第61話 手まで赤い


「――君は誰だ」


 枢機卿ローマン・アステアの鋭い視線がこちらに向いている。


 え? 忘れられている? 祐奈は唖然として――そして気づいた。


 そもそも彼はこちらが誰か分かっていないのだ。それはそうだろう。今の祐奈はヴェールをかぶっておらず、素顔をさらしている。


「私は祐奈です。以前お会いした時はヴェールを着けていました。……というか、普段はずっと着けているんですけど」


 気まずい思いでそう告げると、枢機卿が顔を強張らせた。


 彼の表情には様々な感情が浮かんでいる――驚愕、怒り――そして、あの追い詰められたような瞳に滲んでいるのは――恐怖、だろうか? けれど、なぜ?


「なんてこった、畜生……!」


 思わずといった風情で枢機卿が悪態をつく。混乱しているのか、彼は頭を振り、視線を逸らした。


 枢機卿の衣服には肩のあたりに雫がついている。雨の中を歩いてきたのだろう。なんだかそれが不思議に感じられた。


「どうして裏口から?」


 祐奈が尋ねると、枢機卿が顰めつらをこちらに向ける。


「何?」


「いえ、表口――館内から入らなかったのはなぜですか?」


 祐奈は枢機卿をこれっぽっちも疑っていなかった。


 以前会った彼は立場に相応しい常識的な振舞いをしていた。今は混乱の最中にあるようだが、かえってその取り繕っていない態度も、彼の高潔さを表しているように思われた。


 少なくとも、興味本位で祐奈の入浴を覗きに来るような俗物ではないだろう。


「私が滞在している部屋からここに来るには、外階段を使ったほうが早いんだ。少し濡れたとしても、入浴してしまえば同じだから」


 では、彼は普通にお風呂に入る目的でここへ来たのだ。


 それで気づいた――高位聖職者用の浴場――ああ、そういうことか。


 枢機卿は祐奈と対面した時点で、レップ側の非常識な対応に気づいていたらしい。


「まったくありえない! 聖女に提供しているのに、私にも黙ってここを使わせようなどと」


 祐奈はレップ側から浴場の鍵を預かっているが、これにはスペアがあり、枢機卿にも貸与されていた。だから彼は裏口の施錠を解除し、こうして入って来ることができたのだ。


 しかし危ないところだった。もう少し彼が早く着いていたら、裸で対面していたかもしれない。


 祐奈は赤面し、レップの対応は確かにひどいものだと、彼女にしては珍しく怒りを覚えていた。せめてほかの人も利用する可能性がある旨は教えてほしかった。その上で使用時間を分けるとか、いくらでもやりようはあったはず。


