第31話 ああ、ヴェールが……‼


「あそこに『力強い族』のスパイがいるぞ! 醜い聖女だ!」


 騒動の中、ヴェールの聖女を指差す人物がいる――それはフリンの側近を務める髭面のディーだった。彼は霊能者フリンの側に侍り、暴徒を先導しようとしていた。


 フリンは日向ぼっこをするキツネのように瞳を細めていて、ホールの中でただひとり、この状況を楽しんでいるようだった。おそらくディーに先の台詞を言わせたのもフリンだろう。


 ホール内があまりに騒がしかったので、先の言葉で衆目を集めることはできなかったようだが、局地的な関心を引くことには成功したようだ。


 いくつかの血走った目が、西区画に通じる通路のほうへと注がれる。


「うわぁ、マズい」


 リスキンドが呟きを漏らし、身を乗り出してピシャリと扉を閉めた。


「――祐奈、こちらへ」


 ラング准将に手を引かれて、祐奈は駆け出した。壁際にいたブロンデル総督は目を見張り、直立不動で固まっている。


 一拍後、すさまじい勢いで扉が叩き開けられ、暴徒が飛び出してきた。


 横に避けていたリスキンドが足をさっと前に出して、先頭のひとりを転ばせる。続いて飛び出してきた男がそのひとり目に躓いて転び、狭い出入口で流れがせき止められた。


「カルメリータ、逃げるよ!」


 このドサクサに紛れて、リスキンドはカルメリータのふっくらした手を取って促した。カルメリータは顔を強張らせ、慌ててそれに従う。


 ――先行するラング准将と祐奈は裏口を目指して走っていた。


 表(エントランス)は集会参加者たちが動線として使い慣れているので、時間経過と共に人の数が増えていくだろう。姿を隠すには奥へ行くしかない。


 ところで築年月の古いこの建物は、思わぬ場所に横道が存在したりして、平面図が少々込み入っていた。これは無軌道な増改築の結果なのか、はたまた外敵から襲撃を受けた際に時間を稼ぐための策であるのか、詳細は不明である。


 ラング准将は裏口を目指して迷いなく進んでいったのだが、その込み入った横道から突然人が飛び出してきたことで不意を突かれた。


 祐奈を抱き寄せながら迎撃態勢に入るも、相手の怖気づいた顔を見た瞬間悟る――これはただの使用人だ。もしかするとブロンデル総督の部下だろうか。身なりが良く、事務方の人間特有の雰囲気がある。


 一瞬足が止まった所に、リスキンドとカルメリータが追いついてきた。――見れば、暴徒を複数名引き連れている。


 この狭い廊下で剣を抜いてしまうと、却って小回りが利かない。


 殴りかかってくる男の拳を避け、リスキンドが素手で応戦し、混戦になった。あまり良い状況ではなかった。


 追手は八名――問題になるような人数ではない。しかし互いの距離があまりに近かった。


 リスキンドが殴り倒した男がカルメリータのほうへ倒れ込み、さらに陣形が崩される。


「――カルメリータさん!」


 祐奈が飛び出そうとしたので、ラング准将は彼女の体を後ろから抱き留めた。


 そこへ暴漢の手が伸びて来て、祐奈のヴェールを正面から掴んだ。


 ラング准将は懐に祐奈を抱え込んだまま、右手を下から回して敵の袖を掴み、流れるような動作で右斜め下にいなした。


 護衛対象を懐に抱え込んでいるという複雑な体勢のまま、前にいる祐奈の体を少しも潰すことなく、すべての動作が滑らかに展開された。それはあまりに見事な返し技だった。


 複雑なことは何ひとつしていない。シンプルな初歩の体術だからこそ、明確に力量が表れる。ラング准将の崩しの技術がハイレベルすぎて、投げられたほうは床に背中が当たってから、やっと転んだ事実に気づかされたのではないだろうか。


 男の転倒と共に、祐奈は目の前から黒の紗が取り払われるのを感じた。転がされた男がヴェールをしっかりと掴んで離さなかったため、そのまま脱がされてしまったのだ。


 あ――


 祐奈は驚きのあまり目を瞠る。今やヴェールの聖女の顔が素晒しにされていた。


 しかし旅の仲間であるリスキンドは今現在肉弾戦の真っ最中であり、カルメリータはその様子を手に汗握って見守っていたので、祐奈が今どんな状態になっているかを見た者はいなかった。


