第40話 夢なら覚めないで
「ラング准将、起きていますか?」
返事がない。返事がなぁい!
「もしもーし、起きてますかぁ?」
腰を浮かしかけたことで、膝上のヴェールとネコ耳カチューシャが滑り落ちそうになったので、それらを掴んでポイポイとテーブルの上に放り出す。
そのままフラフラと立ち上がり、彼の肩に両手を乗せてのしかかった。
思い切り体重をかけているのに、彼はちっとも怒らなかった。それどころか足元がフラついている祐奈を案じてくれているらしく、腰のあたりに手を添えて支えてくれた。
今は立ち上がっている祐奈のほうが視点も上なので、なんだかとても良い気分だった。
それにオオカミ耳を着けているせいか、今日のラング准将はなんだか妙に可愛く見える。こちらがそのぶん大人になったような感じがして。
それでまた「へへへ」と笑み崩れてしまう。
彼のアンバーの瞳が切なげに細められた。
「……夢なら覚めないで」
「ラング准将、夢じゃないですよ」
「言葉にならない」
「そうなの?」
「君は」
今日のラング准将は変だなと祐奈は思った。こんなにぼんやりしている彼は初めて見る。
……もしかして彼、酔っぱらっているのかな?
「ラング准将?」
「どうして……なぜこんな、ことが。祐奈――ハリントン神父はあなたにヴェールを渡した時、なんと言ったのですか?」
「ええと……『前の聖女とあまりにも違うから、問題がある』って。前の聖女様はよほど美しかったのですね。私は元の世界では平凡な容姿でしたが、文化が変わると受け入れてもらえないこともあるんだなって思ったんです」
ラング准将の顔が切なげに顰められた。祐奈の右腕に縋り、額を押しつけて俯いてしまう。
カチューシャが外れかけていたので、祐奈はそっと手を伸ばしてそれを外してやり、テーブルの上に置いた。
「単純な……行き違い。なんてことだ」
呻くような声。
彼の腕が腰に回され、祐奈はよろけるように彼に抱き着いていた。彼の頭を抱えるようにして、優しく髪を撫でてやる。サラサラしていて、空気を適度に含んでいて、なんとも癖になりそうな手触りだった。
「……ラング准将? 悲しいの?」
「混乱している……胸が痛む。君が可哀想で」
「可哀想じゃないですよ。だって、あなたがいるから」
ゆっくりと拘束が解かれた。
こちらを見上げるラング准将の美しい瞳が揺れている。
苦しまないで……あなたに出会ってからずっと感じているこの心強さを、分けてあげられるといい。祐奈は微笑んでみせた。
「あなたがいるから、私は全然可哀想じゃない」
「……そうかな」
「そうですよ。じゃあ……ひとつ追加でお願いしてもいいですか? もうひとつ」
「どうぞ」
おねだりしたら、すぐに了承してくれた。頼んでみるものだなぁと思う。
「あの、抱っこしてください。前に馬車でその冗談が出た時から、ずっと夢だったの」
照れてしまったけれど、思い切って伝えてみたところ、一体何がどうなったのか。
背中に手のひらが回されて、膝裏をトンと刺激され――ふと気づけば彼の膝の上で横抱きにされていた。
合気道の技を食らったみたいな、不思議な感じ。体の状態を一瞬で支配下に置かれてしまい、びっくりする。
あっという間に動かされたのに体のどこにも痛みはないし、乱暴なことは何ひとつされていないのだ。
「――祐奈」
すぐ近くで名前を呼ばれた。優しいのに、どこか寂しい響きだった。迷子になったかのような。
祐奈は瞳を細めた。
彼が髪を撫でてくれて、そのまま抱きしめられる。頭を抱え込まれ、慈しむようなキスが額に落とされた。
幸せだった。
「――祐奈」
祐奈はすっかり安心して、そのままゆっくりと瞳を閉じていた。
彼の懐の中……こんなに安心な場所はほかにないでしょう?
