第27話 初めて魔法を使ってみた


 あまりにラング准将に近づきすぎていることに気づき、はっとして距離を取る。


 ふと視線を巡らせると、リスキンドが柱に寄りかかって手を頭の後ろで組み、『俺は見てませんよ~』とばかりに、わざとらしく明後日の方角を向いているのが見えた。


 しかし目敏い彼がああしてとぼけているということは、逆にこちらが気づいていない時は、穴が開くほどジロジロ眺め回していたはず――そのことに思い至ると、祐奈は恥ずかしさから真っ赤になってしまった。


 そして思い遣りのあるカルメリータはといえば、口元に手を当ててもじもじと床を眺めている。しかしやはり好奇心は抑えられない様子で、チラ、とこちらに視線を向けては、また視線を下げてという動作を繰り返していた。


 祐奈は呻き声が漏れそうになった。


 こんなふうにされるくらいなら、もういっそじろじろ見てくれたほうが! それで何か言ってくれたほうが、よほど気が楽なんですが!


 そうしたらこちらも「ラング准将は仕事でかばってくれただけで、この態勢は私が動転して寄りかかってしまったんです」と言い訳できるのに。


「――行きましょうか」


 さすが、ラング准将はまるで照れた様子がなく、穏やかにそう促す。祐奈に対して特別な気持ちがないので、当然かもしれないけれど。


「はい……」


 対し、祐奈は目が回りそうなくらいに動転していた。


 俯きながら足を進めるのがやっとで、ラング准将が優しく包み込むような視線を向けてくれていることにも気づけないでいた。




***




「こっちから出ましょう」


 入って来たのとはまるで違うルートを指し示して、リスキンドがそんなことを言う。彼は西区画に通じる扉から出てみたいらしい。


 こういった提案はいかにも彼らしいと感じた。普段の要領の良さの下地がなんとなく分かるというか。


 リスキンドは勝手に施設内を探訪するなど、少々礼儀知らずなところもあるのだが、このはみ出し具合が職業柄必要な部分なのかもしれない。こうしてあれこれ準備しておくことで、不測の事態に対応できるからだ。


 たとえ下調べ自体が無駄になったとしても、行動の発端は好奇心から発生しているようなので、本人的にはそれはそれで構わないのかもしれない。いつだって無理をせず好きに行動するのが、彼の持ち味なのだろう。


 ラング准将はリスキンドのそういう所には慣れているのか、彼の案に異を唱えることはなかった。


 リスキンドの先導で、側面の薄暗い廊下に足を踏み入れる。――彼は分岐点で、気まま気ままに道を選んでいるように見えたが、実はなんらかの根拠を持ってそうしているらしかった。きっと頭の中で鮮明に地図が描けているのだろう。


 しばらく進んでから、リスキンドがラング准将のほうを振り返って告げる。


「この先、たぶん裏口ですね」


「方角的に北道路に出るな」


「それで全然関係ないんですけど、この建物、なんか嫌だなぁと思って」


「理由は?」


 ラング准将に問われたリスキンドは、難しい顔で考え込んでしまう。眉間に細かい皴を寄せ、食あたりでも起こしたみたいな顔つきである。


「うーん……掃除が行き届いていないから?」


「それが?」


「とにかく嫌。こういう所に心の乱れが出る気がする」


 カリスマ主婦みたいなことを言うものだなぁと祐奈は思った。


 だけどなんとなく分かる気もする――トイレが汚い飲食店はだめ、というのに近い感覚かも。そこを綺麗にできていないのなら、ほかへもきっと注意を払えていないでしょうね、というような。


「お前の言いたいことも分かるが、だからといってすぐに何かが起こるということもないのでは?」


「どうかなぁ」リスキンドは小首を傾げている。「なんか俺、建物から受ける印象って重要視しているんですよね。第六感とまでは言わないですけど、昔物騒な地域に住んでいたことがあるから、なんとなく分かるっていうか。騒動が起こる場所って、それっぽい雰囲気があるんですよ」


