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その場所に地学部の部室があることに、入部まで気が付かなかった。
日の当たらない特別教室棟の一階に位置するその部屋は、廊下の突き当たりというロケーションのせいで用事のない人は立ち寄らない。
放課後の始まり。遠くでいつかのように吹奏楽部のロングトーンが鳴り、テニス部のラリー音が掛け声と混じって開けっ放しの窓から流れ込む。この空間をひとりで歩くのにも慣れてきた。最初、あんなにビクビクしていたのが今思い出すと可笑しくて、私はついつい口元が緩むのを感じる。
カラカラと音をさせながら戸を開く。埃っぽい室内には地層のレプリカや化石標本や、古い地図なんかに混ざって様々な資料が雑然と並んでいる。その資料の中になかば埋まりそうになりながらも笑顔を向け合うのが私がこの初夏から所属している小鳥遊学園高校地学部の面々で、何と言うか、つかみどころのない人がたくさんいる、というのが今のところの印象だった。
それでもまぁ、地学という言葉を紐解いてみるにつけ、それもそうかなという気もする。
地学はすなわち地球科学を指す言葉で、単に化石や鉱物、あとは地形とか地層とかを見るものだと思っていたら、天体とか、あるいは気象学まで含めるものだと聞いて驚いた。そして次に納得した。そりゃあこんな雑多な部室にもなるわけだ、と。
「あ、桃井さん来た」
「これ見てよ、この可動域を」
「次の新月が夏至の頃だから観測にちょうど良くて」
「週末の鉱物ショーで買ったの届いたんだけど」
子供向けの立体パズルの恐竜と、書き込みがたくさんしてある天体カレンダーと、岩のようなものの一部が緑色に透き通ったものが、作業机の黒い表面の上にてんでに並べられている。えーと。少し考えて、恐竜を見る。
「それ、何サウルスですか?」
「これはティラノだから、白亜紀のやつね」
「中生代白亜紀でしょ。だから大陸がまだ若干きゅっとしてて」
「インドが移動中の頃だ」
今年、新入部員の少なかった地学部は、季節外れに入部してきた私を珍しがっているのか、それぞれがもっぱら自分の得意とする分野を勧めてくる。入部してそろそろひと月が経とうと言うのにこの流れはなかなか落ち着きを見せなくて、私は曖昧な笑いを顔に張り付けたり、質問で話題を逸らしてみたり、そんな事をしつつそれをやり過ごしている。
窓の近く、すこし陽の当たる作業台を定位置にしているのが、私をここに引き込んだ張本人こと白澤くんで、私の姿を認めると手に持っている冊子をちょっとあげて見せた。それが挨拶を意味すると理解できるくらいにはこの部屋に通いなれたらしい。
「何サウルスって」
静かに、でも可笑しそうに薄っすらと笑った白澤くんの横顔。それを視界に入れた私が何かを思うよりも一瞬早いタイミングで、白澤くんの差し向かいに腰かけた
「サウルスってギリシャ語でトカゲって意味だよ」
「……そうなんですか」
長いまつげ、とがり気味の唇、薄い肩。制服の紺のリボンはシンプルなタイ結びにしているけれど、スカートは短くたくし上げて履いている。アレに似ている。あのキャラクター。ムーミン谷の仲間で、いつも捻くれていて谷の仲間たちに混乱を振りまく、トラブルメーカー体質の小さな女の子。でも、もしかしたらこういうのをコケティッシュと呼ぶんだろうか。
「だからぁ、桃井ちゃんは何トカゲですかって聞いたわけだ」
「な、なるほどです」
「あは、かーわいい!」
ほかに上手な返答が思いつかなくてそう零せば、小津先輩は愉快そうに声をあげて笑った。白い歯だ。私は治療中の歯が自分の口内にあることに思い当たって、口の前に手をかざす。
地学部の部室に初めて顔を出した時、いちばん喜んだのは小津先輩だった。小津先輩は三年生で、地学部唯一の女子部員として三年目に突入する所だったと言って、心底嬉しそうに私の手を握りしめた。私よりもちいさくて、私よりも熱い手だった。
