第45話 躾
ハッチがやらかしたことのありえなさにラング准将は顔を顰めかけたが、目の前のロジャース夫人が険しい顔を見たら怯えそうなので、なんとかこらえた。
職務上は常に厳しさを前面に出している彼であるが、庇護すべき者に対してはまるで違う顔を見せる。ラング准将は力を持っている者が絶対にしてはいけないことをよくわきまえていた。
「ひどい目に遭いましたね。私が責任を持って、速やかに彼らを退去させますので」
「本当ですか? それは……それは助かります」
夫人の瞳にじわりと涙が滲んだ。
ラング准将が清潔な白いハンカチを差し出すと、彼女は慎み深く「とんでもない」と断って、エプロンの裾で目元を拭う。
それでもあとからあとから涙がこぼれてきて、夫人はすっかり赤面していた。
ラング准将は彼女の手を取り、そっとハンカチを握らせた。今度は夫人も遠慮しなかった。
それを大切そうにきゅっと手の中で握りしめ、潤んだ目元に当てている。
「彼らは何泊していますか?」
「すでに三日ほど」
……壊滅的な馬鹿だなとラング准将は思う。
懐から小切手を取り出し、手早く金額を書き入れた。それは大都市にある一流の宿を、一週間ばかり棟ごと貸し切りにしてもお釣りがくるような額だった。
「これでは迷惑料にもならないでしょうが、お受け取りください」
小切手を切って渡すと、女性は目を丸くして固まってしまった。
「は、いえ、こんな……とんでもございません! いただけません!」
実直な人なのだろう。ラング准将はそれで余計にやりきれない気持ちになった。
よくぞこんな善良な人を踏みつけにして平気でいられるものだ。
「私の気が済まないので、受け取ってください。それから――彼らが迷惑をかけているのは、あなたの家だけではないですね。近隣の農地をお持ちの方も、馬車や馬で土地を荒らされて、嫌な思いをされているのでは?」
「それは、ええ、確かに」
ラング准将は少し考え、女性に告げた。
「その方々には現金でお渡しします。できればあなたの手から適正に分配いただけると助かるのですが」
「ええそれは……いただけるのでしたら、責任を持って」
「では中のハッチを少々脅かして現金を巻き上げてきますので、このままお待ちいただけますか?」
ミセス・ロジャースが一瞬ポカンとして、その後意味を理解して思わず吹き出してしまった。
赤い目をこすり、にっこりと笑顔を浮かべる。
「それは楽しみですね! あたしはこんなふうに笑ったのは三日ぶりですよ!」
「それはよかったです。――今夜には、住み慣れたおうちでゆっくりお休みいただけると思いますので」
ラング准将が口元に笑みを浮かべてそう告げると、ミセス・ロジャースは思わずほうとため息を漏らしていた。
……都会には大層ハンサムな男性がいるものなのね……とただただ感心するばかりだった。
それに顔だけではない。物腰、親切な気遣い、すべてが端正で、対面していると心が洗われる。このところすっかりやさぐれていた夫人は、ラング准将と話したおかげで、元の穏やかな気性を取り戻しつつあった。
もしもラング准将に出会わないままだったら、自分は疑り深く、怒りっぽく、悲観的な人間に変わっていたかもしれない。
それだけ家を叩き出されたあの経験は衝撃的だった。
野良犬の尻でも蹴るような居丈高な態度で、やつらは自分と夫、そして子供を追い出したのだ。
子供は外に放り出され、膝をすりむいて泣いていた。
夫は屈辱に震え、逆らえなかった自分を恥じて、夫人に「すまない」と何度も頭を下げてきた。
夫人は悲しかった。
彼は家族を護ってくれる、素晴らしい人だ。そんな人に無力感を抱かせて、『恥』の概念を植えつけたあいつらが憎かった。夫を慰めながら、夫人は心の中で泣き叫んでいた。けれど実際には泣くこともできなくて。自分が崩れてしまったら、夫がさらにつらい思いをすると分かっていたので、必死で我慢した。
それが今日この瞬間、報われたような気がした。
目の前の端正な騎士様が小切手に記入してくれた大金は、ロジャース一家のささやかな暮らしぶりに対して、これだけの価値があるのだと認めてくれたような気がした。
あの暴漢どもを追い出してくれるだけでもありがたいのに、お金まで。
手元の白い綺麗なハンカチを見おろす。胸が温かくなり、また涙が溢れてきた。
あとで、きっと夫に話そう。これを聞けば、彼だって気が晴れるはずだ。夫人が笑っていれば、夫は満足な人なのだ。だからきっとすぐに元気になれる……。
ラング准将がミセス・ロジャースの大切な家に入って行くのを、夫人は祈るような気持ちでじっと見送っていた。
* * *
玄関扉を三回強めにノックし、
「――エドワード・ラングだ。入るぞ」
と声をかけてから扉を開ける。
家人を追い出して居座った狼藉者どもであるが、一応アリスに対する最低限の礼儀としてのノックだった。
しかしそれとて、ラング准将のほうに微塵の敬意もないことはきっと伝わったことだろう。……まぁアリス本人はどうせ一番奥に引っ込んでいるのだろうから、ノックがあってもなくても知ったこっちゃないだろうが。
庶民のつましい邸宅なので、玄関扉を開けるとすぐに居間がある間取りになっていた。床面積が狭ければそれだけ施工も楽であろうから、繋ぎのような余分なスペースは極力排除してあるのだろう。
ロジャース家は内装もセンスが良かった。無垢材に良く合うカーテンやラグ。キッチン小物など。
くすんだ黄や、鮮やかな赤、深みのある緑などの色使いも上手で、目にうるさくない程度に差し色が効いている。
