第38話 祐奈の深い悲しみ


「彼はどうしてあなたに告白しないの?」


 どうして? って。


「それは、私のことが好きじゃないから」


「じゃあ好きだと仮定して、告白してこない理由を考えてみて」


「え? そんなの、ありえな――」


 ヴェール越しにアイヴィーと見つめ合う。祐奈は混乱していたし、言葉が続かなかった。


 アイヴィーが物思うような表情を浮かべる。


「ねぇ、もしかしてだけど……あなたが着ているドレス、彼が選んだ?」


 尋ねられ、祐奈は自身の格好を見おろした。……ええと、そうだけれど、なぜそんなことを?


 ドレスは初めにハリントン神父が一着用意してくれた。その後王都に着いてから出発までのあいだに、ラング准将が追加で何着か購入してくれたのだった。「一度で揃えないで、旅先で都度買い足しましょう」と説明もしてくれた――気候や流行も変わるからと。


 数着も買ってもらっただけで十分すぎると思うのだが、後々のことなどを丁寧に説明してくれるラング准将の心遣いはありがたかった。


 アイヴィーが祐奈の袖口のリボンを指しながら言う。


「――ほら、黒の袖飾り」


「え?」


「あなた、いつも黒いヴェールをしているのね?」


「ええ」


「このドレスの地の色――若草色はきっとあなたの好みでしょう」


 よく分かるなと祐奈は思った。アイヴィーはテーラー勤めというだけあって、着眼点が独特な気がする。


 彼女の言うとおりだ。ドレスを買う時に好きな色をラング准将から訊かれて、答えた――若草色、紺色、ダスティピンク、水色など。


 祐奈がこくりと頷いてみせると、アイヴィーがふふ、と笑みを浮かべる。


「地はあなたの好きな色で、けれどドレスのどこかに、黒いリボンだとか――あるいは、そうね――黒の飾りボタンだとか、黒のレース飾りだとか、何かしら品良く入っているんじゃない?」


「あ」


 思い当たるふしがあった。そう――そのちょっとした黒の飾りやラインがワンポイントになっていて、すごく可愛いなぁと思っていたのだ。


 しつこく黒が主張してくるわけでもなくて、ほんの少しだけ、さりげなく入っている。彼が用意してくれたドレスには、すべて。


 実はヴェールは洗い替えできるように、ハリントン神父から同じ作りのものを三ついただいていた。そのどれもが黒だったので、ヴェールの部分はいつも代わり映えしない。だからこその、ドレスのワンポイントなのだろう。


 アイヴィーは人差し指でトントンと袖口の飾りリボンを指しながら言う。


「彼はちゃんと考えている。黒いヴェールに合うように――あなたが可愛く見えるように。これ、処理がとても丁寧で自然に見えるけれど、既製品だとしたら後付けで加工してもらっていると思うよ。一点ものなら細かくオーダーしたのだろうし」


 祐奈の頬が赤く染まった。彼がそんなことまで考えて、手配してくれたのだとしたら……。


 少なくとも選んでくれているあいだは、祐奈のことを色々考えてくれたのだ。職務だから仕方なく準備したのではなく。ちゃんと似合うものを、と。


 祐奈が喜ぶように。あの頃の祐奈は落ち込み切っていたので、元気づける意味もあったのだろう。


「彼がもしもあなたのことを好きだとしたら、気持ちを伝えてくると思う?」


 アイヴィーの口調が改まったものに変わった。一段階、もしもの突っ込み方が変わった気がした。


 今度は祐奈も「彼は私を好きじゃない」とは言わなかった。


 彼のほうに好意があるのか、それはやはり分からない。けれどアイヴィーの指摘で、このドレスに込められたラング准将の想いを知ったことで、彼女の質問については一度仮定として受け入れて、真剣に考えてみるべきだという気がしたのだ。


「言ってこないと思います」


「どうして?」


「それはヴェールが……」


「ヴェールが、何?」


「私、彼に顔を見せたことがないから」


「どうして見せないの?」


「顔に問題が……あって」


「あなたが自分の意志で、絶対にヴェールを外さないのね? それって彼を信用していないっていうこと?」


 祐奈は答えられなかった。信用はしている、でも――実際に見せていないのだから、信用していないことになるのだろうか?


 分からない。なんだか理由が分からないのに、涙が溢れてきた。


「私……少し前に、ものすごく嫌なことがあって。自分には全然これっぽっちも価値がないって、その時に思ったの。いっそ消えてしまいたかった。誰も私のことを好きになってくれないって思ったし……自分のだめさ加減がとにかく情けなくて。恥ずかしくなって。悲しくなって。息をするのもつらくて」


「そっか……それはしんどいね」


 アイヴィーも涙をこぼした。もらい泣きというやつだろうか。祐奈の声がみっともなく震えていたので、つられてしまったのかもしれない。


 祐奈は祐奈でアイヴィーが自分のために泣いてくれているのを見て、胸が温かくなって、さらに涙が零れてきた。優しく心に寄り添ってもらった気がした。


 それで、これまで誰にも話したことがなかったことを口にしていた。


「彼は――ラング准将は素敵な人で、あの時私を軽蔑して傷つけた人たちとは違う。分かっているけれど、でももう私、誇れるものが何もなくなったような気がして。一度ゼロになってしまったというか、生きるために必要なエネルギーみたいなものが底をついてしまったの。毎日平気なふりをしていたけれど、でもまだ元には戻っていない。空っぽの体で、やっと生きている。だからまた胸を張れるようになるには、たぶんすごく長い時間が必要なんだと思う」