「なるほど」


 ラング准将にもリスキンドの言わんとしていることが伝わったようだ。


 祐奈も同じく、ストンと腑に落ちるものがあった。たぶんリスキンドが言っているのは『建物が汚い』という表面的なことだけではないのだ。


 荒廃した有様だとか、湿気のこもり方や、音の跳ね返り具合など、様々な要因を組み合わせて、彼なりの判断を下しているのだろう。


 祐奈は特に風水などを信じてはいないのだが、建物が人に与える影響というのは、少なからずあるとは思っている。


 たとえば日があまり当たらない建物なら空気が湿っぽくなるだろうし、それにより健康にも影響が出てくるだろう。ほかには、床が傾いていると三半規管に異常をきたして、体調が悪くなったりすると聞いたこともある。


 あとは、そう――建物自体にはなんの瑕疵がない場合でも、そこで生活している人が掃除をする気も起きないほどの疲れた精神状態にあるならば、何かしらの火種は抱えているわけで、それがいつか爆発するかもしれない。


 そんなことを考えながら進んでいくと、リスキンドの読みどおり、裏口扉の前に出た。


 リスキンドが一番先に、そしてラング准将に護衛されながら祐奈も外に出る。


 扉を開けた途端、犬の痛々しい鳴き声が聞こえてきた。


 声のほうに視線を向けると、建物の横手にバッドが佇んでいるのが見えた。例の下働きの少年――掃除をサボって大人に蹴られていた子である。


 彼は痩せ細った野良犬を足で蹴り上げていた。逃げられないように首に縄を巻いて、それを握って拘束した上での蛮行だった。


「何してる!」


 リスキンドが駆け寄ると、バッド少年はふてぶてしい態度で彼を睨み上げる。


 そういった不服そうな顔をすると、四角い骨格が強調されるので、ことさら偏屈そうに映った。


「何って、見て分からないのかよ。この犬が間抜けだから蹴っているんだ」


「馬鹿か、やめろ」


「なんでだよ。俺だって大人から蹴られているんだ。なのに俺がこいつを蹴ったらだめなのかよ」


「だめに決まっているだろ。自分が蹴られた時に嫌じゃなかったのか?」


「嫌だったから、こいつにやっているんじゃないか。じゃあ、あれか? 俺はやられっぱなしでいないといけないのかよ」


 驚いたことにバッド少年は、自分が悪いことをしているとはこれっぽっちも思っていないのだ。彼の境遇には同情する部分があるものの、聞いていた祐奈は背筋が寒くなるような心地がした。


 あの子の可哀想な身の上と、彼の特徴的な精神構造は、切り離して考える必要がある。誰かに虐げられているからといって、その人が健気で可哀想な善人だとは限らない。


 バッドは典型的な精神病質者(サイコパス)だった。おそらく他者の痛みが一切理解できないのではないか。


 満たされていないから代替行為として犬を傷つけているわけではなく、彼はたとえ大金を手にしていたとしても、同じように弱い者をいたぶるような気がした。


「動物は言葉が喋れないんだぞ。お前みたいなおかしな屁理屈だって言えやしない。一方的に蹴ったりして、可哀想だと思わないのか?」


「思わないね。俺は誰かから『可哀想』だなんて、言ってもらったことがないからな」


「――お前は可哀想なやつだよ」


「なんでだよ。俺が貧乏でみじめだからって、憐れんでいるのか?」


「違う。他人の痛みが分からないから可哀想なんだよ」


 リスキンドはやりきれないというような視線をバッドに注いでいる。リスキンドが今感じている憐憫は、もしかすると巡り巡って将来バッドに悪意をぶつけられることになる、見知らぬ善良な誰かに対して向けられているのかもしれなかった。