ミセス・ロジャースがこだわって揃えたであろう居間の家具――深緑色のソファにどっかりとオービル・ハッチ准将が腰を下ろしているのを認めて、ラング准将の腹の底に静かな怒りが湧きあがった。
ハッチは椅子の背に腕を上げてそっくり返るようにしていたのだが、入って来た人物がエドワード・ラング准将であると気づいて、ポカンと口を開けた。
ハッチの間抜け面と対面したラング准将は厳しい声で叱責した。
「――オービル・ハッチ、立て」
怒鳴られたわけでもないのに、鞭打たれたような衝撃がその場に走った。
ハッチはバネ仕かけの人形のように勢い良く立ち上がり、ソファの前から抜け出して、直立不動でラング准将を迎えた。
顔は強張り、血の気が引いている。事情はよく分からないものの、自身が何かラング准将の不興を買ったらしいことは、顔色を見てなんとなく察しがついたようだ。
「エドワード・ラング准将! お待ちしておりました」
最敬礼の姿勢を見せ、上官を迎える。
ハッチは今やアリス隊の指揮官であるが、だからといってラング准将との立場が逆転したわけではない。
アリスが無事お役目を果たせば、旅が終わったあと、自分は隊を指揮した英雄として扱われるだろう。しかし現段階ではまだ違う。
それにハッチはラング准将を待ちわびていた。この状況は彼の手に余った。
ラング准将は足早に歩み寄り、ハッチの胸倉を掴んだ。
ハッチは目の前の端正な青年が、このような暴力的な行動を取る場面に初めて遭遇したので、すっかり縮み上がってしまった。顎を可能な限り引いてみるが、もちろん逃げることは叶わない。
ラング准将は背こそすらりと高いものの、筋肉の厚みはさほどにも感じられなかったので、ハッチは彼に対して恐怖を感じたことはこれまでなかった。
しかし実際に胸倉を掴まれてみると、丸太のような太い腕を持つ大男に、力ずくで締め上げられているような、途轍もない圧力を感じた。この端正な佇まいのどこにこんな力が……と呆気に取られてしまう。
「無理矢理この家の住人を追い出し、恥知らずにも居座っているそうだな」
「そんな、滅相もありません。私は――」
「黙れ」
ラング准将の力加減ひとつでさらに喉が締まる。
ハッチは足元が大きく揺れているような気がした。それで少したってからやっと、自分の足のほうが震えているのだと気づいた。
足だけではなかった。顎も、手も、腰も、全身が震えていた。ラング准将に締め上げられていなければ、とっくのとうに床に崩れ落ちていただろう。
眼前にあるラング准将の瞳は、殺気を抑えようともしていない。狼が牙を剥いてすぐそこに迫っているような、未だ体験したことのない恐怖を覚えた。
ハッチは悟った。
ああどうしよう……とんでもないことをしてしまった……!
この人の怒りを解けるのならなんでもする! 全財産をはたいたって構わない!
何に対して彼が怒っているのかも分かっていないくせに、ハッチは全面的に降伏し、許しを乞う気持ちになっていた。
このままでは殺されてしまうと思ったし、もう殺されると決まっているならば、いっそ苦しめずにすぐに息の根を止めて欲しいとさえ願った。
ハッチの部下三名は壁際にジリジリと後退して、必死で気配を消そうとしていた。巻き込まれて自分も殺されては敵わないと考えながら。
「私の目を見ろ、ハッチ」
「は、はい」
「これから問う内容に嘘偽りなく答えろ。嘘や見苦しい言い逃れをしようとした場合は容赦しない。いいか」
「はい」
「私はお前を三秒で殺せるが」
ラング准将が言葉を切った。ハッチは死神に魅入られたような心地がした。
「お前が嘘をついた場合、息の根を止めることより、苦痛を与えることを優先する。分かったか」
「分かり……ました。よく分かりました」
「ロジャース家の住人を暴力的な手段で追い出したな」
「ロジャース家とは、誰――は、いえ、はい。追い出しました」
素直に困惑を見せた途端まずい空気になったと悟ったので、ハッチは返事の途中で慌てて軌道修正した。追い出したと言っているので、そう――この家の住人のことだろう。ハッチがこんなに頭をフル回転させたのは、数年ぶりであった。
しかし必死に取り繕ったところでラング准将の怒りが解けることはない。――呆れたことにハッチは、この家の持ち主の名前も把握していないのか。
「家を借り受けたいなら、相手方にきちんと事情を説明して理解いただくべきだろう。そしてそれ相応の礼もすべきだ。ただし報酬を提示した場合でも、相手が拒否した場合は退くべきだ」
「はい、おっしゃるとおりです」
「礼はしたのか」
「はい――あの、いいえ。しておりません。私どもは当然、住人の皆様にもご理解いただけたと信じて――」
「先ほどのやり取りをもう一度繰り返さないとだめか。もしくは――」
不意にラング准将が腕を動かし、指で喉仏を掴んだ。
気道が締まったハッチは激しく喘いだ。声も出ない。頭の中にパンパンに空気を流し込まれたかのようだった。口を開き、閉じる。苦しい、痛い、怖い――
ハッチが死を覚悟した頃、ラング准将の腕がやっと離れた。
無様に床に転がって喘ぐ。木枯らしのようなひどい音が辺りに響いていて、しばらくしてから自分の口から出ている呼吸音だと気づいた。
涙が滲んで視界が歪む。咳込んでラグの上に吐こうとすると、ラング准将が胸倉を掴んで仰向けにした。
「無様に汚すな。お前の家じゃない」
「……――……」
返事もできない。ハッチは太い梁を見上げながら涙を流した。
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