7.白黒

第54話 ありのまま


 馬車内の空気はまるでお通夜のようだった。重い沈黙が場を支配している。


 祐奈は落ち込みきっていたし、考えもまとまらない状態だった。


 ショーと対面した時は混乱していて、恐怖も感じてもいた。過去に彼からされた理不尽な仕打ちが思い起こされて、腹が立ち、瞬間的に抑制できなくなったのだと思う。感情的に怒鳴ってしまい、正しくないことに魔法を使いかけた。いや――実際に放電に近い形で、ショーに向けて力を放ったのだ。


 普段情緒が安定している祐奈は怒ることに慣れていない。慣れていないので、そのあとどう折り合いをつけたらよいのか、正しい対処方法を知らないのだ。


 問題が去ってこうして平穏な状態に戻ってみると、ぐったりと疲れてしまって、虚しさばかりが込み上げてくる。あんなに怒って馬鹿みたいだな、と自分の迷走ぶりが滑稽に感じられてしまい、つらくなってきた。


 祐奈はくよくよと自分の駄目なところばかりを反省していて、結果的に周囲に対する注意力が散漫になっていた。


 あれからどのくらい時間が経過したのかも、よく分かっていない。


 実際には小一時間ほどで、ラング准将とリスキンドが手際よく諸々整えてくれて、出発することができたのであるが、そのことにすら気づいていなかった。


 馬車にはラング准将、カルメリータ、番犬のルーク、そして祐奈といういつものメンバーが同乗していた。リスキンドは馬に乗って追走しているのだろう。


 このあとはノンストップで進むものと思われたのだが、出発して十分ほど経過したあたりで、馬車が静かに止まった。


 祐奈はしばらくのあいだ停車したことにも気づけないでいた。カルメリータがこちらを覗き込んでいる気配で、はっともの思いから覚める。


 ラング准将のほうに顔を向けると、ヴェール越しに視線が絡んだ。彼が静かに口を開く。


「祐奈。馬車を降りましょう」


「あの……」


「アリス隊には一時間後に出発するよう、指示を出しておきました。こちらが先行しているので、ここには我々しかいません」


 外に出なくてはいけないのが警護上の理由なのか、ほかの都合なのか、それは祐奈には分からない。戸惑ったものの、ラング准将が言い出したことが間違っているはずもないので、祐奈は「はい」と返事をして、促されるままに馬車を降りた。


 すぐそばにリスキンドが待機している。彼は馬から下りた状態で、手綱を引いて立っていた。


 そういえばリスキンドと対面するのは、例の騒動以来である。


 彼がいたたまれないような顔をしているのを見た途端、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。もしかするとショーのことで責任を感じているのかもしれない。


 ここで祐奈が「気にしないでください」というのも変な話だし、それに正直なところ気分が落ち込んでいて、ほかの誰かに親切に声かけする元気もなかった。


 気まずくなり、思わず俯いてしまう。


「ここからは馬で移動しませんか?」


 ラング准将に尋ねられたことがあまりに意外であったので、祐奈はうろたえてしまった。


「でも、私、馬に乗ったことがなくて……」


「私が同乗するので大丈夫です。気分が変わりますよ」


 穏やかな声。


 彼の瞳を見上げると、綺麗に澄んでいて、落ち着きがあって、木漏れ日の中を散歩している時のような不思議な安らぎを覚えた。混乱してこんがらがっていた頭が、秩序を取り戻していく。


