第29話 絆
翌日、リスキンドは早起きをして冒険に出かけた。
ルークは助けてもらった恩を感じているのか、自主的にリスキンドについてきた。昨日バッドに蹴られた恐怖があるだろうに、ずいぶん勇敢なことである。
集会場に着き、裏口から侵入して、細い通路を迷いなく進んでいく。
やがて例のホール前に辿り着いた。――この側面口なら扉を開けてすぐに、円柱の死角に滑り込める。中に人がいたとしても、気づかれづらいだろう。
そっと扉を開けて中を覗くと、バッド少年が台座の前あたりに佇んでいるのが見えた。手に雑巾を持っているので、おそらく上から掃除をするよう言いつけられているようだが、相変わらず仕事をしている様子はなかった。
リスキンドは膝を折り、足元でお利口に控えているルークの鼻先に顔を近づけた。
「お前はここで待ってな。あいつの近くに行くのは嫌だろう?」
ルークは潰れた黒い鼻先をスンスンと動かして、つぶらな瞳でリスキンドの顔を見上げている。
なんとなくこちらの気持ちは伝わったような気がして、リスキンドが扉の隙間から中へ滑り込むと、ルークも当然のように側に侍ってきた。
――畜生、可愛いやつだな! とリスキンドは眉を顰めて内心悶えてしまう。
足音を忍ばせながら柱の陰まで急ぐ。ルークもぴたりとくっついてきた。心なしか短い足を折り曲げるようにして、抜き足差し足している。
顔を出しすぎないよう気をつけながら台座のほうを眺めると、なんだかおかしなことになっていた。
バッド少年はどうにも危なっかしい状態に見えた。ふらふらと蛇行するように歩き、気ままに鼻歌を口ずさんでいたかと思えば、急に癇癪を起してひとり怒鳴り散らしたりしている。
何かを口走っている時は、あまりに大声ではっきり喋るもので、ほかに誰かいるのかと訝しんでしまったくらいだ。「くそう」だとか「殺す」だとか、あとは意味不明の奇声だとかを断続的に叫んでは、無様に踊り、急に疲れたように止まり、ポケっと宙を見つめ、石床に寝転がったりと、自由気ままに振舞っていた。
やがて彼は台座の近くへと歩み寄っていった。
そしてそこに飾ってある龍の口に手を突っ込んでから、先ほどまでの無軌道な態度をいくらか改めて、はっきりと次のように言葉を発した。
『国王陛下崩御』
『力強い族がポッパーウェルを攻撃する。精霊の加護を失う前に』
『新年までに世界から犬が絶滅する』
祐奈の言っていたとおり、あれが録音装置だとすると、今朝は大サービスで三件も吹き込んでいる。
リスキンドは冷めた目でバッド少年の歪んだ佇まいを眺め、静かに踵を返した。
少ししてホール側面の扉が閉まり、何か気配を感じたらしいバッド少年が振り返ったのだが、視線の先には猫の子一匹見つけられず、なんの痕跡も読み取ることができなかった。
***
宿に戻ったリスキンドが朝の出来事を報告すると、場に重苦しい沈黙が流れた。
ラング准将は差し迫った脅威を感じていた。
ポッパーウェルの住人は元々、力強い族に対して異常なほどに嫌悪の感情を抱いていた。その緊張がこの上なく高まっている。
衝突はそう遠い未来の話ではない。そして一度始まってしまえば、多くの血が流されるだろう。
憎悪犯罪(ヘイトクライム)は根が深い。今回は意図的に感情が操作され、最悪の結果に向かいつつある。
ラング准将は中央のやり口についてはよく承知していたので、ポッパーウェルの住人と力強い族とのあいだでいざこざが起こったとしても、王都シルヴァースのお歴々はさして気にも留めないであろうと予想していた。
有力貴族が絡んでいれば、つまらない騒ぎであっても過敏なくらいに反応しそうなものだが、そうではない小競り合いには基本干渉したがらないのが彼らの常だ。
ラング准将としては力強い族の故郷が争いに巻き込まれる事態は防ぎたかった。ブロニスラヴァとは顔を合わせたばかりであるし、彼の真っ直ぐな気性にも好感を抱いていた。