「
「あ、あの、二年の桃井です……えーと、白澤くんの勧誘で、今日は見学にお邪魔しました。宜しくお願いします」
勢いに驚きつつも経緯など絡めて精一杯挨拶すると、すこし低い位置で眼鏡越しの先輩の目が一瞬見開いたあと、すぐに綺麗な弧を描く。
「女の子同士仲良くしようね、桃井ちゃん」
はい、と返事しながら、その時の私は既に胸の奥にザラザラする何かを感じていた。
その時は気付かないように蓋をしたけれど、後になればなるほど、あの感覚が正しかったのだと思い返すことになる。あの時、引き返していたら。あのあと、入部届を先延ばしにしていれば。あるいは今からでも、ここに来る頻度を下げて、先輩が卒業するまでを息を潜めてやり過ごしてみたら。
自分がたまにそんな事を思うようになるなんて、ついこの間まで知らずにいた事だった。
「桃井さん、夏のフィールドワークの資料、これ」
「……三城之島?」
「あそこは地層が見やすいし、星もきれいだし、魚も旨いから」
「最後の、関係ないのでは」
指摘をすれば、ちろりとこちらを見て、それからすぐに目線を外した白澤くんがひそりと笑って「好物でしょ、魚」なんて言う。そりゃあ確かに私は美味しいお魚が好きだと言ったことはあったけど、それはやっぱり今あんまり関係ないのでは。
白澤くんがしれっとジョークのような発言を紛れ込ませて、私が突っ込みを入れて混ぜっ返して、だけどそれをひっそり笑って流す。面倒くさいような、面白いような、その微妙な一連のやり取りは嫌いじゃない。こんな時の白澤くんはどこか飄々として、それでいて身体中でこちらを意識しているようで、大人っぽさと子供っぽさが同時に存在したようになる。
最近気付いたことは実はもうひとつあって、私はその一連の流れを白澤くんと辿るのが、嫌いじゃないってこと。
「いいなぁ~いいなぁ~! 一二年生は夏合宿か!」
「……先輩は夏期講習でしょ」
「そうだけど! 何か!」
「頑張ってくださいよ、地球惑星学科」
「えー、やだ寂しいー」
小津先輩が難関校を受験するつもりなのだとは聞いていて、普段の成績からしてたぶん受かるらしい。そこが地方の大学で寂しく思うのもよく分かる。
「白澤も来てよ、北海道」
「地方はちょっと」
「リケジョは友達出来にくいんだよ~」
このやり取りを耳にするのも何度目かで、もはや様式美となりつつあるけれど、何度聞いても慣れるものではない。慣れようとはしている。考えないこと。聞かないこと。心を動かさないこと。そうやってやり過ごしてしまいたくて、なおも続く攻防から意識を逸らすように、私はフィールドワークの資料を凝視する。
「……あ、逆断層も見れるんだ」
「それ、俺も楽しみ」
「えー、そこあたしの時は調査が入ってて立ち入り禁止だった!」
思わず出てしまった呟きを白澤くんが拾ってくれて、それだけでたちまち嬉しい気分でいっぱいになるなんて、私はいつの間にこんな風になったのか。もしかして煽られてないかな。でもそれって何から? そして何を?
ガラガラと音を立てて開いた扉から部長の
「おーい、夏至の観測会のお許しが出たぞー」
夜の学校の屋上で開催される観測会は地学部の活動の中でも人気が高く、私は地層や地形を追うフィールドワークの次に天体観測が好きになった。
夏至はたしか、終わりかけの春の大三角形と、出始めの夏の大三角形が観測できると聞いている。
夏の星座が見えるのならアンタレスが観られるといいなぁと、ぼんやりした頭で思う。蠍の火で焼かれるのは何だったっけ。ぼくのからだなんかひゃっぺん焼かれたってかまわない、は何の事だっただろうか。
ホワイトボードに観測プランを貼り出す土方先輩の肩幅を見ながら、あぁそうか、あれは銀河鉄道かと思い出した。
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