第39話 そんな、馬鹿な!
ラングは廊下でひとり時間を潰していた。
猫足の優美な長椅子が置かれていたので、しばらくのあいだはそこに腰を下ろしていたのだが、やがて立ち上がり壁際に寄った。座っているよりも立っているほうが楽だし、今はなんだか気分的に落ち着かなかった。
――それにしても遅い。
リスキンドが一緒に入り、番犬のルークも中にいる。ほかにも『大丈夫』と思える要素があったからこそ、祐奈を行かせた。問題ないのは分かっている。
けれどこうして少し離れているだけで、落ち着かなくなる。
彼にして珍しく砕けた態度で、腕組みをして壁に背を預けて立つ。後頭部を壁に当てると顎が微かに上がり、なんだかやさぐれて見えた。
普段だらしない所がない人なので、そうしていてもまるで見苦しくはないのだが、それでもラング准将を知る人が見たら驚くであろうという、気怠い雰囲気を漂わせている。
瞳を細め、少し不機嫌そうで――どこか退廃的で、なんとも艶っぽい。
そのうちに時間の感覚がなくなってきた。
不意に、左手の方角から足音が響いて来た。力強いようで、軽やか。少し短気な傾向もある。これはビューラだなと見当をつける。
ラングが視線をそちらにやると、案の定、近寄ってきたのは司教のビューラだった。赤いアイシャドウに、薄くてほとんどない眉。
――横手から現れたということは、やはり裏口があったか。
目の前にある大扉は、祐奈たちが入室して以来一度も開いていない。そこから前室を挟んでから奥の広間へと続く作りになっており、防音加工がしっかりされているのか、中の物音は外には漏れてこなかった。
そのため『苦手克服の部屋』で何が行われているのか、ラングは把握することができないでいたのだ。――それでもなんとなく、一抜け方式で参加者がこっそり裏から退出しているのではないか? という感じはしていた。
ビューラが気安く声をかけてくる。
「お嬢ちゃんが中にひとりでいるわよ。迎えにいってあげて」
「リスキンドは?」
「途中で抜けた」
あいつ――思わず小さく舌打ちする。
今夜は本当にらしくない。彼は苛立っていても、このような無作法な振舞いは決してしないタイプであったので。
「あんたのそういう顔見れて、満足だわぁ」
意地の悪いビューラはニヤニヤ笑いを浮かべている。
ラングはそれを冷めた目で見返した。しかし十代の子供ではないので、こういう態度ももう改めるべきだろう。
壁から背を離し、普段の折り目正しい彼に戻って、ビューラに向き合う。
「祐奈におかしなことをしていないでしょうね」
「本当に疑っているわけじゃないでしょう? あなたは危険を感じ取ったら、誰がなんと言おうと、あの子に付いて中に入っていたでしょうから」
「リスキンドもいましたので」
「いいや、それだけじゃない。あたしのことを信用したはず」
「何を言わせたいのです?」
「あたしを信用したと言わせたい」
子供みたいだな、と呆れる。ラングは小さく息を吐き、彼女の言い分を全面的に認めた。
「ええ、そうですね。あなたを信用して、彼女を部屋に入れた」
「名高いラング准将に認められて、嬉しいですわよ」
にんまり笑ったその顔は、本当に嘘偽りなく嬉しそうだった。毒気を抜かれるほどに。
ビューラが踵を返しながら手を振る。
「明日またいらっしゃい。改めて聖具の説明をするわ」
「ええ」
「ああそうだ――職務放棄したリスキンド君をあんまり叱らないでやってね。聖具に絡んだちょっとした裏事情があるのよ。それから、可愛い聖女様によろしくね。優しくしてやりなさい」
まったくもって大きなお世話だった。
ラングはさすがにイラっとしたので、ビューラのお節介には返事をせずに、目の前の大扉を開け放ったのだった。
***
祐奈が部屋の中にひとりポツンといるのを確認して、ラングはやっとほっとすることができた。
視界に入ると安心する……末期だなと我ながら思う。
「ラング准将!」
扉が開く音に反応して振り返った彼女が弾んだ声を出す。上半身を捻って椅子の背に肘を置いたその姿は、なんだか子供みたいである。
ラングは意図せず口元に淡い笑みを浮かべていた。
「苦手は克服できましたか?」
祐奈がそっと首を横に振る。
「だめでした。私だけ」
「皆は克服できたんですか?」
「はい。私だけできなかったので、居残りです」
隣の椅子を引き、腰かける。
机の上に動物の耳を模した奇妙な飾りがあって、思わず眉根を寄せてしまった。……なんだこれは?
しかし謎の動物耳よりも、彼女の様子のほうが気になった。祐奈の上半身が僅かにゆらゆらと傾いでいるように感じられて、思わず彼女の華奢な肩に手を伸ばしていた。
「祐奈? なんだか様子が」
「ちょっと頭が……くらくらするのです」
「何かありましたか?」
「分かんない。ボードゲームをしたんです、皆で。ルーレットを見ていたせいかなぁ……目が回って」
祐奈の言葉はたどたどしく、幼子のようだった。それでラングはある疑惑を抱いた。
「もしかしてお酒を飲みましたか?」
「飲んでませんよー。だって私、お酒を飲んでいい年齢に達していないですし」
……『ですし』の部分がほとんど『れすし』になっているのだが。
それにしても――祐奈は確か十九歳のはずだから、この国ではすでに成人として扱われる年齢だった。十六歳以上は大人として扱われ、十九歳なら当然酒も飲める。けれど彼女が暮らしていた国では、十九歳でもだめなのか。
「――ちょっと失礼」
ラングは祐奈の前に置かれていた飲みさしのグラスを手に取り、匂いを嗅いでみた。フルーツの甘い香り――でもそれだけだ。酒の匂いはしない。
一旦置きかけて、手が止まった。
ラングは直感を大事にしている。そのおかげで命拾いしたことも何度かある。彼の勘が、これは絶対に酒だと告げていた。
グラスに口をつける。飲み込むと、初めは果実を絞った、ただのジュースのように感じられた。しかしその向こうに味わい慣れた何かがある。
まさか――これが聖具か?
