第60話 雨


 ショーがどこかへ連れて行かれ、その場に残された祐奈は、とてつもない羞恥を味わうこととなった。


 衆目を集めるのは大の苦手であるのに、あれだけショーが大騒ぎしたせいで、通りかかった人が皆足を止めてこちらを眺めいる。


 さらに最悪なことは、ラング准将に見られてしまったことだ。


 たぶん彼はあのような茶番劇を見せられたとしても、これっぽっちも動揺したりはしないだろう。


 だけど祐奈は嫌だった。つらすぎる。


 レップに来る途上で祐奈は『ショーに自分の気持ちを伝える』と決めた。それはラング准将からのアドバイスがあってのことだった。


 あの時に交わした会話の細部までは思い出せないのだが、祐奈がショーを嫌っていること、その負の感情を吐き出し、整理をつけたいと考えていることについては、ラング准将にも正しく伝わっているものと思う。それなのに、こんなことになってしまった。


 ――ラング准将はどう思っただろう? どうして黙り込んでしまったのだと、呆れただろうか?


 ちょっと前までショーに対して嫌悪感があったくせに、彼から好きだと言われただけで舞い上がり、コロッと態度を変えたと思われたかも。だって祐奈が断らなかったから。


 あれは不可抗力だった。ショーの言動が意味不明すぎて、上手く対処できなかっただけなのだけれど、そんなことラング准将は知らないだろう。


 だったら祐奈のほうからラング准将に、「嫌いだって言おうとしたんです! でも空気に呑まれてしまって、固まっちゃったんです」と説明すればいい。だけどなんだかそんなのは言い訳めいて聞こえるだろうし、祐奈本人ですら奇妙に感じるくらいだから、それを聞かされたラング准将だって、口先だけの嘘だと考えるかもしれなかった。


 ――本当は、告白されて、嬉しいと思ったのではないか? ショーと付き合うことを考え始めたのなら、素直に認めればいいのに、と。


 ……ちょっと軽蔑されたかもしれない……もうやだ、悲しい。私、失敗ばかりしている。


 ちゃんと対処できなかった自分に対する情けなさが、今度は身勝手なショーへの怒りに転嫁する。


 あんなに祐奈のことを嫌って馬鹿にしていたのに、過去のあれやこれやをすべてなかったことにしようとしている。どういう神経しているの? 人ってあんなに簡単に手のひらを返せるものなの? 


 昔いじめていたくせに、相手が芸能人になった途端、『小学校の時、あの子と親友だった』とか平気で言い出す人がいるらしい、という話を思い出した。『昔いじめてしまったけれど、今では後悔している。精神が未熟だった』ならまだ分かるのだけれど。


 それとも、やったほうは意外と覚えていないのだろうか。


 謎すぎる。頭がついていかない。


 はぁ……と重いため息が出る。その場に留まっているのも気重で、トボトボと歩き始めた。お風呂に入ったら、気分もいくらか晴れるかもしれない。


 廊下を進んで行くと、左手の壁際に佇むラング准将にも近づいていくことになる。


 けれどどうしたものかも分からなくて。このことについて彼に何か訊かれたくないと思ってしまった。


 だって今回ばかりはさすがのラング准将も、冷たい目で見てくるかも……そうしたら泣いちゃうよ……絶対耐えられない。


 ラング准将は誰かと話し込んでいるようだから、邪魔してはいけない、というのを言い訳にして、小さく会釈したような、顔を伏せただけのような曖昧な仕草ひとつで、その場をそそくさと通りすぎることにした。


 あんなことがなければ、二、三、会話を交わしていたはずだ。


 ――これから浴場に向かいます、とか。


 ――会えてよかったです、とか。


 でも何も言えない。祐奈は俯いたまま機械的に足を進めた。


 なぜかリスキンドとカルメリータも無言を通していた。


 ――祐奈は気づかなかったのだが、リスキンドは気遣うようにラング准将にアイコンタクトを送っていた。それでも余計な言葉を発することはなかった。第三者がいる空間で、通りしなにかけるべき言葉もないからだ。


 カルメリータに至っては、運命の不可解さにまで思いが及んでいた。……ラング准将が見ているこのタイミングで、どうしてこんなことが起こるのか……善良なカルメリータは、ただただ、やりきれない気持ちになっていたのである。




   * * *




 あらかじめレップ側から借り受けていた鍵を使って、扉を解錠する。


 浴場の造りは日本の温泉施設などとほとんど同じだった。扉を入ってすぐのところに広めの脱衣所がある。


 リスキンドが先に入って、不審者が潜んでいないか安全確認を行ってくれた。


 脱衣所内には扉がふたつあって、ひとつは倉庫に繋がっていた。清掃用具や備品をしまってある部屋だ。


 そして残るもうひとつの扉には、鍵がかけられていた。内側であってもサムターン(捻るツマミ部分)がついていない。内も外も、鍵穴に鍵を挿すタイプの錠のようだ。


 リスキンドが鍵を使ってそれを開け放つ。すると湿った雨の匂いが流れ込んできた。直接屋外へ出られる裏口扉だったらしい。


「いつの間にか雨が降り出していたんですね」


 祐奈は開口部に立ち、鈍色(にびいろ)の空を見上げた。


「山の天気は変わりやすいからなぁ」


 リスキンドも空を見上げたあと、周囲に目を配っている。


「警備上の観点でいうと、この扉が気になる。……カルメリータに頼んで、外に立っていてもらおうかな」


 祐奈が入浴中、見張りができるのはリスキンドとカルメリータの二名。リスキンドは正面入り口から離れられないから、こちらの裏口はカルメリータにカバーしてもらおう――彼の言いたいことも分かる。


