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学校にいる時間だけが平和だった。蛇のような煙のような、得体の知れないあれは、今のところ学校や家の外には姿を見せていない。特に友達と一緒にいる間は私の体調も良くなることが多くて、ごく普通の生活をしているように見えるだろう。
けれど、もし眩暈が来たらと思うと部活には顔を出すことがためらわれ、大好きだったはずのチア部にはあまり顔を出せていない。練習時間に参加したとしても、ストレッチや基礎練か、できてもフォーメーションの確認までくらいで、あとは今のように裏方の雑用をこそこそとこなして帰るだけになっている。
「体調、どうなの?」
「うん、薬も効いてるみたいで普段は平気なんだけどね」
秋から部長に就任した雛子ちゃんが心配そうな顔を向ける。雛子ちゃんには、医師から眩暈が落ち着くまで部活動を止められていることを伝えてあった。一学年の初めの頃、おおよそ一方的にライバル視されて居心地の悪い時期もあったけれど、調子を崩した今となってはそんな事もなくて、とても頼りになるチームメイトだ。
結局、丸一年近くこんなことを続けてしまった。もうすぐ新歓なのに。
自分でも言った通り、普段学校にいる分には薬が効いて眩暈も吐き気も収まっているのだからとも思うのだけれど、どうしても、あの落下の恐怖は拭えない。それに、やはり家ではあれが見張っていて、最近では呼吸すら苦しく思えることがある。
目下の心配事は、もしも学校にあれがついて来てしまったら、という事だった。
誰かに相談したくても、なかなか出来るものではなかった。だってもしあれが、友達の誰かに気付いてしまったら。気付いたあれが誰かの家に行ってしまったら。
実際、家の中でも私の部屋からリビングへとあれが移っているし、お母さんの体調にも影響が出ている。あれは、移るものなのだ。そう思うと怖くて口に出せなかった。私が怖がっているものを、私の友達に背負わせるわけにはいかない。そうでなくても私は皆を騙しているのだから。
「ねぇ、茉里奈」
雛子ちゃんがフォーメーションのラフを描いていた手を止めた。
「次の大会までには戻って来るんだよね」
それは私が一番気になっているところで、ただ黙って曖昧に笑って見せるしか出来ることはなかった。
家に帰りたくない。
そう思って構内をうろうろと所在なく歩く。卒業式も済んだ三月の校舎はどこかよそよそしい。授業も短縮だし、全体的に人数が少ないせいかも知れなかった。
私も直斗のようにバイトでもしようかなんて思わなくもない。けれど、両親はあまり良い顔をしないのでそれも叶わない。学生は学業優先だと言ってくれる両親がいることは幸せではあるけれど、今のような状況だとそうばかりも言ってられない。
本校舎から特別教室棟へと続く長い渡り廊下を歩く。まだ長引いている寒さに首をすくめてマフラーを巻き直した時、誰かが足を止める音に続いて、声が呼び止めた。
「茉里奈ちゃーん!」
萌音ちゃんだ。
振り返ると、図鑑のようなものを抱えた姿が手を振っていた。嬉しくなって大きく手を振り返す。
「萌音ちゃん、まだ残ってるの?」
「神崎くんを待っててさ」
照れたようにそう言うので、これはと思う。萌音ちゃんにこんな嬉しそうな顔をさせるだなんて、陣も隅に置けないなぁ。中学からの顔なじみの男友達の意外な一面を知るのは楽しいものだ。
そういえばこの前、直斗と陣がコンビニで立ち読みしている姿を見かけた。さては、先月のお返しを選んでいるのかと思って声をかけるのを遠慮したのだったけど、あれは案外、萌音ちゃんのお誕生日プレゼントの相談をしていたのかも知れない。早生まれの萌音ちゃんは、今月やっと十七歳になる。
「なぁに? デート?」
「あは、実は」
「そっか。相変わらず仲が良いねぇ」
「いやいや、そんな。茉里奈ちゃんと関口くんほどでは」
照れたように下を向いた萌音ちゃんが、ふと口をつぐんでからこちらに向き直る。いつになく真面目な顔をしているように思った。
「ねぇ茉里奈ちゃん。私ね、茉里奈ちゃんにはすっごく感謝してるんだよ?」
「なにそれ、あらたまって」
「茉里奈ちゃんと関口くんが私の前にぴょんと出てきてくれたおかげで、私が見てた世界からフィルムが剝がされたみたいな……うまく、言えないんだけどさ」
「それって目からうろこ系?」
「そっち系!」
ありがとう、こちらこそ、じゃあね、またね、今度みんなでまた遊びに行こうね。私たちはせわしなく挨拶と約束を取り交わして、また再びお互いに手を振り合ってその場を切り上げる。
特別教室棟に着いた辺りで、すぐ側の部屋の戸が開いて彩花が出てくる所だった。
おぉ、とお互いに目を丸くしてから笑顔になる。部屋の戸の上には「進路指導室」のプレートが掲げてあった。
「進路相談?」
「そう。ちょっと迷ってて」
「彩花は真面目だからなぁ」
