第51話 ああ、神秘の聖女!


 一瞬のあいだに脳が高速回転した。浮かんだのはどうやって辞退するかのエトセトラ。


 やっぱり気が変わったと告げてみようか、とか。


 できそうにありませんと無能なフリをしてみようか、とか。


 お腹が痛くなったフリをして逃げようか、とか。


 むしろはっきりと「ショーはムカつくから治しません」と宣言しちゃおうか、とか。


 ショーは状況が分かっているのかいないのか、縋るような視線をこちらに向けてくる。


 以前祐奈のことを小馬鹿にして見下していた彼が、今は額に脂汗を浮かべて、口の端からみっともなくよだれを垂らしていた。


 ふと気づいた――彼の手が、体の下から変な向きに伸びていることに。


 ぞっとした。斬り落とされたのだと理解できたからだ。


 彼はそれを掴んでさえいれば、きっと元に戻ると信じているかのように、お腹の下で握り締めている。


 ひどい……。早く止血しないと死んでしまうかもしれない。


 祐奈は深呼吸をして、足を前に進めた。


 進みながら『ねぇ、やめとけば』の声が頭の隅でエコーする。


 ……どうせロクなことにならないよ、分かっているんでしょう? 助けてあげても、また陰口叩かれてさ。人の善意なんて信じるんじゃなかったなって、きっと思い知ることになるんだ。


 祐奈は全然できた人間なんかじゃないから、本当は、醜い妄想もいっぱいした。それは旅に出る前……ラング准将と出会う前のことだけれど。


 空想の設定だと、自分はすごい能力を手に入れている。


 祐奈の前にはたくさんの人々が行列を作っている。それで彼らと順番に対面していき、「君は生かす」とか「君はひどいことをしてきたから地獄」とか、羽の先で気まぐれに指しながら決めていく。


 知り合いもやって来る。こちらの世界に迷い込んで来た際に、親切にしてくれたハリントン神父だ。祐奈はとびきりのニコニコ顔でハリントン神父に告げる。


「あなたはもちろん生かします! 寿命もサービスで二十年延ばしてあげますね。それから亡くなったあとは天国行き確定です。あ――それからあなたの家族も、悪いようにはしませんよ。どうか幸せに天寿をまっとうしてください!」


 ハリントン神父は頬を赤らめて喜ぶ。「ああ、祐奈さんに親切にしておいて、本当に良かった! 見た目で差別しなくて良かった!」と言って。


 そして次はショーの番だ。ハリントン神父に大盤振舞いする祐奈を見て、ショーはすっかり期待している。自分のした最低な仕打ちも忘れて。


 ところが祐奈のほうは、されたことを忘れていない。


 ショーが前にやって来たら、祐奈は以前彼がしてみせたように、軽蔑しきった視線を向けてやるのだ。まるでゴミでも眺めるみたいに。


「あなたは地獄行きです」


「どうして!」


「それはね、意地悪で嫌なやつだからよ。あなたは弱い者いじめをした。地獄でよぉく反省してくださいね」


 ショーは泣き喚いて助けを求めるけれど、祐奈は聞き入れない。


 どうしてだ、信じられない! という顔をできるなんて、まったく図々しいと考えながら。


「あなたは他人にひどい仕打ちをしました。それが今、自分に返ってきただけですよ。どうか千年は苦しんでくださいね」


 ……ああ……最低な妄想。我ながら胸が悪くなる。でもそんなことを考えて自分を慰めていないと、おかしくなりそうだった。


 本当になるわけでもないのだし。そう――そんなことにはならない。


 嫌なやつは嫌なやつのまま、何も反省なんかしないし、ノリノリで絶好調のまま生きていくのだろう。だって人生ってそういうものだから。因果応報っていうけれど、あんなの嘘っぱちだ。善人のほうがよっぽどひどい目に遭っている。


 元いた世界でも、悲惨な事件はあちこちで起こっていた。


 まだ年若いのに人間ができていて、他人に親切にして、一生懸命生きていた苦労人が、悲惨な事件や事故に巻き込まれて呆気なく亡くなってしまう。いい人は早く迎えが来てしまうという話を聞いたことがあるけれど……なんだそれ、と。いつも思っていた。


 祐奈が神様だったら、絶対に善人が報われる世界にするのに、と。


 斜に構えて世の中を眺めてみると、最低で嫌なやつほどお金を持っていて、幸せに暮らしているなと思うこともあった(……もちろん、善人の金持ちもいるけれど……)。


 ついでに言うとその最低な人は家族仲が悪いこともなく。割れ鍋に綴じ蓋なのだろうか――意外とあたたかな家庭を持ち、幸せそうに暮らして、死ぬまで安泰であったりして。


 なんだか理不尽な気もするけれど、結局人生なんてそんなものだと思ったのだ。


 だから自分が神様みたいに、すべてをコントロールできる立場になったなら、最低な人間に少しくらい罰を与えてやってもいいじゃないか。


 だって誰もそれをしないのだから。神様でさえもそれをしない。


 その独断と偏見は、世界を浄化するには必要悪なのではないかと。


 人に不義理を働いたら、弱い者を虐げたらひどい目に遭うという教訓がなければ、人は己の襟を正せないのではないか。


 それなのに結局、こうして現実世界で、願ってもないような望みどおりの展開になってみれば、呆れたことに祐奈は本心とは逆の施しをしようとしている。


 今こそが、自分次第なのに!