 そしてラング准将は彼女の真後ろにいるので、当然顔は見えない。


 そこへ正面からさらに新手の暴漢が突っ込んできた。


 ラング准将はトン、と祐奈の右肩を軽く押し、彼女の体を反転させながら、鮮やかに立ち位置を入れ替える。


 祐奈はくるりと回りながら、いつの間にか自分が壁のほうを向いていたので茫然とした。


 な、何が起こったの――


 背中の向こうで硬質な打撃音が響く。次の暴漢もあっさりと床に沈められたようだ。


 ラング准将は息すら乱していない。彼は顔色ひとつ変えずに、初めに引き倒した男の頭部に掌底を叩き込んだあと、あっさりとヴェールを奪い返してしまった。


 制圧後、背中越しに祐奈に語りかける。


「――祐奈。走れますか」


「はい」


 彼が後ろ向きに手を差し出してくれる。


 ラング准将は祐奈の顔を見ないよう、振り返らなかった。


 祐奈はぎゅっと彼の大きな手を握り返した。


 綺麗な手だといつも思っていた。長くて形が良い指。そして甲に浮き出た中手骨のラインが意外とくっきりしているのを見ては、そこに男性的な色気を感じたりもして。


 普段は優美ですらある彼の手は、こんな時はとても大きく感じられ、頼りになる人だと改めて気づかされる。


 温かくて。こんな時でも力加減が優しい。


 手を引かれて祐奈は走り出す。細い迷路のような通路を駆け抜けていく。すぐにリスキンドとカルメリータも追いついてきた。


 ラング准将は通路の左側にある扉のドアノブを掴み、押し開いた。先にあるのは、小部屋のひとつだった。


 祐奈は顔を伏せながら彼のあとに続いた。あとのふたりも雪崩れ込んでくる。


 ラング准将は祐奈を背後に回した状態で、リスキンドに手短に告げた。


「――ここでしばらく時間を潰す。裏口からすぐに出ると却って危険だ」


「それがいいと思います」


 リスキンドは少し痛めたらしい拳を振りながら、壁に寄りかかってへたり込んでしまう。


「……あーもう、だから肉弾戦は嫌いなんだよ」


「リスキンドさん、すごく強くて見直しましたよ!」


 カルメリータが傍らで元気づけているのが、なんだか微笑ましい。


 遠くのほうで怒号が響いていた。――聖女を捕まえろという内容ではなく、玉の予言により我を忘れた暴徒たちのイカレた騒ぎだった。


 確かにこの状況では、すぐに外に出ないほうがよさそうだ。祐奈はやっと人心地つくことができて、ラング准将の背中に額をくっつけていた。


 ……ああ、怖かった。


「あれ? そういえば祐奈っち、ヴェール外れてない?」


 床にへたり込んでいたリスキンドが目敏く気づいて、そんなことを言ってきた。


 ラング准将が上手く身体の向きを調整して、祐奈の姿を後ろに隠してくれていたのだが、彼が暴徒から回収したヴェールを右手に提げているので、それで気づかれてしまったらしい。


 廊下を駆けていた時は、追ってくる暴徒を捌きながら、そしてカルメリータをかばいながらの逃避行であったので、祐奈のヴェールにまでは意識が向かなかったのだろう。


「あらまぁ」


 カルメリータが思わずといった風情で呟きを漏らす。


 背を向けているラング准将が落ち着いた声音で問いかけてきた。


「祐奈。怪我をしていないか確認したいので、振り返ってもよろしいですか?」


「あ、でも」


「顔は手のひらで隠してください。――すみません、直接確認したら安心できるので」


 先の騒動はかなりギリギリの攻防だった。


 ラング准将はもっと危険な修羅場をくぐり抜けたこともあるが、絶対に護らなければならない人をそばに置いて戦った経験はあまりない。


 祐奈がヴェールを剥ぎ取られたことは、彼にかなりの衝撃を与えた。あと少し暴漢の腕が伸びていたら、怪我をさせていたかもしれない。


 この時のラングはやはり心が乱れていたのだろう。表向きは落ち着いて見えたけれど、一刻も早く祐奈と向き合いたいという気持ちに支配されていた。


 このまま後ろ手にヴェールを渡して、彼女がひとりでそれを着けるのを待ってから、事務的に振り返るのは嫌だったのだ。


「わ、分かりました。どうぞ」


 祐奈のか細い声が了承の意を示したので、ラングは慎重に体を反転させた。


 彼女は華奢な肩を縮こませて、両手で顔を覆っている。


 髪――


 そういえば初めて見たなとラングは考えていた。


 艶やかで癖がなく、まるで絹糸のように滑らかだった。彼はこれまで生きてきて、これほど綺麗な髪の女性を見たことがなかった。鎖骨の少し下あたりまでの長さで、その軽やかさがいかにも彼女らしいと思った。


