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二泊三日の夏合宿は海辺の民宿を拠点に行われる。一、二年生と三年の数名が加わった地学部のメンバーは、開放的な自然の景色と夏休みのテンションもあって、賑やかにあちらこちらを覗いてまわった。
何千万年も前から堆積した砂の層と泥の層の断面や、滑らかに渦を巻くしましまの地層。教科書や資料映像でしか見たことのないような、ぐにゃりと曲がった上にずれた地層、気の遠くなるような年月を経て作られた海食洞など、どれも地味だけれど心躍るものばかりで、いつもより早起きの旅程でもちっとも苦に感じなかった。
民宿のある半島からほど近い位置にぽつりと隆起した観測先の島は、釣りスポットとしても有名なためか、クーラーボックスと釣り竿を抱えた観光客の姿もそこそこ目につく。半島の船着き場から小型のフェリーで島に向かうのも楽しく、部員はみんな大はしゃぎだ。
翼を広げたトンビが円を描きながら滑空し、強い日差しを浴びた肌が海からの風に撫でられて、それが心地よくて目を細める。
滲んできた汗をハンドタオルでぬぐってから水筒のお茶を飲んだ。フィールドワークは楽しい。私はこの夏、出歩いてばかりいる。
あれから、何となく部室に行くタイミングを掴めず、行っても資料整理だけして短時間で出てしまったり、そんな事ばかりしていたので小津先輩とはあまり顔を合わさずに済んでいた。
白澤くんとは元から教室ではあまり積極的に話さないし、部室にいる時間が減れば自然と顔を合わせる時間も少なくなる。
小津先輩が何がしたくてあんな事を言ったのかも、小津先輩の態度から察してしまった白澤くんの気持ちについても、それどころか自分が何をどうしたいのかも分からないまま、学校は夏休みに突入した。
居心地の落ち着かない部室に寄りつく気にもなれなかった私は、ひたすら地図を片手に都内を歩き回った。おかげで暗渠に詳しくなったり、いつもの夏よりも余計に日焼けしたりしていた。
昼休憩は観光客向けの大きめの食堂で摂ることになった。豊富な魚介メニューに散々目移りして、やっと決めたお刺身定食を受け取った時には既にあらかたの席が埋まっている。
「桃井さん、少し日に焼けた?」
お盆を持ったままうろうろしていたら声がして、振り返ると白澤くんがこちらを見ていた。テーブルの上にはお昼ご飯に選んだらしいミックスフライ定食が乗っている。
聞けば、他の部員たちはラーメンを食べに行ったのだという。たしかにガイドブックに載っていたアサリと煮卵が乗ったラーメンは美味しそうではあったけれど、何しろ暑いのでそちら方面に食指が進まなかった。
「まぁ、座りなよ」
勧められて向かいの席に座ることに決める。白澤くんとは合宿が始まってから何度かは普通に会話したけれど、こうして腰を据えて話をするのは久しぶりのような気がした。
「日焼けはしたかも。よく外にいるから」
「例えば?」
誘導されるままに幾つかの暗渠の名前をあげると、白澤くんは少し膨れっ面をした。こんな顔もするんだな、と思う。
「呼んでよ、それ」
「いや、皆さん忙しいんじゃないかなって」
「遠慮か」
「まぁ」
「桃井さんなのに」
「何それ」
半笑いで顔を上げると白澤くんの視線はお刺身定食に固定されていた。まるで甘海老の頭に向かって話しかけている。
「何かご迷惑をおかけしたかな」
「いえ、特には」
「怒らせたかな」
「……ないですよ」
ダメだ、これは。勘違いさせてしまった。何か上手な言葉で否定しなくてはと焦った私は言葉よりも先に身振りが出て、その手がお茶の入ったカップをひっくり返してしまい悲鳴を上げた。お盆の中がお茶だらけになった。動揺している。でも何で。こんなに、私は何を必死に。
慌てて台布巾を貰ってきて、白澤くんにお茶がかかっていないか心配して、落ち着いた頃にはお刺身定食は静かにぬるくなっている。
あらためて席について、漫然とお刺身を口にする。美味しい。美味しいけれど、味がしない。
誘えばよかったのかも知れないけれど、小津先輩という切っ掛けがあったにせよどうやら白澤くんの気持ちに気付いてしまって、でも何も言われていないのに勝手に憶測して何かを気にするのもどうかなと思うし、何かを察しているように見えてしまうのも嫌だし、かと言って普通の態度がどうだったかもよく思い出せないし。ぐるぐる、ぐるぐると思考回路が空回りする。
「……面白い地図アプリを見つけたんだけど」
しばらく沈黙した後、白澤くんがそう言ってスマホの画面を見せてくれた。それは江戸の古地図と現代のマップが透過できるアプリで、気まずい空気やそれまでのいたたまれなさを一瞬で忘れてたちまちの内に食いついた。
すごい。面白い。これを見ながら街歩きをしたら昔の水路が一目瞭然だ。きっと楽しいに違いない。
白澤くんは、都内の中心部の地名を口にした。ちょうどお濠と江戸の町の境目にあたる地域で、大名屋敷跡とか、それをめぐる水路の跡なんかがそのアプリなら表示されるであろう地点。
