ちを覚えるのも、一方的に何かを要求してくるのも、それはすべて相手の都合だ。祐奈には関係がない。


 あのラング准将でさえ、有象無象の輩(やから)から、面倒事を押しつけられてしまうことがあった。


 その時、彼はどうしていた? ――自分の頭で考えて、判断していた。


 時にはバランスを見て、ラング准将のほうが折れることもあった。彼は万事が万事、正論を通さなければ気が済まないという主義の人でもなかったから。


 その場合でも伝えるべきことは伝えていた。だから祐奈もそうすべきだ。


 相手が勝手を言うのだから、こちらが言う権利もあるはず。別にへりくだって、レップ大聖堂の人たちを満足させてやる義理もない。


 祐奈は慌てずに待った。この状況でこちらがしてやるべきことは何ひとつない。


 ――さすがに分の悪さを悟ったのか、修道女の表情が変わった。侮蔑と高慢が引っ込み、改まった表情になっている。それでも『気さく』とはほど遠い有様であったが、前よりはいくらかマシだった。


「……どうしろとおっしゃるのですか」


「アリスさんとの会談ですが、枢機卿にあいだに入っていただきたいです」


「ですが、枢機卿はお忙しい方です」修道女が高慢に言い放つ。「大体、このようなことで煩わせるのは――」


「あなたが今すべきことは、この部屋をすぐに出て行き、枢機卿の元に向かうことです。そして協力を取りつける。――私から話すことは、これ以上ありません」


 祐奈が言葉を切ると、控えていたカルメリータが前に出た。彼女らしからぬドスの利いた低い声で修道女に詰め寄る。


「私に力ずくで摘まみ出されたくなければ、とっとと出ていって」


 修道女は尻尾を巻いて逃げ帰っていった。カルメリータのあまりの迫力に、本当にそうされると恐れたのだろう。


 リスキンドが肩を竦めてみせる。


「俺の出る幕はなかったな。カルメリータは優秀な護衛役だ」


「今頃気づいたんですか?」


 祐奈は横目で彼を眺め、笑み交じりにそう言ってやった。


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