意識が急激に沈んでいく。限界超えて眠いよ……
それから何も分からなくなった。
***
ラングは彼女の体を抱き上げ、ソーヤ大聖堂をあとにした。
足元をちょこちょことルークがついてくる。チラチラと訳知り顔で見上げてくるので、苦笑が漏れた。
外されたヴェールは今、彼女のお腹の上に載せてある。
ヴェールを外したのは君の意志じゃない。勢いと偶然による事故のようなものだった。
――素顔を見たことで何かが変わったのか? 自問してみるが、答えは『否』だった。
どうしても、こう思ってしまう――彼女の意志で外してほしいと。それは自分勝手な願いだろうか。
彼女に信頼され、素顔を見せてもいいと思ってもらえたなら、その時に初めて対等な関係になれるような気がするのだ。前に進むことができる。
祐奈はいつもラングのことを『立派な人』だと言う。しかし彼自身は、どちらかといえば真逆のところにいるような気がしていた。
ヴェールがあいだにあると、彼女に許されていないように感じられて。
あなたはまだ至らないと。まだ早いと。越えようのない予防線を張られている気分になる。
彼女が深く傷ついているのが分かっているから、急かすことはしない。けれど時折、とてつもなく苦しくなる時がある。
近いようでいて、君はとても遠いところにいて、いつまでたっても手が届かない。まるで夜空に輝く、星のようだ。
祐奈を前にすると、正しい線引きが分からなくなってくる。
――夜が明けたらまた、君だけの騎士に戻るよ。
君を困らせないように、ただの護衛に戻る。心を殺すことは無理でも、悟らせないよう、上手くやっていくことは可能だろう。
けれどたぶん、心の中で君の面影を追いかける。
きっと君のことばかり考えてしまうのだろう。
***
朝目が覚めると、ベッドの上で普段着のドレスを身に纏った状態で寝ていた。頭が薄ぼんやりと痛む。
う――……ん……喉乾いたな。
ベッド脇のサイドテーブルにヴェールが置かれている。昨夜無意識のうちに、むしり取って外したらしい。
……しかし、どうやって戻って来たのだろう?
一生懸命思い返してみてもだめだった。『苦手克服の部屋』でボードゲームをしていた途中から、記憶に奇妙な抜けがあるような。
場面をコマ切りにしてシャッフルしたような、変な感じ。脈絡もなく、様々な場面が脳裏に蘇ってくる。
アイヴィーと手を取り合って大泣きしている場面や、ドレスの黒いリボン飾りについて指摘を受けた場面、それらが次々に浮かんでは消えていった。
なんだろうこれ。何があったのか思い出せない空白部分が多く、気持ちが悪かった。
リスキンドはどうしたのだろう? ええと、そう――そうだ、彼は途中でヤング青年と退出した。それは覚えている。どうもその辺りから記憶が曖昧なような?
最後、確か自分ひとりだけ居残りになって――ラング准将が部屋に入ってきたのを、大喜びで迎えたような気がするのだが――あれは現実? それとも夢?
彼がオオカミ耳をつけている場面がポン! と頭に浮かび、びっくりして額を擦っていた手の動きが止まった。そのまま金縛りに遭ったみたいに、しばし固まってしまう。
え、何これ――夢か? 夢だよね? そりゃ夢だよね。ラング准将がオオカミ耳なんて着けるわけないもの。
喉元に剣を突きつけられても着けないよ、絶対に。彼にそれを命じるような命知らずも存在しないだろうし。
もしかして自分は途中でお酒でも飲んだのだろうか? 飲酒の記憶はないが、ゲーム中に何か出されて、そうと知らずに飲んでしまった可能性はある。
ソフトドリンク――桃味のジュースを飲んでいた記憶はあるので、ほかにも何か追加で口にしたことで、記憶が飛んだのかも?