 まるで魔法にでもかけられたかのように、小さく頷いていた。


 彼に任せておけば大丈夫だろう。ただし、馬が怖いからと自分に言い訳して、彼に甘えすぎないようにしなくては。


 ラング准将が先に馬に乗り、手を差し出してくれる。鐙(あぶみ)に右足をかけるように言われ、おっかなびっくり、そのとおりにした。


 そして次の瞬間――景色が変わっていた。


 お腹のあたりを支えられて馬上に引き上げられたのだと、一拍遅れて気づいた。


 ドレスなので馬の背を跨げない……と心配していたら、横座りのままラング准将の懐にすっぽりと抱え込まれてしまった。いつの間にか鐙にかけたはずの足も外れている。


 なんだか小気味よくリズミカルに持ち上げられ、無理に引っ張られるようなこともなかったから、ただただ呆気に取られてしまった。体のどこも痛くなくて。


 驚いているうちに、


「――では出発しますね。力を抜いて」


 ラング准将は凄腕の催眠術師になれると思う。馬が動き出しても、祐奈は怖いとは感じなかった。


 そういえば『馬上とはいえ、ラング准将にあまり寄りかかってはいけない』と、先ほどちゃんと心に決めたはずだった。甘えては駄目だと。


 けれどこうして実際に彼に抱えられてしまうと、祐奈は座り心地の良い椅子に腰を落ち着けてしまったかのような錯覚に囚われ、つい身を委ねていた。


 ……どうしてこんなに心地が良いの? 手を添える位置や、力の入れ加減、体勢の保ち方など、何かコツでもあるのだろうか。


 ラング准将が武芸に秀でていることを思い出す。体術は攻撃だけではなく、こういうことにも使えるのだな……と感心してしまった。


 動きが秩序立っていて無駄がないのに、柳のようにしなやかだ。本当に強い人は他者との調和を重んじるから、苛烈さを前面に出さないのかもしれない。


 風が吹いていて気持ちが良かった。空気がとても澄んでいる。


「少し話をしましょうか」


 ラング准将の声が後ろから聞こえてくる。……なんだか変な感じ。


 祐奈は横座りして、上半身を少し捻り、前方に視線を向けていた。とはいえ完全に前を向くのは難しいので、斜め前方をぼんやり眺めているような感じだった。


 左肩がラング准将の胸のあたりに当たっている。


 気合を入れ直さないと、溶けるように体から力がどんどん抜けていき、ドロドロに甘えてしまいそうだった。……境界線をたやすく越えてしまいそうな自分が怖い。


『話をしましょうか』という彼の気遣いが身に沁みて、困った。


「……すみません」


 結局、祐奈は詫びの言葉を口にしていた。すぐに謝る癖がどうしても抜けない。


「どうして謝るのですか」


「たいしたことでもないのに、慌てたり、落ち込んだり、面倒な人間だな、って」


「たいしたことかどうかは人それぞれですから、そんなことを気にする必要はないですよ」


「でも、ラング准将が私の立場だったら、絶対こんなふうにヤワじゃないと思います」


「……私は女性ではないので、祐奈とはまた違うかと」


「ラング准将は女性だったとしても、私みたいにいいようにあしらわれたりしないはずです。きりっとして、格好良く、振舞えるんだろうな」


「きりっとしているかは分かりませんが、ショーのことは二、三発ぶん殴っているかもしれませんね。女性だったら今より腕力は劣るでしょうが、それでもショーの鼻を折るくらいなら可能でしょうし」


 鼻を折るくらいは可能なんだ。彼らしくない荒っぽい冗談だと思い、祐奈はくすりと笑みを漏らしていた。


「ラング准将が殴るのですか? 想像できません」


 こんなに自制の利いた人が? ラング准将は職務上必要とあらば厳格な対処をするだろうけれど、イラっとしたから相手を殴るというようなことはしないと思う。


「想像できませんか?」


「はい」


 遠くの稜線をぼんやりと眺める。『異世界らしい』というような突飛な風景でもない。「地球のどこか」と言われれば、そうだろうなと信じてしまうだろう。


 だからだろうか……こうしていると使命を忘れそうになる。自分が聖女だなんて嘘みたいな話だった。ただの無力な十九歳の女の子でしかないのに。


「祐奈、ヴェールを取ってみては? 私は顔を見ませんので」


 その誘惑は魅力的に響いた。


 言うとおりにしてみようか……返事の代わりに手を持ち上げ、そっとヴェールを掴む。


 ゆっくり引き下ろすと、紗が取り除かれ、一気に視界が開けた。


 ものすごく気分が良い。取り外したヴェールをお腹の前で抱える。


 はぁ……と大きく深呼吸をした。『風で髪が乱れるから』というのを言い訳にして、ラング准将の胸に左頬を押し当てる。


 ずっとこのまま……この穏やかな時間が続くといいのに……。


 彼が口を開いた。言葉が体の芯のほうに響く。


「……ショーについてですが、レップに着いたら私なりにけじめをつけるつもりでいます。ただ……少し思うところもあって。あなたは彼に、思っていることを伝えたほうがいいかもしれません」


「思っていること……」


 それはショーに立ち向かえ、という意味だろうか?