クラス委員を二年間勤め続けている、生真面目で律儀だ。その分きっと悩みも多いのだろうと思う。最近また少し以前とは違った魅力が備わったように思う。
その彩花が、ほんのりと頬を染めて言いにくそうな顔をした。おや? と思い、顔を覗き込むと本格的に赤い顔になったので、おやおや、と思う。
「茉里奈、あのね、あの……私たち付き合うことになった」
「……すごい。おめでとう!」
「決心できたのは茉里奈が気付かせてくれたおかげ。あと、三浦さんのこともあるけどね」
「そうかー。でも、なんか、ありがとう」
「えー、お礼を言うのはこっちだよ」
「ううん、うちは何も。でも、良かった!」
耳まで赤くなりながら、嬉しそうにはにかむ彩花を見られるなんて。二年生になった時には考え付きもしなかった。藤原くんはとても見る目がある。良かった、本当に。
「あの、三浦さんはいま」
「雛子ちゃんならまだ部室だよ」
そうかぁ、と吐息混じりにつぶやいた彩花の表情はそれでも穏やかだった。愛を知ると、人は強く美しくなるのかも知れない。
「ありがとう、行ってみる」
「雛子ちゃんもわりとドライだから、大丈夫だと思うよ」
「うん、本当にありがとうね」
頑張れー、と背中に向けて両手を振る。二、三歩歩き出した彩花が振り返って、こちらを見てにこりと笑う。
「茉里奈、大好きだよ」
「あはは。ありがとう。私も!」
廊下を歩いて、階段を降りる。あまり陽の差さない特別教室棟の一階の廊下。いつだか、羽純が慣れないとこぼしていた風景。それでもいつの間にか弾む足取りで通っていたっけ。まるでお散歩中の小型犬のような、嬉しさに満ちた友達の後ろ姿を思い出す。
少しだけ緊張しながら地学部の部室の扉をノックした。
今日の部活が終わったら一緒に帰ろうよ、帰りに少しでいいからフードコートでお茶しようよ。そう誘うつもりだった。どうしても家に帰りたくない。春休みになればもっと家に居なくてはならないのが憂鬱で、少しでもいいからそれを先延ばししたかった。その一心で叩いた扉の向こうには、でも、羽純の姿はない。
一人だけ女の人がいて、少しバツが悪そうにこちらを見た。
「なに? 部員ならいま出払ってるわ」
女の人はすごく短い髪で、なぜか私服だ。尖った唇が記憶の中を掠めて、そう言えば羽純の話の中に出てきた先輩はこんな人じゃなかったかと思い当たった。
「あの、もしかして『小津先輩』ですか?」
「……そうだけど」
うわぁ、これが。一見してなかなか手強そうという印象を受ける人で、くるんと上向きに固定されたまつ毛が気の強さを表しているいるようだ。
「私、桃井羽純の友達で」
「あぁ、そうなんだ。ふぅん……意外だわ」
小津先輩とやらは私のことを上から下までジロジロと見て、そんなことを言ったりした。なんて無遠慮。でもそれが許されるキャラクター。これは羽純が手を焼いてた訳だ。いつだったかの憔悴した顔を思い出して腑落ちする。
「忘れ物、取りに来たのよ」
小津先輩は手に持った分厚い本をこちらに見せた。机の上には何冊かの本が乗っている。
「フィールドワークじゃない? 連中、物好きだから」
「……はぁ」
「このあと天気、崩れそうだし。あなたも早く帰った方がいいわ」
「……はい」
仕方なしに部室の戸を閉めて、また廊下にひとりきりになる。
スマホに連絡しても良かった。でも出来なかった。きっとあの生き生きした笑顔で、楽しそうに輝かせた瞳で、あちこちを探検しているのだろう姿を想像すると、水を差すようで。
「茉里奈、器用で優しくて、いつもとっても綺麗で、すごいなぁ」
いつかの羽純の言葉がふと脳裏に浮かぶ。そんなことないのに。私は天井を見上げる。羽純が言った「器用で優しくて、とっても綺麗」も、萌音ちゃんの「大好き」も、彩花の「ありがとう」も。それはぜんぶ私が取り繕ってきた物なのだから。
本当の私はもっとずっと不器用で、そんなに綺麗とかじゃなくて、薄暗い感情が胸に渦巻いた汚い人間なのに。それを必死に隠して精一杯の背伸びをして、どうにか作り上げている。いつか続けられなくなった時、みんなは本当の私を見ても今と同じ事を言えるだろうか。
だからアレが来たのかも知れない。作り上げている自分と、現実の自分との隙間に、アレがするすると入り込んで来たのかも知れない。
その晩、春の嵐が街を覆った。
いつも以上に大きな眩暈が私を襲い、立っていることも出来ず、ただただ蹲る。割れるような頭の痛みと何度も繰り返される嘔吐。何をするのもままならない。世界がバラバラに砕け散るような感覚が身体を包む。
憔悴し切った頃に救急車のサイレンが聞こえた。それが間近にあると感じた頃にはお母さんが背中を撫でていて、もう何も分からずに目を閉じた。それを合図に意識が深く潜り込んで、それからずっと、水に浮き沈みする夢を見続けた。
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