 祐奈も段々不安になってきた。バッド少年の抱える闇が怖いと思った。


「うるせぇな! もういいよ!」


 バッドが癇癪を爆発させ、握っていた紐を離して裏路地のほうへ駆けていった。


 リスキンドは犬の首から縄を外してやり、弱り切っている小さな体を抱きかかえて、ラング准将のほうを振り返った。


「宿に連れ帰ってもいいですか?」


「ああ、もちろん」


「あ! そうだ」


 祐奈ははっとしてリスキンドのほうへ駆けて行く。ぼんやりしていた自分を恥ずかしく感じた。びっくりしすぎて、一瞬意識が飛んでいたのかもしれない。


「あの、私、できるか分からないけれど、魔法を使ってみます」


「お、まじで? じゃあ頼むよ」


『――回復――』


 呪文を唱える。これは引き出しの取っ手部分。なくてもいいけれど、あったほうが力を出しやすい。


 指先が温かくなったような気がした。体内を巡るゆったりした力の流れを感じた。


 手を犬の腹にかざして、じっと対象を見据える。イメージが大事だ。


 ――元気に。痛めつけられる前の状態に。大丈夫、自分の足で歩けるようになるよ。


 リスキンドに抱き上げられた犬はぐったりしていた。内臓を傷つけられているのかもしれない。薄汚れた口が半開きになり、血と唾が混ざった液が溢れ出ている。呼吸は弱く浅く、体を縮こませているそのさまは、あまりに健気だった。


 可哀想に。痛かったね。頑張ったね。


 力の行使中は、はっきりとそれを自覚することができた。ゆったりした流れが手のひらから流れ出ていく。その根源はすべて体の中から出ているようでいて、しかしそうではないことは感覚的に分かっていた。


 繋がっている。底のない深淵のような――どこか見当もつかない遠いところと繋がっていて、それが巡っている。それをただ借りるだけ。


 眩い光の粒子のようなものが、波のように中空を漂っているのが目視できた。


 これは魔法を使っている祐奈だけに見えている光なのだろうか?


「……この光、見えます?」


 気になって尋ねてみると、向かい合って立っているリスキンドがちらりとこちらに視線を寄越し、小さく頷いたのが見て取れた。


 そうか、第三者にも見えるんだ。


 手のひらの熱は段々と増している。――それから、なんだろう、この奇妙な感覚は。


 放出行為に伴う、対外に向けての、満ち引きのような何か。手のひらが磁石に変わったみたいな感じがした。そして魔法の行使先にもそれは及んでいる。


 相手側がS極になったり、N極になったりしているみたいに、グッと引き寄せられたり、グニャリと弾かれたり。交互にそれが押し寄せてくる。


 やがてその不思議な感覚が消えた。――ぐったりしていた犬が、瞳を瞬いて首をもたげる。


 ボストン・テリアによく似た犬種だった。タキシードを身に纏ったような洗練された毛色に、ブルドックとテリアの良いとこ取りをしたような、愛嬌のある顔立ち。


 今は泥で薄汚れているけれど、お風呂に入れたらうんと可愛くなるんじゃないだろうか。


 犬は「くぅん」と鼻を鳴らし、祐奈の手のひらにペタンコの鼻先を押しつけてきた。祐奈はくすぐったく感じて笑みをこぼした。


「すげー。祐奈っち、超優秀だね」


 もしかすると呆気に取られているリスキンドの姿というのは、結構レアかもしれない。


「えへへ。治ってよかったです」


 久々に少年の心を取り戻したらしい(?)リスキンドが、「すげー」を連発しているのを後目に、ラング准将が祐奈の手を優しく掬い取った。


「――祐奈。体は大丈夫ですか?」


「体、ですか?」


「魔法を使って、疲れていない?」


「あ、たぶん大丈夫です」


「本当に?」


 ラング准将は微かに瞳を細め、祐奈を観察している。本気で心配してくれているようなので、気恥ずかしく感じて焦ってしまった。


「全然大丈夫です。意外と丈夫なのです」


 ラング准将がそれを聞いてくすりと笑う。


「そうなのですか? 健康なのはいいことですね」


「はい、ええと、なんとかここまで生きてこられました。――天国のお母さん、産んでくれてありがとう」


 すっかりてんぱって変なことを口走ってしまう。誕生日じゃないのに、産んでくれてありがとうだって。馬鹿だな、自分。


 それにこれって冷静に考えると、果てしなくだめじゃない?


 健康ぶりを異性相手に自慢する、十九歳、女子。彼氏なし。


 これもう温泉とかで交わされるたぐいの会話だよね? こんな格好良い人に向かって、「体は丈夫なのです」なんて。


 私、やっぱり底抜けの馬鹿なんじゃない? 自身の女子力の低さに気づいてしまい、これは致命的だと考える祐奈なのだった。


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