「性的な誘いをかけたことはないと、彼に訴えるということですか?」


「戦いを始めるかどうかは一旦置いておいて、とりあえずは――本心をありのまま告げたらいいと思うんです」


「恨みをぶつける? 嫌いだと伝える? でも……それって子供みたい」


 口にしてみて気づいた。子供みたいだけれど、それが一番ショーに伝えたいことなのかもしれないって。


 ――あなたが嫌いだ、と。


 ――あなたとの思い出はどれもこれも不愉快で、思い出すだけで腸が煮え返りそうになるのだ、と。


「どんな感情でも恥じる必要はない。モヤモヤしているものを全部吐き出したほうがいいような気がして。――腹立たしい、顔を見るのも嫌だ、殴りたい――なんでもいいと思いますが」


「そうしたら何か変わるでしょうか」


「すっきりします」


 優しい声。あまりにシンプルなアドバイスに、祐奈は微笑みを浮かべていた。


「……そうですね、確かに」


「私が後ろにいますから」


「はい」


 心強い。――あなたがいる――それだけで勇気が出せそうだった。


「……私って昔から、自分の気持ちを伝えるのが苦手で」


「そうでしょうか?」


「え?」


「あなたはポジティブな単語なら、わりと素直に口に出すでしょう? ただ、他人をあしらうのが下手なだけで」


「う……やはり下手でしょうか」


 自覚はしているのだが、普段なんでも褒めてくれるラング准将にそう言われてしまうと、やっぱりそうだよね……とがっくりきてしまう。この人に言われるって、よっぽどだな、と思うし。


「これまで、口説かれた時にどうしてきたのかなぁというのは不思議ですね」


「口説かれたことがありません」


 顔がかぁ、と熱くなるのが自分でも分かった。彼と対面していなくてよかった。きっと林檎みたいに赤くなっていることだろう。


「……冗談でしょう?」


「いえあの、本当に……」


「気づいていなかっただけでは?」


 ラング准将はからかっている調子でもない。声は真摯で嘘がなかった。だからこそ祐奈はいたたまれない。


 いえあの、壊滅的にモテなかったのです……という説明を真面目にしなければならないのは、地獄だな。


「従兄にはいつも『祐奈は地味で目立たない、冴えない』と言われていました」


「本当にそんなことを言ったのなら、従兄は眼科に行くべきですね」


 眼科ということは……


「目が悪い?」


 ふふ、と笑ってしまう。ラング准将はヴェールに遮られて、こちらの顔を知らないはずなのに。可愛い女の子に言うような台詞を口にするものだから。


「もしくは頭が悪いのかな」


「知らなかった。ラング准将は案外口が悪いのですね」


「正直なだけですよ。あなたの従兄は大馬鹿者です。――あなたは親切だし、善良でひたむきだ。祐奈を好きだと思う男はいたはず」


「そんなことないです。私は話も下手だし」


「私はあなたと話していると楽しい」


「でも」


 必死で否定しかけて、はっとする。


「ええと、あの……私がこうして自分を卑下し続けると、ラング准将は私を褒めないといけなくなるので、これって聖女の立場を利用した接待強要ですね」


 ――いけない、いけない。


 女の子同士の、『私太った~』『そんなことないよ~スタイルいいからダイエットの必要ないよ~』のあるあるなやり取りにも似ている。こんな茶番にラング准将を巻き込んでしまうとは!


「どうぞ卑下してください。私は祐奈の良いところを伝えることができて、楽しいですよ」


「え、このやり取り、楽しいですか?」


 声に『正気ですか?』という響きが混ざってしまった。


 だって絶対に楽しくないと思うのだ。――好きな人の良いところを挙げるのは楽しいけれど、彼の場合は職務上仕えているだけの相手を慰めなくてはいけないわけだから、しんどいだけだと思う。


 それで……変な話なのだが、愉快な気持ちになってきて。


 ラング准将ってすべてが完璧なのに、すごく変わっている。変わっているから、知りたくなる。


 いつからだろう。もっと、もっとたくさん、彼と話したいと思うようになったのは。


 胸が高鳴り、緊張はしている。以前ならば、たぶん……緊張するような相手と喋るのは、苦痛に感じたんじゃないかな。それなのにラング准将に関しては、距離を置きたいとは思わない。彼はほかの誰とも違う。


 緊張するのに、一緒にいると安らげるし――胸がドキドキするのに、そばにいてくれるとすごく落ち着く。


「……ラング准将は優しいですね。私を褒める天才だと思います」


 眼前に広がる景色を改めて眺める。気持ちが晴れてくると、空の青がくっきりと濃くなったように感じられた。


 それで少し前向きな気持ちになれた。――レップに着いたら、頑張って、心のうちをショーに伝えてみようか。


「ロールパンみたいな雲」


 祐奈は幸せな気持ちになり、瞳を細めた。


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