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 まだ薄明るい夏至の観測会のはじまりは、西の空に静かに浮かぶ細い三日月が合図だった。堂々と光る金星。側で輝く鋭利な月。猫の爪のようなそれに望遠鏡の照準を合わせていた土方先輩がこちらを振り返る。


「地球照が見えるよ」


 促されて覗いた望遠鏡の向こうには、まるで雲母のようにはかない光の面。頼りないながらもきちんと存在が確認できて、普段は見えない色合いの月が見えるという希少性を目の当たりにしていることに嬉しくなった。

 乾きかけの屋上はすこしだけ水の匂いがする。


「日没直後しか見えないから、晴れて良かったよ」

「……地球も光るんですね」


 隣で星図を広げていた土方先輩が不意にこちらを見たので、自分がおかしな事を口走ったのだと分かった。とたん、頬に熱が集まる。


「光ってるよ。と言っても太陽光の反射だけど。少なくとも月を照らすくらいには明るいね」


 まるで子供をあやすような優しげな口ぶりに、私は望遠鏡を覗き込んだ姿勢のままで曖昧な相槌を打つ。

 梅雨のさなかの観測会は、小津先輩が作ったてるてる坊主のおかげか、朝はぽつぽつと雨粒を落としていた空が今は静かに淡い夕闇を湛えている。


「火星」


 土方先輩とは反対側から声がして望遠鏡から顔を上げると、いつの間にか白澤くんが立っていて、隣で空を見ていた。ほら、あれ、と指差す先に目を凝らすと小さな光の粒が肉眼でも確認できる。赤いような気もするし、白いような気もする。しばらく眺めてから「赤く見える?」と聞くと、白澤くんはゆっくりと首を傾げた。


「火星は本当に赤いんだっけ?」

「たしか、地表が酸化鉄とかじゃなかった?」

「水ってあるのかな」

「氷なら。あと、地軸が傾いてるから四季があるらしいよ」

「……暮らせるかな?」

「……人工太陽とか使って、こう、大気の温度をコントロールしたり」

「あと地球環境に似た大気組成を作って……」

「うーん、植物さえ育てば……?」


 それと火星の重力によっては大気が宇宙空間に奪われるかもなので何かで囲って、あと日射量が足りれば良いけど、それと何がいるんだろうか。四季はあっても大気の層が薄いからすごく寒かったりすごく暑かったりするかも知れないな。

 考え考え話す私と、一緒に頭を捻ってくれる白澤くんの会話を黙って聞いていた土方先輩が、我慢しきれないとでも言うように笑った。


「なーんか、ふたりは独特のノリだな」

「いや、俺は違うんで。桃井さんが個性的なだけなんで」


 きっぱり突き放した白澤くんに反論はあるけれど。そうだ。そもそもなんで白澤くんが私を地学部に誘おうと思ったのか、今まで聞いていないことを思い出した。

 それで、そのことを聞こうかと思ったタイミングで屋上の扉が開いて小津先輩の姿が現れたものだから私は口を閉じる。


「みんなー! 顧問から差し入れだよー!」

「スイカだ!」

「割れ、土方!」

「よっしゃ! って、どうやって食うんだコレ」


 屋上はだんだんと濃い夜の気配に包まれていく。何となく視線を泳がせると校庭の隅にあるヤマボウシの白いひらひらが、暗闇の中でもしんと開いているのが見える。あれも確か花びらじゃなくてガクだったかな。スマホを取り出して「ヤマボウシ」と入力してみる。ガクという事が分かって満足したけれど、スマホの明かりがずいぶんと眩しく感じてもうしばらくは見たくないような気分になった。

 今夜の観測会のメインは、今とても見えやすい春の大三角と、これからピークを迎える夏の大三角が夜空に共演するあたりという事で、部員はそれぞれ床にブランケットを敷いて寝転がったり、椅子に腰掛けて望遠鏡を覗いてみたり、はたまたスイカを齧ったり、それぞれが思い思いに過ごしている。

 特別に許されて夜の学校に居る高揚感があるせいで、たいして派手な出来事がある訳でもないのに何だか薄らと楽しい気持ちになる。

 私がぼんやり観たいと思っているさそり座のアンタレスも確か赤い星で、南の空だった気がして暗い中で星図を確かめていると、赤いセロファンを貼った懐中電灯を土方先輩が貸してくれた。