それに現実問題、ポッパーウェルにはどうあっても勝ち目がない。力強い族の元には、すでに祝福の精霊アニエルカが嫁いでいるからだ。
ポッパーウェルが争いの準備を整えて出立する頃には、力強い族の故郷はさらに力が増強されているはずで、誰が攻め込んだとしても瞬殺されるだろう。仕かけた側が犬死にする未来しか見えない。
ブロンデル総督を説得することで、彼らをこの馬鹿げた盲目状態から目を覚まさせることができるものなら、直ちにそうすべきだった。
「――祐奈」
「はい」
彼女の声はいつものとおり静かで控えめだった。そのためラング准将は、彼女がこちらの言うことを素直に聞き入れるだろうと思い込んでいた。
「集会場は危険ですので、こちらの宿で待機していただけますか。リスキンドを護衛に置いていきます」
「ラング准将は……」
「私は単独で赴き、ブロンデル総督を説得してみます。可能ならば、集会に参加している住民にも話をしてみようと思います」
しかし地に足がついていない彼らの様子を思い出してみると、冷静さを取り戻させるのはほとんど不可能だという気もしてくる。
彼らを思い止まらせる方法があるとするなら、圧倒的武力でもって一気に制圧をかけるか、もしくは心酔している霊能者フリンを懐柔して、やつに説得させるかの二択しかない。
いつからこの不可思議な支配体制が始まっていたのかは不明であるが、今やポッパーウェルの町は完全にフリンに掌握されている。
様々な手管を用いて周辺地域から孤立させ、住民に不要な不安を植えつけ、巧みに外への憎悪を煽り、この地獄を救えるのはフリンだけだと信じ込ませた。
おそらく初めは崇拝者も僅かしかいなかったのだろうが、次第にその数は増えていったのだろう。集団心理の怖さがここにあると思った。皆が右を向いているなら自身も右を向いてしまったほうが楽であるし、何かに縋って思考を放棄してしまうのはとても簡単だ。
「ラング准将」
ふと気づけば、祐奈がこちらを見ていた。ヴェールで遮られているのに、彼女のひたむきな視線が真っ直ぐにこちらに注がれているのが、はっきりと感じ取れる。
「私も行きます。お願いです、連れていってください」
「しかし危険です」
「そうですね。でも説得は私の仕事だと思います」
「それは違う。この町は聖具の調査で立ち寄っただけですから、争いごとの調停は任務に含まれていない」
「ですが、先の拠点での精霊の嫁入り先は、私が独断で決めました。それが今回、争点になっていますよね。――私の評判が悪くて不甲斐ないから、このようにフリンさんにつけ入らせる隙を作ってしまったのだと思います。だから私が責任を持って、ブロンデル総督に話すべきです」
……驚いた。茅野祐奈という女性は大人しく控えめで、滅多なことでは自己主張しないタイプだと思っていた。
先の拠点モレットでは見事に場を取り仕切ってみせたが、それは彼女自身が『精霊の嫁入り先を探す』というのを、自らの責務だと思い詰めていたからであって、あくまでも聖女として任せられた業務に関してはきっちりやるスタンスなのだと思っていたのだ。
だというのに、今の彼女からは『一歩も退かない』という強い意志を感じる。
「今回、あなたにはなんの責任もありませんよ」
「責任ではなくて、何かしなくてはと」
「なぜそこまで思い詰めているのです?」
「私、アニエルカのことを友達だと思っているからです」
祐奈はドレスの布地を握り締め、ぎゅっと力を込めている。
「――祐奈」
「足手まといなのは分かっています。たぶん説得だってラング准将のほうがずっと上手くできる。でもお願いですから、連れていっていだけないでしょうか」
ラング准将は自身がかつてなく迷っているのを自覚していた。……本当に困った。平素の自分ならば、どうしただろうか。
職務上、最善を尽くす――当然のことながら、それが前提ではあるけれど。
