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 梅雨が明けて、本格的な夏がきた。期末考査へのカウントダウンも始まり、いよいよ近づいてきた夏合宿に向けての準備は慌ただしくなる。

 それと反比例して小津先輩の機嫌は悪くなっている。

 きっと受験のストレスもあるのだろうからと、眉をさげて苦笑いする土方先輩の弁もあってあまり正面から受け取らないように考えて過ごすけれど、これだけ素直に感情を表現できる事はたまに羨ましくもなる。

 何を考えてるのかわからないと、言われて少し遠巻きにされたのは古い記憶にも未だにこびりついているものだ。





「今日は部活はいいの?」

「いいの。特に、何もない日だから」


 言葉を付け足してから言い訳しているようだと思い、ようじゃなくて言い訳だったなと自覚する。

 いつかのように目の前で頬杖をつく茉里奈の前にはフラペチーノ。期間限定の種類で、さっきスマホで自撮りを済ませたところだ。私の前にもフラペチーノはあるけれど、これは通常メニューをカスタマイズしたもので、ホイップとシロップを少なくしたうえでエスプレッソをワンショット追加してほろ苦くしたもの。カロリー控えめで罪悪感も少ないその代わり、「映え」は得られない。

 地学部に入部してから茉里奈とこうして放課後のフードコートに来ることも減っていたから、誘ったときに二つ返事で応じてくれてとても嬉しかった。最近の茉里奈はチア部を休んでいることを隠そうともしなくなっている。


「三城之島だっけ、合宿」

「そう。海岸段丘とか、海食洞……あの、波が削ってできた洞窟とか、その辺りを、一二年生で見学を、ね」


 言ってる途中から気恥ずかしくなった説明を、茉里奈は、ふふ、と声を出して笑ってから目を細めた。まつ毛の先にラメが可愛らしく光を放つ。


「羽純はすっかり地学部だねぇ」

「おかげさまで」

「白澤くんのおかげでしょ」

「そりゃまぁ、誘ってくれたのは白澤くんだけど、背中を押してくれたのは茉里奈でしょ」


 感謝してるんだから。そう続けたのに。それなのに。茉里奈の次の言葉は私の不機嫌をかき乱す。


「愛の力だねぇ」


 それで私は臆面もなく、両の頬っぺたを膨らませながらながらフードコートのチープなテーブルに崩れ落ちてみたりする。テーブルの表面は冷房のおかげでとてもひんやりしている。そうして茉里奈に甘えるように、もだもだじたばたと身動きする。これは本当に茉里奈の前でしか出せないリアクションだなと思う。


「何でみんなそうやって恋とか愛とか好き勝手にぃい!! もぉー! もぉおー!!」

「おー、どうした? なに? 聞こうか。茉里奈に話してみなさい!」


 うう、と情けない声で茉里奈に泣きつく。今日どうしてここに居るか。今日を「特に何もない日」にしてしまった理由について。茉里奈の柔らかい手のひらが髪を撫でる感覚を味わいながら、事の顛末を話し始める。





 その日の小津先輩のご機嫌を損ねたのは実は私が原因だった。

 五限目が少しだけ早く終わった放課後、まっすぐに部室に顔を出すとそこには小津先輩しか居なかった。風通しのために開けっ放しになっているドアから覗き込むと、いつから居たのか、窓際のテーブルに頬杖をついて窓の外を見ている。

 部活の準備をしている運動部の生徒たちの声に混じってムクドリの鳴き声がしていて、そういえば校庭に一本だけ生えた桑の木に真っ黒な実がいくつか生っていたのだった。もう終わり間近の黒々と光る粒を、彼らは名残惜しそうにつつく。

 少しだけ迷ってから教室の戸をくぐる。


「こんにちは、小津先輩」


 先輩は最近、軽いお化粧をしていることがある。校則の緩い学校なので、派手過ぎなければ叱られることはない。時々、厳しめの先生に捕まる茉里奈の姿がちらりと頭を掠める。

 それで少し気安い感じになってしまったのか、小津先輩は面白くなさそうな顔をした。


「今日は白澤と一緒じゃないんだ」

「同じクラスなだけで、いつも一緒ではないですよ」

「ふぅん」


 さっき、白澤くんはクラスメイトと話し込んでいる姿が見えたので、そのまま教室を出て来たところだった。特に誘い合わなくても部室に来れば顔を合わせることになるし、何か伝えるべき事もなかったし。

 テーブルの上に積まれた参考書と辞書。模試の結果らしい用紙。さっきまで開いていたであろうノート。伏せられたスマホには透き通ったガラスビーズのストラップが付いている。

 小津先輩はゆっくりとこちらを見た。あまり良く眠れていないのか、薄化粧をしていても顔色が良くないのがわかる。


「ねぇ、土方じゃダメなの?」

「……え?」


 唐突すぎて話が見えなくて、それで無防備に聞き返したのも良くなかった。


「土方にしときなよ」

「あの、ちょっと、仰る意味が」


 分かりません、の言葉を遮るように小津先輩が言葉を重ねる。


「いい奴だよ、土方。あたし三年間ずっと同じクラスだから知ってるもん」


 この前の天体観測の時の、暴れたくなるほど嫌だったあの感情がまた腑の底でざわりと動く。可哀想なやつなんだよ、と土方先輩が頭の中でリピートする。抑えろ抑えろ、怒るな。大陸プレートの移動。長い氷河期の時代。