 華奢で女性的な作りの手。楽器でもたおやかに嗜みそうで、眺めているだけでしばらく時間が潰せそうだ。


 いつもは彼女の手を眺めるのが好きなのだけれど、今ばかりはそれが邪魔をしていると残念に思った。


 そっとヴェールを彼女の頭にかぶせる。初めにティアラの部分を慎重に乗せた。


 背中側に流しておいた重苦しいヴェールの前部分を、顔のほうに持ってくる。


 紗が前髪部分を隠し、さらに下へ――


 祐奈は手で顔を覆いながらも、衣擦れの気配を感じたのだろう。前髪にヴェールが触れたせいかもしれない。おそらくもうかぶされたのだと錯覚した。


 彼女はこの時気を抜いてしまったに違いなかった。彼女の指がゆっくりと動く。下へ――


 顔を覆い隠していた手が下がり、指先が瞳の下に添えられた。彼女は俯き加減で、おそらくラングの胸下辺りに視線を向けていた。


 伏せた睫毛の下に、黒曜石のように輝く美しい瞳がある。アーモンド型の瞳はくっきりした二重で、物柔らかなのに、可憐で、鮮烈だった。


 ヴェールが重力に従い、ゆっくりと落ちる。落ちる――


 ラングはそれを瞬きもせずに見つめていた。


 それは一秒にも満たない僅かな時間。しかしまるで永遠のような一時だった。


 紗がすべてを覆い隠してしまう。まるで魔法が解けたかのように。


 祐奈が身じろぎして、顔を上げた気配がした。


 ヴェール越しに視線が絡む。


 ラングはもどかしさを感じていた。


 今――たった今、本当の君が目の前にいたのに。気づけばまた元のとおりだ。


 醜い聖女だって?


 胸の奥深くから、衝動めいた何かが突き上げてくる。


 あの美しい瞳を持つ女性が、醜い? 馬鹿な――


 手のひらでは隠しきれなかった顔の輪郭――華奢な顎のライン。耳近くの露出していた肌は、瑞々しく輝きを放っているかのようだった。神聖でかけがえのない存在なのだと、見た瞬間に分かった。


 過去一番に醜い聖女――巷ではそう評されている。彼女自身も「私は醜いのです」と、恥じたように語っていたけれど。


 彼女の佇まいに、生き方に、醜いところなんて何ひとつなかった。


 いつだって善良で、努力家で、ひたむきで。


 そして先ほど見たあの鮮烈な瞳――あれはラングが思い描く彼女の姿にピタリと嵌まる。


 なぜだ――強く胸を揺さぶられる。


 一体何がどうなったら、こんなおかしなことが起こり得るのだろう?


 ラングはこれまで他者の容貌にはあまり関心がなかった。――彼女が美しかろうが、そうでなかろうがどうでもよい。さして意味もない。彼女は彼女であるから、と。


 しかしそれも少し違うのかもしれない。


 美しかろうが、そうでなかろうが、それはどちらであってもいい。けれどやはり容姿はどうでもよくはないのだ。それは彼女を構成する要素のひとつであり、切っては離せないものだから。


 きっと彼女の本当の姿を知ることで、今心の中で欠けているピースがカチリと嵌まる。ラングはそれを悟った。


 彼女の素顔を知らない現状は、彼自身の心に空虚な穴を開けているのだと。


 渇望は喉を焼き切りそうなほどだった。知りたい――彼女が本当は何者であるのかを。


 あの美しい瞳を直接覗き込んで、彼女の瞳に自分が映っているのを確認したい。


 先ほどの、互いのあいだにヴェールが存在しなかった一時が、脳内で繰り返し再生される。


 顔を覆っていたあの華奢な手を取り、開かせて。もっと見せてほしい。


 ――それで、見てしまったら?


 きっとさらに多くを望んでしまうのだろう。もっと彼女のそばに近づきたくなるのだろう。


 心も

 体も


 深く

 深く――


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