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 電車の中で白澤くんが広げたのは、標高地形図という種類の地図のカラーコピーだった。私が告げた茉里奈の家の最寄駅周辺のページをコピーして来たものらしい。標高の高いところは赤や黄色、低いところは緑や青など高さに応じて色分けされていて、山の稜線や海岸沿いなどはもちろんのこと、一見して平らに見える住宅地なんかの微妙な高低差も識別できるようになっている。


「坂の多そうな地域だね」

「うん、かなり高低差がある」

「うへぇ、これで分かるのかよ」


 丸みのついた紙の端を押さえながら、その地図を三人で覗き込む。

 茉里奈の住む街は駅を起点にして北と南に分かれているようだった。街の北側を大きな川が横切っていて、そのせいで北側の土地は薄いブルーの面が広がり、全体として低地になっている。川に流れ込む小規模な水の流れが模様のように数本走り、それの他にも、街の北側では至る所に湧き水の小川が列をなしている。じゃあその小川はどうやって湧いているのかと言えば。


「街の南側の台地部分、これがいわゆる関東ローム層っていう火山灰由来の地層なんだけど、これの下が粘土質の古いローム層になっていて、粘土層は水を通しにくい地層」

「なるほど、つまりは地層と地層の間に湧き水の層ができるね」


 関東ローム層はそこそこ水はけが良いので、浸透してきた地下水が粘土状の古い地層で突き当たって留まり、地層の切れ目があればそこから流れ出すことになる。


「関口、付いてこれてる?」

「うおー、地学部かよ」

「あはは、そうだよ」


 普段あまり考えない分野のことを話題にされているせいか、関口くんは難しい顔をしている。そういえば関口くんの夢はエンジニアなのだと茉里奈から聞いた覚えがあって、機械工学科を目指すらしいけど、そっちのほうが私にはちっとも分らないんだから不思議なものだ。


「それでまぁ、この街の場合。この地層の重なりを北側の大きな川が削ってできた斜面がこの辺り」


 地図の中程を白澤くんの手が左右にスライドしてその場所を示す。色分けで言うと黄色から緑に変わる部分だ。


「つまり、この街の三分の一は低地で、ほぼ三分の一が斜面、残りが台地って事になるね」

「平らな土地が少ないね」

「そういや茉里奈の家もすぐ裏手が公園だったな。水車があった気がするから、湧水もあったかも」

「茉里奈の家、地図だとどの辺かわかる?」

「駅より北なのは間違いないな」


 顔をあげるとちょうど車内アナウンスが目的の駅が近づいたことを告げていて、私たちはあわただしく地図を丸めると、誰からともなく窓の外に目をやった。





 ここだけの話だけど、関口くんの顔の良さはおよそ芸能人と言っても差し支えないくらいのレベルだ。いや、ここだけの話も何も、本人が表面にぶら下げて生きているのだから、周囲はみんな気付いている話だ。

 それで、その顔の良さゆえに、他の学年はおろか、他校に於いても「かっこいい」と評判らしく、私はしばしば見知らぬ女子生徒から彼について聞かれることがある。その度に同じフレーズを口にする。「彼、私の親友とお付き合いしています。もう三年になるんだから本物だと思いますよ。ついでに言うと、彼女の方もモデルさんみたいに美人です。二人が並ぶとそりゃあもう絵になりますよ」と。

 その関口くんはいま、私と白澤くんの前をぽてぽてと不安げに歩いている。駅から徒歩で十五分ほどの位置に茉里奈の家があるそうで、その十五分の間にどれほどの人の目を惹くのかと私はあらためて感心しながら付いて行く。


 改札口を抜けると南北の出口を両方とも見渡せるようになっていて、ずいぶんと開発が進んでいる様子の南口に比べて北口は落ち着いているように見えた。コンビニと、クリーニング屋さんと、お蕎麦屋さんと、コインロッカーがいくつか並ぶ。大きな屋根の付いた自転車置き場を横目に関口くんを先頭にして通りを歩く間も、小さめのスーパーや古めかしい不動産屋さんがあるくらいで他は住宅地が広がっていた。

 いくつか角を曲がって、関口くんの足が止まったのは坂の上の少し開けた辺りだった。結構な急角度の坂道に入る手前、歩道の左側に現れた小規模な住宅地。

 全体的に洒落っ気のある建物が並んでいて、家々の間に立つ街灯はガス灯のようなヨーロッパの街並みを思わせる作りをしている。歩道にも可愛らしいレンガやタイルのようなものが敷かれていて、家々の門柱には花の咲いた鉢植えが飾られている。まるで絵本の中の世界のようだった。


「わぁ、可愛い!」

「ここの、いちばん奥が茉里奈の家」

「地図で見ると……ここか」


 白澤くんの示す位置は黄から緑色のグラデーションが強まる中に、ぽかりと出来た黄色のゾーンだった。何と言うか、崖の中腹とか、階段で言ったら踊り場みたいな印象を受ける。

 地図から顔をあげた白澤くんが辺りを見回して、ある看板に目を止めた。同じ方向を見るとどうやら公園入口の案内板のようで、私たちはそちらへと移動する。

 鶯坂親水公園、と看板の字が読めた。ウグイスは水鳥じゃないのに親水とは。不思議に思いながらスロープを歩き、その先の公園へと続く階段を降りていく。公園の奥の方に終わりかけの梅の木が何本か生えていた。甘い香りはもうしない。


「へぇ、結構広いんだな」

「あっち、小川があるね。湧き水かな」


 淡い黄緑色に茂る木の隙間から見えてきた公園は斜面を切り開いて作ったもののようで、全体的に北に向かって大きくその角度を下げている。まるでお椀のような形をしていて、その片方の壁面は宅地造成されてコンクリートを使用した高い壁が聳え立っていた。


「元はこの面も、他と同じような斜面だったんだろうな」


 白澤くんがコンクリの壁を見上げた。多分、三メートルくらいはある。ほとんど家一軒分くらいの高さの壁の上に、家が建っている感じだ。関口くんが一軒の家を指さした。


「あれ、茉里奈の部屋だ」

「どれ?」

「花柄のカーテン、見える?」


 よく見ると、パステルカラーの花柄のカーテンが二階の南側の窓にかかっているのが分かった。言われてみれば、茉里奈のSNSの背景で見覚えがある柄だった。そして、その辺りは一番高く擁壁が築いてあって、やっぱり気持ちが落ち着かなくなり、私は知らない内にため息をついていた。


 明日の放課後に病院へ行くことを約束して岐路につく。道すがら、白澤くんはおかしなことを聞いた。


「美原さんは何かアレルギー持ってたか、知ってるか?」

「お母さんが花粉症だから自分もなるかも、とは言ってたけど」

「特に聞いたことないな。何でも良く食べるし、高所恐怖症とかもない」

「前にみんなで遊園地行った時に、一番ジェットコースターを楽しんでたの、茉里奈だよね」

「俺、何回付き合わされたと思う?」

「よく付き合うなあとは思ってた」

「ひど。止めてよ、桃井さん」


 不穏な気配を掻き消したくて、他愛ない会話を展開する私と関口くんから少し離れて歩く白澤くんは、何かを考え込んでいるようだった。そこだけ温度が違うような、不思議な印象がある。

 電車の窓からは薄青い夕闇が見えた。街中に顔を覗かせる川の表面が花筏に染まっていて、私たちがこうしてもがいている間にも早々に春が終わってしまうのだと知った。





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