 普段は冗談も言えるし、ご飯も食べられる。でも、心の底に開いた空虚な穴は塞がっていない。


 欠けているのを認めたくなくて、そこから意識を逸らせたくて、平気なフリをしてしまう。大丈夫だと自分を騙していないと、崩れ落ちてしまいそうだから。


「なんか分かるぅ……分かるよ」


 アイヴィーが顔を歪めて頷いてくれた。アイヴィーが否定せずに聞いてくれるから、祐奈は子供のようにしゃくり上げてしまった。


「ラング准将は、私のことを好きではないけれど……でも……アイヴィーの言うとおり、仮定の話として、彼が私のことを大切に思ってくれているとしても、ヴェールがあいだにある限り、彼は気持ちを言わないと思う」


「どうしてぇ?」


「私が彼にすべてをさらけ出していないから。だってそれは対等な関係ではないでしょう? 隠しごとがある。だから本当は私、ヴェールを脱がなくちゃだめなの。それで初めて、前に進むのかを決められる。今はまだスタート地点にすら立てていない」


「前に進みたいけれど、それには時間がかかるんだね」


「私、とにかくまだ無理なの」


 情けないよ。なんで自分はこんななんだろう。もっとシャンとしたいのに。しっかりしなきゃだめなのに。


「そうなんだ。つらいね」


「悲しい。頑張りたいのに、意気地なしなの」


 結局臆病なのだ。自分は。――振られてもいいから、ヴェールを外して、ラング准将に気持ちを伝えられたらいいのに。


 彼はきっと気持ちがないなら、ちゃんと振ってくれる。部下とか上司とか関係なく。彼は誠実な人だから。


 祐奈だって――振られるのは仕方がないと思うし、ちゃんと正々堂々真正面からぶつかって、それでもだめだったなら、すっきりできるような気がするのだ。


 ……いつになったらヴェールを外せるんだろう?


 なんらかの手応え――聖女としてちゃんとできていると、自分で自分を許せたら? でもそれはいつになるの?


 全然分からない。


 月日が必要と言ったって、今日から明日になってもきっと何も変わらないだろう。何も変わりはしない。


 だけどひとつだけはっきりしているのは、ラング准将は待つだろうということだけ。彼は祐奈の心が決まるまで待つだろう。


 たぶん彼は、祐奈に恋心を抱かれていることに気づいているんじゃないだろうか。


 でも急かさない。振るにしても、受け入れるにしても。


 祐奈が自分の足で立ち上がり、彼と真正面から向き合える日まで、見守ってくれる。


 そういう人だ。そういう人だから、祐奈は彼が好きなのだ。


 たとえ想いが叶わなかったとしても、この恋を悔やまない。彼を好きになったこと、それだけはきっと何十年たっても誇れると思う。


 アイヴィーとふたり手を取り合って泣いた。声を出して、子供みたいに号泣した。


 アイヴィーはすごく優しくて、「つらかったね」といっぱい慰めてくれた。たぶんアイヴィーも傷つけられてきた側の人間なのだ。だから他人の痛みが分かる。


 祐奈は泣きながら考えていた。――過去、嫌な思いをたくさんしたけれど、自分もアイヴィーみたいに優しい人間になれたらいいな。他人のつらい気持ちに寄り添って、一緒に泣いてあげられる、そんな思い遣りのある人になれたらいいな。


 たっぷり時間がたって、ふと気づけば、司教のビューラはいつの間にか部屋からいなくなっていた。


 アイヴィーが祐奈の手をぎゅっと握り、赤くなった目で決意表明をした。


「私――決めた。彼に告白する。祐奈の話を聞いていたら、私はヴェールをしていないんだもの、もう前に進まないとだめだって気づいた」


「うん、うん」


 もうまた泣いちゃう……頑張れ、アイヴィー、頑張れ!


「振られても、きっと前を向けるはず――だから今から行く!」


 え、今から?


 祐奈はびっくりして目を丸くしたのだが、すぐに大きく頷いてみせた。


「それがいいよ! 言いたいこと、全部言えるといいね!」


「ありがとう祐奈! 祐奈も――いつか彼にヴェールの下の素顔を見てもらえるといいね!」


 告白すると決めたアイヴィーは凛々しくて格好良かった。


 祐奈は何度も頷き、「頑張れ」「頑張れ」と繰り返した。もう気分はアイヴィーのおばあちゃんにでもなったみたいな感じで、愛しくて仕方なかったし、心から彼女の幸せを願っていた。


 アイヴィーが出て行き、部屋には祐奈ひとりが残された。――いや、番犬のルークもいる。ルークは眠そうに、ウサギ耳を片手で払い落として、床に伏せをしてウトウトしていた。


 祐奈はここが修行部屋みたいだと考えていた。


 参加した皆は悩みを克服できたから、ここから出られた。祐奈はまだ克服できていないから、出られない。


 グラスを手に取り、紗の下にくぐらせて少し喉を潤した。


 ……ひとりでいるの、寂しいなぁ。ラング准将に会いたいなぁ。


 ラング准将はいつも優しい目で話を聞いてくれる。彼が隣にいると、胸がポカポカする。


 祐奈は小さく鼻をすすった。


 ほんの少し離れただけなのに、寂しいな。……不思議だな。

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