「見に行く?」
「見に行く!」
勢い込んで顔をあげると、アジフライと、エビフライと、イカリングフライの盛られていたお皿をいつの間にか空にした白澤くんが笑っていた。そうそう、こんな表情だった。なんだか久しぶりに見たような気がする。白澤くんはお皿の端に避けてあったエビフライの尻尾をぱくりと食べた。
「やっぱり食べるんだ、それ」
思わず口にすると不思議そうな顔をした。変わってない。あの、お蕎麦屋で天ぷらのエビの尻尾を食べてた白澤くんと、最初から何ひとつ。
油断した私はうっかりお刺身にソースをかけて再度の悲鳴を上げてしまったりもしたけれど、おかげで夏前のペースを取り戻せたような、すっかり気が楽になった時間だった。
夜、夕ご飯の片付けがあらかた済んだ頃、民宿の大広間の襖の辺りから土方先輩が手招きしているのを見つけた。
進学先を推薦でほぼ決めてしまったという土方先輩は、三年の生徒の中でもとりわけ穏やかに見える。参加メンバーみんなで作った合宿のしおりの星空観測のページには、たしか、合宿中に見える流星群の案内が載っていたはずだ。
照明の少ない海辺の半島から見上げる夜空はきっと綺麗だろうと思う。
「え、私ですか?」
「そう。ちょっと、こっち」
不思議に思いながら近くに行くと、通話中画面のスマホを渡される。画面には「美弦」と表示されていた。美弦……どこかで聞いた気がするけどそれって誰だっけ。疑問を浮かべたままスマホを耳にあててみると、聴こえたのは小津先輩の声だった。
「楽しんでる?」
今の今までは楽しかったです、とは、でも私は言えずに「はい」とだけ簡潔に答える。そう言えばこの先輩はそんな名前をしていたっけ。
たった一年先に生まれただけでどうしてこんなに自信たっぷりなのか。もし自分に姉がいたら、こんな感じなのかも知れない。
「そんなに身構えないでよ。この前は悪かったわ」
小津先輩は軽く笑いを含ませた声で一気に言い終えた。まるで洋画に出てくるちょっとイイ女みたいな口ぶりだ。
私は土方先輩に目線を向ける。土方先輩は困ったような顔で後頭部を掻く仕草をする。何をどこまで聞いているのか分からない以上、土方先輩を責めるわけにもいかないし、どちらかと言うと可哀想な役回りになっている可能性が高い。
私は土方先輩に背中を向けた。
「あの、私は小津先輩のこと……」
そんなに嫌いじゃないつもりなので意地悪するのだけやめて下さい、を丁寧語にするには何て言ったらいいのか。
「その、変なこと、言わないで欲しいんです……だって、あの……私、部活とかあんまりやって来なかったから、自分に先輩がいるって初めてなんです」
通話の向こうから息を飲むような気配がした。そのあと、くぅ、と変な音がして辺りを見回したけれど発生源はスマホ越しの小津先輩が発した音だったらしい。え、まさか泣いたりしてないよね、と驚いたものの、たぶん泣いてはいなかった。
「後輩って……カワイイんだねって土方に言っておいてっ!」
私はどんな顔をしたらいいかわからず、あ、はい、と生返事をする。
「そうかそうかー。うーんと、うん。あのね、あたし白澤に振られたのね」
「えっ!?」
「やーだ、そんなに驚かないでよ。知ってたでしょ、そんなの」
いえ、あの、えっと。しどろもどろになりながら身体の向きを回転させると土方先輩が心配そうにこちらを見ていた。あ、違うんです大丈夫なんです、と私は念じながら空いている方の手をパタパタ振ってみせる。
「それでちょーっと意地悪しちゃった。ごめんね? ま、いいじゃん、ちょっとくらい。どうせあたしは来年から北海道だもん」
「……受かる気満々ですか」
「そりゃそうでしょ。さすがにそっちは外さないわ」
そっちは、って。また、そういうこと言うから。
もう一度振り返ると土方先輩が顔の前で両手を合わせて苦い顔をしている。うーん、そうか。もしかすると土方先輩は土方先輩で、大変な苦労をしているのでは。
誰かを好きとか付き合うとか、私にはやっぱりまだよく分からない。けれど、今回のことで分からないなりに気付いたことは色々とあって、みんな凄いなぁと単純に思ってしまう。
誰かを好きって気持ちだけでその後のライフステージの変化をものともせずに、自分も相手も巻き込んでいくことが、私にはできるのだろうか。なんだか途方もないエネルギーが必要になる気がする。
「あたしから奪うんだから、ちゃんと幸せになってよね」
やっぱりよくある三文芝居みたいなことを言いながら、おそらくあの自信満々の笑みを浮かべているだろう小津先輩のことは、たぶんこの先もずっと嫌いにはなれないんじゃないかと思う。
見上げた夜空には東京で目にするよりもずっと星の数が多くて、私は困惑と共に長い時間、それを眺めることになる。
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