ひとつだけはっきりしているのは、祐奈以外のあるじを前にしていたなら、ラングは一切迷わなかったということだ。すぐに最適の解を導き出し、明快に決断を下せたはず。合理的に、必然的に。
けれど今は祐奈の身の安全を考えすぎて、決められないでいる。私情が判断の妨げになっている。
そして自分でも驚きだったのが、ここまでやきもきしながらも、なお、『行きたい』という彼女の決心を尊重すべきだと考えていることだった。
護衛として正しいかというより、彼女に寄り添うひとりの人間として、心を無視すべきではないと強く感じた。それはあまりにも青臭い感情だった。
――結局、なんだかんだ言いつつもラングは、信念を持った彼女を好ましく思っていたし、その在り方に心動かされていたのだろう。
だから命に代えても、絶対に彼女を護り抜く。
ラングは腹を括った。
これまでに積み重ねてきた経験がある。己の力を過信しているわけではなく、実績があるからこそ、確信できることもある。
大丈夫だ。最悪の事態に陥っても、彼女だけは無事に逃がすことができるはず。
「分かりました。一緒に行きましょう」
***
結局、リスキンドもカルメリータもついてくることになった。(さすがにルークはお留守番であるが)
カルメリータに関しては留守番でよいと考えたラング准将であったが、本人が、
「祐奈様が行かれるなら、私も絶対に行きます」
と口角を引き結んで、断固たる決意を滲ませて訴えてきたので、どうにもできなかった。
普段は天然ですぐに言いくるめられるのに、こんな時はいやに強情なものである。
ラング准将はしみじみと、『普段我儘を言わない人間が一度こうと決めると、テコでも動かないものだな』と考えていた。そしてついでにいえば彼は、そういう頑固で不器用な人間が好きなのだった。
だからもうこれ以上つべこべ言っても仕方がない。集会所前でリスキンドのそばに寄り、
「いざとなったら、どんな手を使ってもいいから、祐奈とカルメリータを護れ」
と彼だけに聞こえるように申し伝えた。
リスキンドの青灰の瞳が、微かに驚きを含ませて、上官であるラング准将を見つめ返す。視線がしっかりと絡んだ。
――リスキンドはラング准将の静かな覚悟を見て取り、自身も腹を括った。
つまりは有事の際は躊躇いなく『剣を抜け』ということだ。たとえそれを向ける相手が一般市民であったとしても。
ラング准将もリスキンドも、自分が命を落とす覚悟はできている。しかし相手を殺すことに関しては、やはり躊躇いが働くものだ。
相手が堅気の人間でないのなら、正直なところ武力行使にもさして抵抗はないのだが、しかしそれが一般市民相手だと話は変わってくる。綺麗事を言うなら、手は汚したくない。
しかしラング准将はとうに覚悟を決めているのだ。場が荒れた際に初動で躓かぬよう、リスキンドにも今のうちに心を決めておけと促している。
もちろん、そうしなくても切り抜けられるような状況ならば、いつもどおりの手順で対処すればいいが、数十名に取り囲まれて祐奈とカルメリータに危険が及ぶような場合は、絶対に迷うなということだ。
リスキンドはしっかりとラング准将を見つめ、佇まいを正した。
「必ず護ります。お約束します」
ラング准将が知る限り、リスキンドが「約束する」と言って、それを違えたことはただの一度もなかった。だから瞳に感謝の意を乗せて、部下であり、かけがえのない戦友でもあるリスキンドを見つめた。
「――頼む」
ラング准将独特の、艶のある落ち着いた声。
軽くこちらの肩を叩いてから先を歩き始めた彼の背中を眺めて、リスキンドは口元が微かに緩むのを自覚する。
……これだからなぁ。ラング准将には敵わない。
結局自分は何があろうともこの人について行くし、たとえそれで命を落としたとしても、これっぽっちも後悔しないのだ。
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