酒であるのにアルコールの匂いが消えている。脳が騙されているような感じがした。
口に入れた時に酒だと悟られないように、なんらかの細工がなされているようだ。それは別の強い香りで打ち消すだとかの、小細工ではない。
祐奈は何杯飲んだのだろう? 酒だと分かっていれば彼女もセーブしただろうが、ゲームをする名目で長時間拘束されていたのだから、手持ち無沙汰でついドリンクに手が伸びたかもしれない。多量に飲酒したのだとすれば、いつもと様子が違うわけである。
「ラング准将……私、ちょっとお願いがあるのですが、聞いていただけますでしょうか?」
祐奈がそんなことを言い出したので、ラングは酒について考えるのを一旦やめることにした。
珍しいこともあるものだとラングは思った。彼女から『お願いがある』と言い出すなんて。
「ええ、もちろん。なんでしょう?」
「あの……あのですね」
「遠慮しなくていいですよ。なんでもおっしゃってください」
「本当ですか? じゃあ」
祐奈が嬉しそうに言葉を弾ませる。
ラングはなんだって叶えてやりたくなった。優しい瞳で彼女を見つめながら待つ。
すると。
「このオオカミ耳を着けてくださいませんか!」
テーブルの上にあったあの奇妙な飾りをガシッと鷲掴み、声高らかにそんな馬鹿げたお願いを口にするではないか。しかも椅子の上でぴょんぴょん跳ねるように腰を数センチ浮き上がらせて、ノリノリの様相である。
ラングは完全にフリーズした。……なんだって?
「見たいー、見たいのですー」
祐奈が身を捩るようにしてねだってくる。
なんだこの刑罰。こちらに拒否権はあるのか?
「祐奈」
「だめでしょうか? ものすごく見たいのです」
ヴェール越しでも必死さが伝わってきた。
ラングは拒めなかった。拒めるわけもなかった。
祐奈以外の誰かが言ったなら――それが世界で一番偉い人であっても――こんな頼みは絶対に聞かない。しかし普段我儘を言わない彼女に、この必死さで頼み込まれたら。
「……分かりました」
ラングは彼女の手からカチューシャを受け取り、ほとんどやけになって頭に載せた。自分ではどうなっているのか皆目見当もつかない。
こちらの気分は落ち切っていたが、祐奈のほうは大層ご満悦だった。
「うわぁ、可愛いですー! すごいよぉ、ラング准将ぉー!」
何がすごいんだ。ラングは今一番酒を欲しているのは自分だと思った。
それでいつもは言わない意地悪を口にしていた。
「祐奈は着けないんですか? 俺も見たい」
「えー、でも似合わないしなぁ」
「似合いますよ。見せて」
「えー」
急に声のボリュームが上がったり下がったりする。典型的な酔っ払いである。
祐奈はゆらゆらと揺れながら考え込んでいたようだが、やがてこくりと頷き、こんなことを言ってきた。
「仕方ないれすねー。ラング准将に頼まれたら、私も『否』とは言えません。よぉし、着けましょう、ネコ耳を! ……あ! ウサギ耳とどっちがいい?」
「どっちでもいいよ。――じゃあ、ここにあるからネコ耳で」
どうせヴェールの上からだから、変な図になるだろうし。
机の上にあった猫耳を手渡すと、祐奈は一旦それを膝に仮置き、頭部に手を伸ばした。
「熱い……熱いなぁ」
情緒もへったくれもなかった。
ラングからすると『そんなまさか』の出来事。青天の霹靂。
頬杖をつきすっかり油断していた彼は、その瞬間、息が止まりそうになった。
祐奈がヴェールに手を伸ばし、躊躇いもなくずるりと引き下げたからだ。絹糸のような滑らかな黒髪が、ラングの目の前でさらりと揺れる。
祐奈は紗が目の前から消えて、一瞬戸惑った様子だった。パチリと瞬きひとつ。
そして、呆気に取られているラングと視線が絡むと、鮮やかな笑みを浮かべた。まるで花がほころぶように。
祐奈はいつもどおり、彼を見て笑っただけ。
ヴェールの下ではいつだって嘘偽りなく振舞えた。彼がそこにいるというだけで、なんということもないのに、笑顔を浮かべてしまうこともしばしばだった。
美味しいおやつをくれたり。
天気が良いですね、と声をかけてもらえたり。
おはようございます、と普通の挨拶をしたり。
当たり前のことであっても、彼と過ごす時間はすべてが特別に感じられる。
心が弾み、彼と視線が絡むと、笑みがこぼれる。
この時もそうだった。端正な彼が頬杖をついていて、珍しくダルそうで、それがなんだか可笑しかった。
……だけど彼、どうしたのだろう? 一時停止ボタンでも押されたかのように、すっかり固まっている。
こんな顔もするんだ……意外だな。いつも隙がなくて立派な人なのに、今日はなんだかあどけなく見える。それがなんだか可愛いなぁと思ってしまった。
オオカミ耳も着けているしね!
いつまでたっても彼がそのままでいるので、祐奈は手を伸ばし、くすくす笑いながら彼の肩をポンポンと叩いてやった。
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