第12話 ラング准将と祐奈①
宿に戻ってから来客があった。祐奈が扉を開けると、騎士服を身に纏った端正な青年が立っていた。
二十代前半だろうか。茶色の癖のない髪を清潔に整えている。琥珀のような不思議な色の瞳。虹彩の輝きは個性的であるのに、取っつきにくさはまるでなく、陽だまりのような穏やかさを感じさせるのはなぜだろう。内面の特性が滲み出ているのだろうか。
応対に出たのが祐奈本人であったせいか、青年は一瞬驚いたように目を瞠った。しかしすぐに態度を改め、礼儀正しく挨拶をしてくれた。
「初めまして。私はエドワード・ラングと申します。階級は准将です」
「初めま、して――私は茅野祐奈と申します」
緊張して早口になり、嚙んでしまった。かぁっと顔が赤くなるのが自分でも分かった。ショーの一件で色々と反省したのに、やっぱり堂々と振舞えない。けれどヴェールを着けているから、赤面したのがバレなくてよかった。
ところが人の心というものは、顔以外にも随所に表れるものだ。祐奈がお腹の前に置いた手は、恥ずかしそうにもじもじと動いていた。それを認めたラング准将は『おや』と思っていた。五つくらいの幼い女の子が、大人を前に気後れして照れているような、そんな純朴な印象を受けたためだ。それに彼女の声は朴訥としていて、まるで気取りがなかった。
「以降は、私が護衛を務めます」
「すみません、よろしくお願いいたします」
祐奈はかしこまり、ぺこりと頭を下げる。おずおずと顔を上げると、ラング准将が穏やかな笑みを浮かべているのに気づき、ふたたびかぁっと顔が赤くなってしまった。軽くパニックに陥りながらも、頭の片隅で考える。
……よ、よかった。すごくまともそうな人だ。護衛、旅の終わりまでやってくれないかなぁ、などと浅ましくも先のことまで考えてしまう。近くにいるのがこの人なら、ずっと心穏やかに過ごせるのに。
「少々お時間いただけますか」
「はい、あの、どうぞ」
扉を大きく開けて、横に避ける。
ラング准将の身のこなしは優雅だった。動作の移行がとても滑らかだ。鍛えているせいだろうか。
招き入れたあとで扉を閉めようとすると、自然な流れで代わってくれた。――な、なんて優しいの。彼の行動の一つひとつに驚きを覚える。
「お茶を淹れますね」
と申し出ると、
「いえ、あなたにそんなことをさせるわけには」
と遠慮される。……騎士様から気を遣われるなんて、ちょっと怖いくらいだわ。
彼がふと動きを止め、アンバーの瞳をこちらに据えて尋ねた。
「――気になったのですが、なぜあなたが直接応対に出たのですか」
「それは、私しかいないので」
「たまたまですか? 世話係は外出中で?」
「いえ、ずっと私はひとりです」
彼がはっきりと眉根を寄せる。難しい顔で見おろされて、祐奈はどぎまぎしてしまった。
「しょ、食事は宿の方が入口まで運んでくれます。あとは特にお世話いただくこともないので」
「そうは思えませんが」
「でも私の世界では、日常のことは自分でやるのが当たり前でした。お金持ちの方は使用人を雇っていると思いますけれど、私は庶民だったので」
語ったことは本心であり、祐奈は本当に使用人が欲しいとは思っていない。けれど現状に問題がないわけでもなかった。
元の世界にいた時は、自分のことは自分でしていた――それはもちろんそう。だけど当時は自分で自由にできるお金があって、必要なものを買えたし、好きなものを食べることができた。衣食住に不安はなかった。
それがどうだろう――祐奈はこちらへ来てから、買いものひとつ自由にできていない。そもそもお金を持っていないし、外出していいのかもよく分からなかった。誰かに尋ねたくても、また『セクハラされた』と騒がれそうで、それもできなくて。
設備の使い方もよく分からないので、探り探り生活している感じ。こちらの生活は日本とはまるで違うから、できれば誰かに、『バスルームのここにあるこれは、こういった用途のものです』と説明してほしかった。
困ったな、心細いなと、落ち込んで泣きそうになるから、なるべく嫌なことは考えないようにする。――寒空の下、裸で放り出されるよりマシでしょう? そんなふうにもっと悪い状況を想像すれば、今はまだ恵まれているのだと慰めになる。
「しかしあなたはこちらの世界では、庶民とは違います」
なんだかいきなりギクシャクしてしまったのだが、ラング准将は追及するのをやめてくれた。祐奈が困っているのを感じ取ったようだ。
ソファに向かい合って腰かけ、彼が話し始める。
「今日は旅のルートなど、ざっくりしたことを説明したいと思って、伺いました」
「はい。助かります」
「――その前に、あなたにとっては不快な話になると思いますが、いくつか私から確認させていただいてもよろしいでしょうか」
ラング准将がこう切り出した時、祐奈は悟った。あの話だろう。――枢機卿の時と同じ問答を繰り返すのかもしれないし、もっと嫌なことを言われる可能性もある。
ラング准将はいい人そうに見えるが、それでも安心はできなかった。なぜならあの最低な出来事は、善人の態度を変えさせるほどのインパクトを持っているからだ。
入室してから彼はずっと礼儀正しかった。しかしこうしてすぐに『あの話題』を切り出したということは、ラング准将は事件を重く見ているのだ。
「はい。どうぞ」
「リベカからこちらに移ってくる過程で、いざこざがあったことは聞いています。枢機卿との問答の内容も、報告書に目を通しました。その上で伺います。――ダグラス・ショーに対して、性的な誘いをかけましたか?」
「いいえ。ショーさんを誘ったことはありません」
指先が冷たくなってくる。心細く、不安だった。
ラング准将の瞳は怜悧で、先ほどまでの穏やかな気配はなくなっていた。とはいえこちらを責め立てるような攻撃性はなく、職務上の彼の厳しさを垣間見たような気がした。
――この人はただの善人ではないのだ。
祐奈は不意に悟った。
だからこそ余計に怖いのだとも言えた。襟元を正さねばならないと感じるような、否応なく屈服してしまいたくなるような、格の差が確かにある。ラング准将はまるで偉そうな態度を取っていないのに、それでも圧倒的だった。祐奈はこれまで生きてきて、誰かに対してこのような畏怖の念を抱いたことがなかった。
――准将の階級がどのくらいなのかよく分からないのだが、もしかしてすごく偉い人なのではないだろうか?