覚えていないだけで、一応ここへは自力で戻ってくることができたのかな。酔って記憶が飛んだ人の体験談を耳にしたことがあるけれど、自分で覚えていないだけで、周囲からは意外と普通の状態に見えたりするようだ。
だけど、ああ――ラング准将が外で待機していたはずだから、彼に何か迷惑をかけたりしていないだろうか? フラついて介助されたりだとか、吐いてしまったりだとか。
祐奈は顔から血の気が引いていくのを感じた。
うわぁどうしよう、しつこく絡んだりしていないよね?
ヘッドロックとかかまして、「おいラングちゃんよぉ、あたしをおんぶして帰れよぉ。重いとか文句言うんじゃねぇぞぉ、鍛えてんだろー。ついでに上腕二頭筋触らせろよぉ、減るもんじゃねーだろー」とかクダを巻いていたらどうしよう。
乱暴に水でもぶっかけてくれれば正気に戻ると思うのだが、ラング准将は優しいから、内心イラっとしながらも我慢しておんぶしてくれたり、上腕二頭筋を揉ませてくれたりと、辛抱強く付き合ってくれそうだ。
ビクビクしながら身支度を整え、惨めな気持ちで部屋を出る。
リビングのソファにラング准将の端正な姿を認めた。紅茶を飲みながらリスキンドの話に相槌を打っている。
彼がこちらに気づいて、いつもどおりの柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「おはようございます」
それでなんだか理由もなくほっとしてしまった。……家に帰って来たような心地になって。
ここは自宅ではないし、ラング准将の顔を見てそう思うなんて、我ながら変なのだけれど。
「お、おはようございます。……あの、ラング准将」
「どうかしましたか?」
「私、昨日の記憶が曖昧で。何か変に絡んだりは……」
「大丈夫ですよ。記憶の混濁は聖具の効果かもしれませんね。あなたはしっかりしているように見えたし、特におかしなこともありませんでした」
彼があまりにいつもどおりだったので、拍子抜けしてしまった。気を遣っているふうでもなく、本当に『何もなかった』というのが伝わってきた。
これで祐奈の悩みも片づき、『朝食を取ったらソーヤ大聖堂に向かいましょう』ということで話がまとまったので、ホッと息を吐く。
するとリスキンドがふらりと近寄ってきて、こっそりと話しかけてきた。
「……あのさぁ、昨夜ラング准将と何かあった?」
探り探り、という感じ。祐奈はドキリとした。
いやそれ、むしろ私が知りたいのですが、なんて思ってしまう。
「それがその、全然覚えていないのです」
「そうなの? 俺もちょっと記憶が曖昧で」
「どうしてそんなことを訊くんですか? ラング准将、何か言ってました?」
ドキドキがぶり返してきた。
「いや、いつもどおり……なんだけど」
「じゃあなんで」
リスキンドはすっきりしないというように顔を顰めている。眉間には細かな皴が刻まれており、魚の小骨が喉に刺さったような、そんな心地でいる様子だ。
「うーん……俺の気のせいかな。普通なんだけど、なんか普通じゃないような」
「ええ? 気になるじゃないですか。怒っている感じですか?」
「そういうんじゃない」
じゃあなんなの?
祐奈はあまり言いたくなかったのだが、思い切って打ち明けてみることに。
「あのー、実はラング准将がオオカミ耳のカチューシャをつけている場面が、鮮明に頭に浮かぶのですが……これはなんなのでしょうか?」
「馬鹿だなぁ、祐奈っち」
リスキンドが呆れ顔で流し見てきた。
「俺が着けていた、あのオオカミ耳だろう? ラング准将が着けたら可愛いだろうなーの妄想でしょうよ。あの人があんなの着けるわけないし」
「ですよね。なんだか妙にリアルで」
「……てことはやっぱ気のせいか。気にして損した。俺もヤキが回ったかな」
リスキンドは祐奈と喋ったことで、『このお馬鹿さんとラング准将のあいだに何か深刻な事件が起こるはずもない』と納得できたらしく、すっきりした顔で離れていった。
祐奈もまぁ決着がついたので良かったは良かったのだが。
でもなんとなくリスキンドのあの見切をつけた感じが失礼なような気がしてしまい、複雑な心境になったのだった。
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