 しかしこうなったのは枢機卿のせいではないし、彼に雨の中出ていけというのも忍びない。


 そこで落ち着いた声で、


「私はすぐに出ますので、どうぞお使いください。先にお湯を使ってしまって、申し訳ないですが」


 と伝えた。


 枢機卿は耳を疑う、といった顔つきになっている。


「君はもっと怒るべきだ」


「あの、これでもちょっと怒っているのですが」


「そうは見えない」


 見えないと言われましても……怒りの感情の出し方には個人差があるのだから、仕方ないではないか。


「レップの対応はひどいと思っていますよ」


「あとで厳重に抗議しておく」


「そうですか。でも……実害はなかったと言えば、なかったので」


「なかったとは言えない。その格好は――」


 はたと気づいた様子で、枢機卿が慌てて視線を逸らす。


「その、とにかく――何か羽織ってくれないか」


「あ、すみません」


 なんだか痴女になった気分だ。祐奈的には『白いワンピース』の感覚だけれど、こちらの人からすると、あくまでもこれは下着なのかな。


 棚に置いてあったブランケットを手に取り、肩に羽織る。


 枢機卿は気まずそうに口元を手で覆い、ほんのわずかな時間、何ごとか考えを巡らせていた。


 やがて彼の肩から力が抜ける。懇願するような視線がこちらに向いた。


「……少し話せるだろうか。君に謝りたいと思っていた」


 祐奈は驚いた。謝られるような心当たりはない。


 けれどこんなふうに頼まれては拒絶もできなかった。祐奈は小さく頷いてみせた。




   * * *




 広い鏡台の前に椅子が数脚置いてある。祐奈と枢機卿は隣り合った椅子を引き、そこに腰を下ろした。


 なんだか素顔で話すのは落ち着かないので、祐奈はヴェールをかぶることにした。手慣れているので時間はかからない。


 枢機卿がそのさまをじっと眺めながら口を開く。


「……かぶってしまうのか。もったいない」


「なんだかその……ヴェールをかぶった状態で人と話すのに慣れてしまって」


「本来、君がそんなことをする必要はなかったんだ」


 どういう意味だろう? そもそもヴェールをかぶることに意味などない。宗教上の理由もない。


 これはハリントン神父の気遣いから始まったもので、言ってみれば、まじない程度のものだった。あってもなくてもいい、ただの気休め。


 ヴェールをかぶる意味は祐奈にとって非常にセンシティブな領域だ。それが話題に上がっていることが少しストレスでもある。


「でも始めてしまった。一度かぶれば、もう外すことはできない。私――ラング准将にも素顔を見せたことがないんです」


 だから枢機卿に長々と見せる筋合いもない。


「なぜ見せないんだ」


「だって」


 不意にすべてが馬鹿馬鹿しく感じられて、祐奈は意味もなく手を動かした。情けないような、腹が立って仕方がないような、おかしな気分だった。


 瞳にじんわりと涙が滲む。


「考えてみてください――醜いと笑われて、軽蔑されて。してもいない性的嫌がらせの件で責められて。そんなことをされたら、一生顔を隠して生きていきたいという気持ちにもなります。情けないし、みじめだった。落ちるところまで落ちた。それで――どんなふうに気分を切り替えたら、素顔を晒せると言うの? あなたは――枢機卿は中立の立場を守っていたかもしれないけれど、私からしたら、不親切でした。ほんの少しの同情も見せてはくれなかった。そんなあなたにヴェールのことを言われたくない」


「すまなかった」


 枢機卿は打ちのめされているように見えた。感情が昂っているのか、彼の瞳が揺れている。


 ――まただ、と祐奈は思った。彼の瞳には確かに恐怖の色が浮かんでいる。


「あなたは何を恐れているの?」


「私は間違いを犯した。君はローダールートを進むべきだった」


「どういう意味ですか?」


「時間を戻せるものなら戻したい! 私は悪魔に魂を売った」


 彼は自分を責めている。一体どうしてだろうと祐奈は訝った。


 王都シルヴァースでの聞き取り調査で、確かに彼は親切ではなかった。けれどそれが『不適切』だったとは言い切れない。


 親身になってくれなかったというのはあくまでも祐奈の主観であり、ある意味では、彼の振舞いは正しかった。感情に流されて、その場だけこちらの味方をするけれど、別の時はあちらの味方をする、というようなズルさはなかったから。


「枢機卿、ちゃんと話してください」


「言えない」


「でもあなたは説明する義務がある」


「言い訳はしない。私を恨んでくれていい。でも詳しくは話せない」


 もどかしく感じた。思わせぶりなことを言われただけで、間違いの内容は教えてくれない。途方に暮れて枢機卿を眺めるが、彼が真実を語ることはなかった。


 しばらくしてから彼が言った。


「ひとつだけ、いいか」


「なんでしょう」


「ヴェールを取ったところを初めて見た……君は可愛いし、それはもう必要ない」


 可愛い? 意図が掴めず、固まってしまう。


「ラング准将にも素顔を見せるべきだ」


「え? でも」


「ショーには見せたんだろう」


「なぜそれを」


「やつは君に夢中だ。あそこまで態度を変えた理由はひとつしか思いつかない。君の顔を見たからだ」


 いや、腕をくっつけてあげたからだと思う。そう思ったのだけれど、それをあえて枢機卿に言うのも、それはそれでおこがましい気がした。


「自覚がないのか? 君はとても可愛い。言動も可愛いが、姿形も」


 顔が熱くなる。枢機卿が祐奈の手の甲を見て小さく笑った。


「手まで赤い。そんなに照れることはない」


「か、可愛いって男の人から言われたの、初めてです」


 ラング准将から、幼い親戚の子に対するような温度感で言われたことはある気がするが、それはカウントしないでおく。


「冗談だろう?」


「いえ、あの」


「少し慣れておいたほうがいいだろう。――ショーは退かないぞ。君があしらい方を学ばなければ」


 なんと言ったものか分からなかった。祐奈が答えあぐねていると、扉がノックされた。


 枢機卿が入ってきた裏口ではなく、表口のドアだ。


 混乱していたのもあって、普通に「はい」と返事をしてしまう。それを了承と取ったのか、扉が開いた。


 ――扉を開けたのは、なんとラング准将だった。


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