気づいてしまえば、背筋に冷たいものが走る。年が若くて謙虚な物腰なので、初めはそんなことは夢にも思わなかった。
ラング准将はしばし黙って考え込んでいた。やがて口を開いた彼は、きっぱりした口調で告げた。
「これは私の意見ですが、ショーの訴えが事実無根ならば、徹底的に抗議すべきです。誤りは正す必要がある」
「……いえ、でも、これ以上揉めるのは」
「私は揉めるべきだと思います」
まるで抜き身の剣を突きつけられているみたい。ラング准将の主張は明快だった。
祐奈はよく考えてみた――彼の言うことはもっともだ。正しいし、そうすべきだろう。それを前提として、自分はどうしたいのだろう?
……ああ、やっぱり嫌だ。揉めたくない。情けないけれど、怖くて仕方ない。
こちらを見る時の、彼らの軽蔑しきったような、あの瞳。お前にはなんの価値もない、存在するだけで目障りだと、雄弁に訴えてくるような。あれとまた対峙しなければならないのかと思うと、恐怖が込み上げてくる。
立ち向かう勇気は出てこなかった。祐奈が俯いてしまうと、ラング准将が困ったように身じろぎした。――とはいえ祐奈は自分のことでいっぱいいっぱいになっていて、彼の反応には気づいていなかったのだけれど。
ラング准将が穏やかな調子に戻り、尋ねる。
「ショーとの行き違いについて、原因はなんだと考えていますか?」
――原因。
祐奈はそっと顔を上げる。彼のアンバーの瞳がこちらに据えられている。あの最低な醜聞を話題にしていてもなお、彼の振舞いには真心があると思った。こちらをひとりの人間として認めてくれているのが伝わってくる。
この問い自体も、祐奈のためのカウンセリングというか、心を整理させるのが目的であるような気さえした。肩の力が少し抜ける。
「それはたぶん、私がおどおどしていたから、彼を苛立たせたのかもしれません。要領をえないので、話しかけた際に、つきまとっているように思われたのかも」
「おどおどしていると、いけないのですか?」
「良くはないと思います。信用できないような、卑しい感じを与える気がします」
「私はそうは思いません。他者を気遣って慌ててしまったくらいの小さなことを、どうこう言うほうがよほど卑しい。――それにあなたの振舞いは常識的であるし、知性も感じます。なぜ、恥じるのです?」
問われ、肩が震えた。なぜ……なぜって。
「だって私、顔が綺麗ではないので」
日本にいた頃は、こんなふうに自虐的になったことはなかった。もちろん自信満々ではなかったわけだけれど、自分は自分だと思っていたし、自然体で生きていられた。嫌なこともそれなりにあったけれど、自分で立て直すことができた。
――けれどこの世界に来て、もうヴェールを外せない。怖くてたまらないのだ。鏡を見るのも嫌になった。
ラング准将は祐奈を慰めるでもなかった。彼は真っ直ぐに祐奈を見据え、ヴェールで遮られているにもかかわらず、まるで素顔を見通しているかのように、心を込めて伝えてきた。
「これは出すぎた発言であると分かっています。それでも言わせてください。――あなたはそのようなことを言うべきではない」
「え?」
「綺麗ではないという前置きです。行動を決める前に、その理由づけはいらない」
「でも、そうでしょう? 私はこの世界に来てから、それを思い知ったんです」
「たとえ綺麗ではないとして、それがなんなのですか。顔形があなたの価値を下げることはない」
「さ、下げると思います」
「いいえ。あなたの価値は何ひとつ変わりませんよ」
ラング准将の一本筋の通った、噓偽りのない言葉が心に沁みて、胸が熱くなった。ぐす、と鼻をすすると、途端にラング准将が慌て出す。
「すみません、泣かせるつもりでは。色々と言葉がキツかったですね」
「いえ、そうじゃありません。私が、ちゃんとできなくて」
彼が白くて清潔なハンカチを差し出してくれた。祐奈はおっかなびっくりそれを受け取り、膝の上で握りしめる。
――だめだ、だめだと思うのに、やっぱり泣けてきて。涙がボロボロこぼれた。
ハンカチをヴェールの下に入れて、瞼の上に当てる。肩を震わせて、しばらくのあいだ泣き続けてしまった。
ラング准将は口元に手を当てて、うなだれていた。彼のせいではないのに、それがとても申し訳なかった。
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