 嫌なやつが苦しんでいて、だけど治せるのは祐奈ひとりだけ――見捨てることで、この男に絶望を与えることだって可能だ。


 でもできない。きっと助けてしまうのだろう。


 そうする理由は、それが正しいから。


 間抜けだった。馬鹿みたいだ。


 でも見捨てることもできなくて。気が小さいから罪悪感を背負えない。


 祐奈は全身の血が逆流するような気分の悪さを覚えながら、ショーの傍らに膝をついた。


『――回復――』


 機械的に、何も考えずに、呪文を唱えた。嫌いな食べものを、鼻をつまんで口に放り込むような心地で。早く終われと願いながら、手をかざす。


 ショーがうつ伏せで丸くなって、取れた手を隠そうとしているので苛々した。それで冷たい口調で彼に告げた。


「仰向けになって手を出してください」


「嫌……だ……」


 じゃあ死んで、と言いたくなった。本当に帰りたくなってくる。


 リスキンドの言ったことはすべて正しくて、五分前に最適なアドバイスをくれた彼に土下座をして謝りたい気持ちだった。


 すると当のリスキンドがいつの間にか歩み寄ってきていて、ショーの頭の上に跪き、脇の下に手を入れて乱暴にひっくり返した。ほとんど体術に近い動作だった。


 それは怪我人に対してはいささか乱暴な振舞いではあったのだが、祐奈はこれっぽっちも同情しなかった。


 ショーは動かされた痛みでまた泣き始めた。


 みっともないな。男なら、歯を食いしばって耐えられないの?


 祐奈の心がどんどん冷えて、嗜虐的になってくる。


 しかし祐奈の威勢が良かったのもここまでで、取れた腕を直視した途端、胃の中のものが喉を押し上げてきた。


 ……うわ吐きそう……。


 でも嘔吐なんかしたら、それこそ何を言われるか分かったものではない。祐奈は涙目になり、必死に吐き気を堪えた。


「手、を……くっつけて……」


 リスキンドに弱々しく頼むと、彼は冷静にショーの腕を掴み、正しい向きで切り口に当ててくれた。


 血がものすごく大量に出ている。


 誰も治療をしてくれないので、ショーはうつ伏せになることで、自身の体重を利用して傷口を圧迫止血していたのかもしれない。


 祐奈は手のひらをかざした。初めからやり直しだ。


『――回復――』


 祐奈の手のひらから金色の光が舞い落ちるように漏れ出てくる。


 これを見た周囲がざわついた。皆がこの神秘的な光景に魅入っていた。


 中でもショーは一番感化された人間だった。彼の瞳の中にあった、祐奈に対する嫌悪が一瞬で消え去った。


 ショーは今や救世主を前にしたかのように祐奈を熱い目で見つめていた。……まったく現金なものだ。


 祐奈は考えると腹が立って仕方がないので、ひたすら治療に専念することにした。


 以前ルークを治療した時は、もう少し引き合ったり反発し合ったりと、力が干渉している感じがあったのだが、今回はそうでもなかった。


 祐奈が慣れたのかもしれないし、あるいは――あの小さな犬のルークのほうがよほど怪我の状態はひどくて、ショーのこれは見た目よりも軽傷として扱われているのかもしれなかった。


 そう考えると、少し笑えた。


 あんなに小さな犬が辛抱強く立派にしていたのに、騎士であるはずの彼は泣いて喚いて、駄々をこねて、まったくみっともない有様だった。


 普通の人ならば仕方ないけれど、あなた騎士よね?


 全然格好良くない。なんでこの人、自分が祐奈に好かれて当たり前、みたいに思えるんだろう? こんなにダサいのに……。


 考えごとをしながらでも治療は問題なく進んだ。


 元に戻るという観念のせいか、辺りに飛び散っていた彼の血も、いつの間にか消えてなくなっているようだった。


 ……まさか体内に戻ったの……?


 そんなまさかね。


 息も絶え絶えだったショーが、自力で起き上がった。信じられないという顔をして、少し前まで切り離されていた右手を動かし、グーパーしている。


 瞳が生き生きと輝いていた。


 祐奈は『今、自分の瞳はこの上なく濁っているだろう』と思った。喜んでいるショーの姿を見て、忌々しく感じてしまう。全然爽快じゃない。気持ちの整理もつかない。


 不快な出来事に付き合わされたことに、ただただうんざりしていた。


 それでよろけるように立ち上がり、ひとことも発することができずに、踵を返した。

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