第62話 首の皮一枚


 なぜラング准将がここに――祐奈は目を丸くしてしまう。


 彼は祐奈がブランケットを羽織っているものの、肌着姿で枢機卿と向き合って座っているのを見て、すっと瞳を細めた。


「……何をしているのですか」


 冷ややかな問いだった。彼の瞳は祐奈のほうを向いておらず、真っ直ぐに枢機卿を見据えている。


 静かなのに、なんだろう……ものすごい圧がある。盗賊退治の時に遠目で見たあの、容赦のなさに近い感じがした。


 祐奈はまずいと思った。何がまずいのかは理解できていないが、色々とまずい気配は感じていた。


「ラング准将、どうしましたか?」


 間の抜けた問いを発してしまう。


 彼の澄んだ虹彩がこちらに向く。物柔らかな気配が削ぎ落されると、彼の崇高さが強調され、そのあまりの美しさに圧倒されてしまう。


 たぶん怒っていると思われるのに、乱れや粗雑さがどこにもない。優雅で、棘がある。


 少し退廃的で、仄かに夜の匂いがして――その大人な色気に当てられクラクラしてしまった。


「ここに来てみたら、見張り役のリスキンドから『あなたが出て来るのが遅い』と聞かされたので」


「ごめんなさい」


「謝ってほしいわけじゃない。しかし未婚の女性がそのような格好で、異性とふたりきりになってはいけません」


 謝ってほしいわけじゃないと言われたけれど、じゃあなんと言ったらいいのだろう? ごめんなさい以外の台詞が思い浮かばない。


「彼女を叱らないでやってくれ。私が不意打ちで鍵を開けて、裏口から入ったのだから」


 枢機卿がフォローに入るのだが、そもそもラング准将は、彼に腹を立てているのだ。祐奈に対して、ではなく。


「ありえない」


「私のせいでもない。レップ側の不手際だ。あとで私のほうから厳重に抗議しておく」


「レップのせいにして、それで済むとでも? あなたに責任がないとは言わせない。すぐにここを出ていくこともできたはず」


「だけど裸を見たわけじゃない。私が入った時、彼女は身支度を終えていた」


「これは『身支度を終えていた』と言えるような格好ではないでしょう」


「それはそうだが、一応服は着ていたんだからいいだろ!」


 祐奈はもう身の置きどころもなかった。羞恥の極みだ。色々と軽はずみだった。それに何より……ラング准将に軽蔑されるのはつらい。


「枢機卿、今すぐ裏口から退去してください。理由は分かりますね――表口から出れば、中で聖女と何をしていたのかと勘繰られる」


「分かった、言うとおりにする」


「入浴はあとで改めてどうぞ。――祐奈が服を着ていて、よかったですね。首の皮一枚、繋がった」


 そう告げられた枢機卿は、訝しげにラング准将の端正な顔を見つめ返した。そして釘を刺されることとなった。


「痴漢行為であなたを失脚させてやろうかと思っていたところですが」


「おい、勘弁してくれ!」


「――貸し、ひとつですよ」


 その貸しひとつが相当高くつくであろうことが、ありありと分かる脅し文句だった。


 湯冷めを通り越して、凍える……と祐奈は思った。



   * * *



 その日の晩、リスキンドと少し話をすることにした。――ロジャース家のそばで起こった、例の件について、だ。


 祐奈がショーの腕を治療したあと、リスキンドはショーから目を離した。結果、ショーは祐奈に接近し、好き勝手に振舞うこととなった。


 つまり護衛として不手際があったわけだが、そのことについてリスキンドときちんと話し合ったことはなかった。


 おそらくラング准将からリスキンドには注意がいっているのだろう。けれど祐奈があの件について何かを言ったことはなかった。あの時も今も、祐奈はリスキンドがしたことを気にしてはいなかったが、この面談は彼のためのものだった。


「書斎に行こうか」


 とリスキンドが言う。確かにそれがいい。


 祐奈にあてがわれた西翼の居室は、スイートルームのような造りになっていた。リビングルームが中心にあって、祐奈が寝泊まりする主寝室、そのほかに寝室が四つ。


 そして書斎までついていた。図書館のように大袈裟なものではないが、木製の書棚には分厚い本が並んでおり、かなりのものだった。


 書きもの机のほかには、ローテーブルとソファの応接セット。


 ラング准将が書斎入口まで付き添ってきて、


「――祐奈に酒は飲ませるな」


 と念押ししてから扉を閉めた。


 これを聞いた祐奈は複雑な気持ちになってしまった。


 ……やっぱり苦手克服の部屋で何かあったんじゃないだろうか?


 今日はショーの大告白だの、浴場での枢機卿との一件だのと色々あり、結果的になぜかラング准将と気まずいことになってしまったので、なんともやりきれない。


 祐奈はふたりがけのソファに腰を下ろした。リスキンドは斜め向かいにあたる、ひとりがけの肘かけ椅子に座る。


「ラング准将はああ言っていたけれど、大人同士の話は、酒(これ)がないとね」


 テーブルの下から酒瓶とグラスふたつを取り出しながら、そんなことを言う。


 だいぶ前に祐奈のほうから、「夜、ちょっと話しましょう」と伝えてあったので、書斎にあらかじめこれらのものを仕込んでおいたのだろう。……準備が良いと言えばいいのか、悪知恵が働くと言えばいいのか。