「そういうのは……私はよく、分からないので」

「だから、付き合ったら絶対大事にしてくれるって!」


 この人、喧嘩を売っている。私だってわかる、そのくらい。わざと、こちらの気持ちを害するために言葉を発しているのだ。でもそれってなんて幼稚で、なんて稚拙で、なんて馬鹿馬鹿しくて図々しいんだろうか。

 窓の外で蝉が鳴き始めて、カーテンを膨らませながら夏の空気が流れ込む。


「じゃあ、小津先輩が付き合ったらいいじゃないですか」


 言ってしまったすぐ後に「間違えた」と思った。でも、もう取り返しはつかない。


「あー、だめだめ。あたしと土方はそんなんじゃないから。ロマンスとか、生まれないわ」


 しゃあしゃあとそう言ってのける小津先輩の赤いセルフレームの眼鏡が怠そうに光を反射する。短いスカートから伸びる脚を、見せつけるように組み替えた。

 だったら、白澤くんとの間にならロマンスとやらが生まれちゃうって思ってますか。とは聞かずに黙っておくくらいの自制は効いたけれど、そこが私の限界点だった。





 何も言わずに歩いて部室を後にして、教室に戻ろうか迷いながら上っていた階段の途中で茉里奈が降りてきて、それで今ここでこうしてフラペチーノを飲んでいる。

 部室を出てくるときに数名の部員とすれ違ったけれど、特に説明はしなかった、もしかしたら今ごろ迷惑をかけているのかも知れない。そう思うと気持ちの端がちりりと焼け焦げるように痛んだ。


「でも、たいしたもんよ」


 否定も肯定もせず、一通りを話し終えてフラペチーノを啜る私に茉里奈が言う。「だったら、取っ組み合いの喧嘩だわ」などと遠くを見る目つきで溢すので、それはチア部を休んでいることと関係があるのかないのか、そこへ話を発展させても良いものか、そんなことを考えてしまう。


「でも、そうだねぇ……迷惑だけど……そんなに羽純に突っかかるってことは、その先輩から見て羽純はよっぽど脅威だってことだよねぇ……なんか、ちょっと可哀想かも」


 また「可哀想」だ。その言葉には結構うんざりしていて、私はストローから甘い液体をズズズと啜る。可哀想だったら何言っても許されるなんてこと、ないと思うんだけど。

 それとは別に、いま、高校生の私たちが「付き合う」だのと言ってみたところで、それってどうなのかという思いがある。これから進学したり就職したりする訳で、まだいくらだって環境は変わるし価値観も視点も、何もかも不確定要素しか持っていないのに。現時点での「付き合う」とかそんなの、本当に意味があるんだろうか。


「……茉里奈は直斗くんと長いよね。中学からだから、」

「そろそろ三年経つね」

「三年かぁ」


 茉里奈と友達になったのが中学二年生の時で、その時には既に茉里奈と直斗くんはカップルとして過ごしていた。ふたりは小学校から一緒なのだと聞いたことがある。三年も同じ人と親密でい続けるってどんな感覚なんだろうか。友達みたいな、家族みたいな?


「もういっそ、白澤くんと付き合っちゃうとか!」

「茉里奈までそんなこと言わないでー!」


 ハイハイと軽く受け流した茉里奈の爪は美しいオーロラ色に発色している。きれいな茉里奈。ずっとお洒落で、いつも幸せそうに笑う顔しかイメージにない。茉里奈みたいにきれいだったら私もいちいち、こんな事で悩んだりしないのだろうか。私は茉里奈の穏やかな顔を眺め、そこで、ふと思ったことを口にする。


「茉里奈、なんか痩せた?」

「えー? そんなことないよ? あ、ストロー吸ってると顔痩せ?」


 私たちはひとしきり、ストローを吸いながらお互いにポーズをとった。バカバカしいけれど楽しすぎる時間は気持ちを軽くさせてくれる。しばらくそうやってふざけ合っては笑って、それが落ち着いたころ、茉里奈が思案顔で言う。


「ま、とりあえずは白澤くんの気持ちもあるから、ね」


 そう、いっそ白澤くんが小津先輩を好きならば、彼女が私に突っかかってくる理由はないはずだ。あるいは私が白澤くんと全く仲良くなければ。もしくは私と白澤くんがどこからどう見ても友達で……いや、今だって普通のクラスメイトで同じ部活で、それ以上のことなんて。


「……あれ? これって……ん?」

「はい? なに突然」

「え、いや、だって。別に、私と白澤くんはクラスメイトで、特には……いや、特には……何も」


 何もない普通の友達。そう言いかけた私の肩を茉里奈がバチンと叩いた。グロスで品良く輝く唇がきれいな弧を描いている。

 一方の私は目から星が出たというか。申し訳程度に色付きリップを塗った口がぽかりと開くことになる。

 記憶に蘇るのは初夏に訪れた水辺の景色。一緒に入ったお蕎麦屋さん。例えば古い地質の、街中を巡る暗渠の、登校中に遭遇した可愛い犬の、好きな食べ物の話をする時の白澤くんの顔。遅れて部室に行くとこちらに向ける、どこか眩しそうな顔。天体観測の夜の屋上で、チョコレートケーキを食べた時の、ちょっと照れくさそうな顔。

 思い出す場面の白澤くんの顔はどの瞬間も笑顔ばかりで。


「えー? やっと気づいたの?」


 そんなまさかと、頭に浮かぶ結論を打ち消しながらフラペチーノを飲み干そうとすれば、プラスチックカップの中身はもう、とっくに空っぽなのだった。

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