 しかし祐奈はこの案には抵抗があった。


「あの、でも、雨が降っていますし」


「俺が外に立ってもいいけれど、やはり屋内のメイン入口のほうが重要だ。雨が降っているかは関係ないよ」


「裏口のほうは、ちゃんと鍵をかけておけば大丈夫だと思うのです」


「しかし――」


「レップは決まりにうるさいので、鍵の管理はきちんとしているはず。ここは高位神職者用の浴場ですから、問題は起きないと思います」


 リスキンドは少し迷っているようだったが、祐奈のほうに譲る気がなさそうと悟ったのか、小さくため息を吐いて了承した。


「……分かった。じゃあ何か異変があったら、大声を出すんだよ」


「ええ。でも――ヴェールの聖女の裸を見てやろうなんて物好きは、どこにもいないと思いますが」


「皆無ってわけじゃない。君にはショーがいるからね」


 彼の迂闊な軽口はいつものことであるが、この時ばかりは祐奈も気分を害した。


「リスキンドさん――ここでその名前を出すのは反則だと思いますが」


「あー……ごめん。今のは俺が悪い」


 さすがに口が滑ったと思っているのか、リスキンドが手のひらをこちらに向け、なだめるように動かしている。


 祐奈はむぅ、と怖い目つきで見据えてやったのだが、こんなことをしても、ヴェールのせいでまるで効果がないことに気づいた。


「――私、今、ものすごく怖い目で睨んでいますからね」


「分かった。実況しなくていい」


「許せません。デリカシーゼロです」


「ごめんて。本当にごめん」


 早口に重ねて詫び、リスキンドがそそくさと浴場から出ていく。


 入口付近で待機していたカルメリータは、呆れたようにそんな彼を横目で眺めていた。




   * * *




 お風呂に入ると、むしゃくしゃしていた気分がいくらか晴れてきた。体が温まったせいだろうか。


 こうしてのんびり湯の中で手足を伸ばしていると、日頃馬車で移動している疲れが、知らず知らずのうちに溜まっているのかもしれないなぁ、などと思ったりもして。座りっぱなしというのは、やはり血流が悪くなるのだろう。


 ラング准将は色々気を遣って、こまめに休憩を挟んでくれるけれど、それでも負担がゼロになるわけではない。


 そしてそういった条件に関しては、アリスのほうも同じはずだった。


 あちらは祐奈と違って大勢の人に崇拝され、要人扱いを受けている身だけれど、移動距離は祐奈たちとそう変わらないから、強行軍であることに違いはない。周りにへりくだられていたとしても、疲れるものは疲れるだろう。


 祐奈などはつらいことがあっても、そもそも周囲に当たろうという発想がない。


 少し先の未来を考える癖がついているというか、『これを受け入れないと、最善の結果が得られない』というのが分かっていれば、『今はそれをせざるを得ない』という結論になる。そうすると割り切ることができるので、苛々することもあまりない。特に我慢しているという自覚もなく、やりすごすことができる。


 ――アリスの場合はどうなのだろう。


 過去に一度対面し、今日の昼間遠目で眺めただけだけれど、彼女は祐奈よりは、自分の気持ちや要望をはっきりと伝えそうな感じがした。祐奈のように『少し先』に意識がいっているというよりも、『今』を大事にしているような印象。――旅の前に祐奈に会っておきたいと思えば自由にそうするし、ヴェールを外すように頼んできたりもする。ラング准将と話したければそのようにする。


 それでも物腰がエレガントというか、しっとりと落ち着いた雰囲気があるので、自己主張をしたとしても身勝手には見えない。むしろ芯がある素敵な女性のように感じられるだろう。そういった大人の所作というのは、素敵だし見習いたいなぁと祐奈は思っていた。自分にないもので、少し憧れる。


 自分がもしもアリスみたいに大人びていたなら、ラング准将との関係も変わっていただろうか……考えても仕方がないことなのに、どうしても思考がそちらに向かってしまう。


 彼女だったら……彼女ならこうしない……比べてみても、意味なんかないのに。


 なんだかあれこれ考えていて、のぼせそうになった。


 湯から出て脱衣所に戻る。体を拭き、髪の水気を丁寧に拭い、決まった手順で下着を着けていく。


 ドレスの下には白い綿のシュミーズを身に着ける。短袖でストンとした簡素な作り。日本で暮らしていた祐奈からすると、これだけですでに外出着の感覚がある。簡素なワンピースと同じだからだ。丈もふくらはぎあたりまであるし、夏場に若い女性がする露出度の高い格好よりも、下着とはいえこのほうがよほど保守的な気もしなくもない。


 腕を持ち上げて見てみると、血色が良くなり、肌が赤みを帯びていた。


 ……すぐにドレスを着ると、暑いだろうな。


 しかしリスキンドとカルメリータを長いこと待たせるのも気が引ける。祐奈はどうしたものかと考えながら、顔のあたりをパタパタと手で扇いでみた。


 そうこうするうちに、どこかで扉が開く音がした。


 カルメリータだろうか? 異変がないか確認しにきた? とはいえノックもなしというのは彼女らしくない。


 不審に思い振り返ると――漂ってきたのは、雨の匂い。


 裏口扉を開けて入って来たのは、司祭平服を身に纏った三十代半ばの男性だった。しばらくぶりであるが、その特徴的な濃い顔立ちはよく憶えている。


 ――枢機卿。


 祐奈は目を見開いた。王都シルヴァースにいた時の苦い記憶が呼び起こされる。


 枢機卿は『ショーにセクハラをしたのではないか』と、祐奈を取り調べた人物だ。


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