「リスキンドさん。私は飲みたくないです」


 祐奈は元の世界にいた時、校則を破らない子供だった。


 破るのが怖いというよりも、破ることに魅力を感じないというか。ものすごく珍妙な規則でないならば、別に無理してまで反抗しなくてもいいかなと思ってしまう。


 そういうメンタルの人間であるので、リスキンドに飲酒の誘惑をかけられても、祐奈はそうしたいとは思わなかった。隠れて飲むことにワクワク感を覚えない。


 とはいえ、こちらの世界では祐奈は成人扱いされるので、堂々と飲酒したところで、法的には咎められることもないのであるが。


 リスキンドはさっぱりした性格なので、特に気を悪くすることもなかった。


「そう? まぁ強要はしないよ。俺は飲むけど」


「私のことはお気になさらず」


 リスキンドはグラスに琥珀色の液体を注ぎ、一口すすった。舌の上で転がすようにして、瞳を細める。


「うーん」


「どうしました?」


「いやぁ……さっきのラング准将の言葉が気になって」


 祐奈がピクリと身じろぎすると、リスキンドの青灰の瞳がちらりとこちらに向く。


「酒を飲ませるなって、なんでわざわざ言ったんだろう?」


「それはこうして、リスキンドさんがこっそり酒類を持ち込むであろうことを見越して――」


「それはいいんだけどさ。ラング准将の言い方って、祐奈っちに飲酒させると重大な問題が起こる――ていう口ぶりじゃなかった?」


「う……」


「前に、酒の聖具があったじゃん? 祐奈っちさぁ、あそこで何かやらかしたんじゃね?」


 痛いところを突かれた。確かにあの晩の記憶は曖昧。祐奈は気もそぞろになってきて、ドレスのスカートを指で摘まんだり、伸ばしたりと、落ち着きなく手を動かしてしまう。


 それを眺めながら、リスキンドが悪魔の囁きを落とす。


「あのさぁ、気にならない?」


「な、何がですか?」


「飲むとどうなるのか。苦手克服の部屋では、ドリンクを結構飲んでいたけれど、俺があそこにいた時は別に変じゃなかったよね。てことは――ある程度は量を飲まないと、本性が出てこない?」


「本性」


 そんな、人を酒乱みたいに。


「酒乱じゃん。ラング准将がドン引きするくらいだよ? 絶対、酒乱じゃん」


 怖すぎる。言葉に出していないのに、リスキンドは読心術ができるのだろうか。あと、酒乱を連呼しないでほしい。


「ラング准将はドン引きしていません。ただ飲ませないよう言っただけで――」


「あえて言うくらいだからよっぽどだよ」


「そんな、それは、でも」


「知りたくない? 自分が酔ったらどうなるかー」


「それは、その」


「俺なら友達だから、君に嘘はつかない。暴力癖があったとしても、悪態をつく癖があったとしても、ものすごい音痴な歌を聞かせたがる癖があったとしても、ちゃーんと正直に教えてあげるよ。知っといたほうがいいと思うけどなぁ……ラング准将にあの晩、何をしたのか」


 祐奈はグラスに手を伸ばしていた。


「――いただきます」


「そうこなくっちゃね」


 リスキンドがにんまりと笑い、酒瓶を持って、祐奈のグラスに酒を注いでくれた。




   * * *




 お酒を飲みながら、少しずつ話をした。


「……ごめんね、祐奈っち」


 リスキンドに改まった口調で謝られる。


「ショーがさ、あの時言ったんだ――君に謝りたい、って。俺は良い機会だと思った。君はやつを許す必要はないけれど、頭を下げられれば、いくらか慰めになるんじゃないか、って。でも……俺の判断ミスだった。あいつがあんな変な状態になるとは想像もしていなくて」


 祐奈は視線を彷徨わせた。視界は黒い紗で遮られている。


 ヴェール――すべてこのヴェールだ。


 ハリントン神父は『これがあなたを護ってくれる』という意図で渡してくれたようだった。けれど振り返ってみると、このヴェールが原因で色々とややこしくなりすぎている気がする。これをかぶったことで、祐奈のかたくななところが強まった。


 気の置けない仲間と旅をしてきて、外す機会はいくらでもあった。けれど祐奈がこれに縋ることをやめられない。


 祐奈は考えながら、ポツリポツリと告げる。


「リスキンドさん、私……あなたの判断ミスだとは思っていないですよ。もっと早くに、そのことをあなたに伝えるべきでした」


「それは違う。祐奈っちは優しすぎる。あれは俺がだめだった。初め――俺はショーの申し出を却下した。危険だと分かっていたからだ」


 意外な話だった。リスキンドはショーの申し出をあまり深刻に捉えずに、すぐにOKしたのだと思っていた。


「でも、最終的には許可したのですね。どうして?」


「ショーが、君との道中の出来事を仄めかしてきたから」


「え?」


「なんかさ、男女間の秘めごとでもあるような口ぶりだった。すごく真実味があるように響いて。だから君は俺に、ショーとの会話を聞かれたくないんじゃないかと」


 びっくりして口が開く。


「そんなものは何もありませんよ」


「そうだね。君は嘘をつかない。でもショーはそう思っていないってこと」


 混乱し、祐奈は額を押さえる。ヴェールがくしゃりと指に絡まった。


「……ショーさんが私を性的嫌がらせで訴えたのは、彼なりになんらかの根拠があったということですか? 私にはそのつもりはなかったけれど」


「まぁ、やつは思い込みが激しいから」


「確かに」


 ああもう、げんなりする。どうすりゃいいの、って気分だ。


 リスキンドも同感なのか、鼻のつけ根に皴を寄せている。


「今日の告白、なんだよ、アレ――祐奈――大好き、愛している! キスしたい! 結婚しよう! だっけ」


 居たたまれないはずなのに、酒が回ってきたのか、その言い回しを聞いて、祐奈は噴き出してしまった。


 リスキンドも椅子の背に上半身を預けて、笑みをこぼしている。


 なんだか訳もなくしんみりしてきた。人生って苦くて、どこか滑稽だ。自分も含めて皆が必死に生きているからこそ、痛々しく感じられることがある。

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