「これで見ると眩しくないよ」

「ありがとうございます」

「さっき、スマホ見て眩しそうな顔してたから」

「……見られてましたか」


 この時間のアンタレスは南の空の低い位置にあるらしい。たぶん、もう少し待たないと見え難い。


「買い出しに行くよー!」


 小津先輩が声を上げた。バス通りのコンビニまで行くらしい。それで立ち上がろうとしたら「あぁ、桃井さんはいいから」と制止されてしまった。その割には白澤くんや他の部員にも声をかけている。というか、土方先輩も置いていこうとしている。小津先輩は妙にニヤニヤしてこちらを見ていて……これって。

 意図に気がついてカッとお腹の辺りから何かが込み上げてくる。こういうの、好きじゃない。なんて幼稚なことをするんだろう。

 その時、私が声を上げるよりワンテンポ早く、背後から声がした。


「おーおー、行ってこい。俺、おでんのジャガイモを所望する」


 笑いと呆れを多分に含んだ声の主は土方先輩で、何も気にしていないような顔でひらひらと手を振ると、小津先輩に促された部員たちが好き勝手なことを言いながら屋上の階段を降りていく。

 忙しない足音が遠ざかるのを聞きながら、何も白澤くんまで行かなくてもと思う。キャンプ用の組み立て式の椅子に座っていた姿はいつの間にか消えている。そこは流されなくてもいいのでは。でも案外「長い物には巻かれろって知ってる?」とか言いそうな気もする。まぁ、どちらにせよ不満だ。


「桃井さんでも怒ることあるんだね」

「……そりゃあまぁ、面白くないですよこういうの」


 それから、土方先輩はしばらく黙って望遠鏡を覗いた後、すこし角度を調整してから私を呼んだ。何も気にしていないような暢気な顔をしている。


「ヘビ座の星雲が見えるよ」


 トリミングされた夜空は不思議な眺めで、何度覗いても慣れないと思う。教科書や図鑑で見る写真の中の星雲のような淡い光の広がりを想像したけれど、望遠鏡の性能なのか、はたまた私に星空観測のセンスがないのか、ただ少し大きめの光の粒が並んでいるようにしか見えない。


「小津のこと、苦手でしょう」


 なんだか申し訳なくなりながら望遠鏡を覗き続けていると、土方先輩が言う。そんなことない、ともきっぱり言い切れず、困った私はそのまま顔を上げるのを諦める。


「でも、出来れば嫌わないでやってよ。あいつ、あんなだから友達とか出来にくいし」

「……嫌ってはいない、と思います。小津先輩はすごく物識りだし、むしろ尊敬してるとこあります」

「そっか。なら良かったよ」


 望遠鏡から目を離せば、土方先輩は私の不機嫌なんか全然気にしていない素振りで床にブランケットを敷いていた。そろそろ首が痛くなるだろうと気を回してくれたらしく、この人はどれだけ懐が深いのかと思う。小津先輩の気ままな振る舞いに慣れているせいか、それとも、星空を愛する者は心が広いのか。何とも羨ましい。

 私もそんな風になれるだろうか。例えば、大陸プレートの移動する途方もない年月に比べたら小津先輩のいたずらなんて……とか?


「可哀そうなヤツなんだよ、小津は」


 もう一度土方先輩が言う。それで、今回はもう怒らないと決めて深呼吸をする。夜の空気ってなんでこんなに瑞々しいのか。梅雨だからって訳でもないだろうし。なんだか鎮静作用がある。

 私は遠慮なくブランケットに寝転がった。そのまま肉眼で見た夜空には牛飼座のアークトゥルスと乙女座のスピカが眩しいほどに輝いていて、獅子座のデネボラはきっとあの辺りにあるだろうと見当を付ける。





 どれくらい横になっていたのか、うとうとしてしまったらしく、頭のすぐ横に何かが置かれたコトリという音で意識がはっきりする。


「ふて寝かーい」


 いつの間にか戻ってきていたらしい白澤くんが、呆れたような表情でこちらを見ていた。それ、と何かを指差す。顔の横に置かれていたのはコンビニで売ってるカップ入りのチョコレートケーキだった。なんで? という疑問がそっくりそのまま顔に出たらしく、隣でちょっとだけ笑った。


「断層一丁、お持ち帰りして来た」

「ふは」


 思わず噴き出す。確かに、チョコレートケーキを構成する焦茶色のスポンジとクリームとココアパウダーの重なりは、地層の連なりと言われたらそう見えなくもない。私はたちまち可笑しくなって飛び起きるとそれを手に取った。


「断層崖の形成」


 そう言ってペラペラのプラスチックスプーンを向ければ、今度は白澤くんが噴き出す番だった。この夜空の中に自分がアンタレスの赤い光を見たかったことは、もう、忘れてしまった。

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