第10話 ホラー的妄想


 身体が壁にめり込めばいいのにと思った。


 聖女はそのうちに魔法が使えるようになるらしいけれど、それって今すぐ習得できないものかしら。どうしよう、どうしたら……。


 祐奈はヴェールを持っていた右手を背中に回した。ヴェールの聖女だとバレたら終わる。「こいつ懲りもせず、またセクハラしに来た」と絡まれてしまうに違いない。


 たまたまここに居合わせたメイドのフリをしよう。


 祐奈が今いる現在地は階段室の出口付近で、T字型で廊下と接している。足音は左斜め後ろから聞こえてくるので、上手くやり過ごすことができれば、ショーはそのまま通り過ぎ、前方へと消えていくだろう。


 祐奈は息を殺した。足音は複数。二、三人で連れ立っているらしい。


 来る、来る、うわぁ来る――。


 左のほうで空気が動いた。祐奈は後頭部をぴったりと石壁にくっつけて固まっていた。息を詰めてそちらを流し見ると、ショーの横顔が見えた。ふわふわした癖のある濃い金髪は特徴的なので、間違いはなさそうだ。


 向こう隣にいる人に声をかけた直後なのか、ショーの右耳から顎にかけてのラインを、斜め後ろから眺める形になった。


 ――やった、神様ありがとう!


 祐奈は歓喜した。あちらは前進しているので、数秒後には祐奈のいるあたりは完全に死角に入るだろう。


 ――ほんとに神様ありがとう! 感謝を忘れません。今この瞬間、一生分の運を使い切ったかもしれないけれど、悔いはなかった。


 祐奈はふっと肩の力を抜いた。しかし神様はとんでもなく意地悪だった。


 ――なーんてな、油断するなバーカ! と言われた気がした。


 気配を感じたのか、ショーがくるりと振り返ったのだ。


 ばっちり目が合った。祐奈は顔が引き攣るのを感じた。




***




 ショーが足を止めた。じっとこちらを見ている。どういう精神状態なのか分からないが、真顔だ。


 心の中で『お願い、行って!』と叫んだけれどだめだった。ショーが近寄ってくる。目の前に立たれて、じっと見おろされた。結構な至近距離だ。


 祐奈のほうはショーの顔を見ているようで、見ていなかった。置物のように固まってしまう。


 ……どうしてかしら。先ほどから風景が動かない。ショーが前からどく気配がないので、恐る恐る視線を動かして、彼のほうを見てみた。するとヘーゼルの瞳がじっと物言いたげにこちらを見おろしているのに気づいた。


 もしかすると、背格好で身元がバレたのだろうか? 『ずいぶんひどい顔の女がいるなぁ』となって、身長や骨格から『もしや?』と気づいた?   


 それで今、どうして空白の時間が流れているの? どんな猟奇的な痛めつけ方をするかで、悩んでいたりする?


 祐奈はドキドキしすぎて、心臓が外に飛び出すんじゃないかと気が気でなかった。


 ショーの手が伸びてきて、祐奈の二の腕に触れる。びくりと全身が震えた。


 怖い。このまま腕を捻り折るつもりかしら。雑巾絞るみたいに。血の気が引いて、眩暈がしてきた。


 彼が何か言いかける。薄い唇が微かに開くのを、祐奈はなすすべもなく見上げていた。


「おい、ショー!」


 そう声をかけたのは、ショーの仲間だ。――彼らは廊下をしばらく進んでから、ショーがルートを外れたことに気づいたらしい。数メートル向こうで立ち止まり、振り返ってこちらを眺めている。


「何やってるんだよ。忙しいんだから、メイドをナンパしてんじゃねーよ」


「あ、ああ、悪い」


 ショーはバツが悪そうに呟き、踵を返して彼らの元に向かった。


 ひとりになっても、祐奈はしばらくのあいだ動けなかった。


「……なんだったの、あれ」




***




 ふたたびヴェールをかぶり、廊下に出た。


 左手の突き当たりに警備の人間が立っているのに気づき、そちらに進む。すると前室のようなところに通された。金色の髪をした女性が迎えてくれる。


 彼女とは以前に会ったことがある。左手が義手の、枢機卿の側近。左手には手袋をはめているが、右手は剥き出しのほうが便利なのか、素手のままだった。


「――祐奈様。わたくしはアン・ロージャと申します。聖女アリス様からお呼びがかかるまで、お茶のご用意などをさせていただきます」


 ここまで丁重な扱いを受けたのは、リベカを発って以来初めてだ。


 もしかしてこの女性は、いじめの一環でここへ送り込まれたのだろうか――お前は化けもの聖女の相手でもしてこい、というふうに。


 だとするとなんとも気の毒な話だが、祐奈はひさしぶりに人間扱いされたことが嬉しかったので、ありがたく受け入れることにした。あたかいお茶をいただけるなんて、何日ぶりだろう。


 ぺこりと頭を下げ、なるべく柔らかい口調を心がけて礼を言う。


「ご親切に、ありがとうございます」


 ヴェールで顔が見えないので、声だけだと変に誤解されそうで怖い。祐奈はほとんど対人恐怖症の域に達していた。


 アンが口元に淡い笑みを浮かべたのが分かり、ほっとする。クールな印象を受けるので、こうしてちょっとでも笑ってくれると妙に嬉しい。心が通じ合ったような、そんな感じがした。


「祐奈様、お砂糖はお入れしますか?」


 角砂糖を入れてくれるらしい。


「あ、はい――ではひと、つ」


 甘嚙みして最後がぐちゃぐちゃっとなってしまった。これじゃ伝わらないだろう。思わず赤面しながら、人差し指を立てて、


「ええと、ひとつ、お願いできますか?」


 と言い直した。アンはショーのようにいちいち軽蔑したりせずに、彼女も右手の人差し指を立ててみせ、


「――おひとつですね」


 と落ち着いた声音で繰り返し、ふたたび微笑んでくれた。


 ほんわかする。祐奈はふたたびぺこりと頭を下げた。


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