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 クラスメートの白澤くんと湧水群を観てお蕎麦を食べてきた。史跡も見た。楽しかった。

 それが、出かけてきた翌日に茉里奈に報告した内容で、目を細めて聞いていた茉里奈は口角を上げて綺麗に笑うと「それだけぇ?」と言った。

 放課後のフードコートは今日もほどほどに混雑していて、私たちのような高校の制服に身を包んだ姿もちらほら見受けられる。みんな何を話してるんだろう。それぞれ楽しそうだったり、深刻そうだったりして、一組ずつに小宇宙が広がっているようで何とも不思議な光景だ。


「それで、どうするの?」

「どうって」

「入るの?」


 実際、白澤くんはよく分からない人だ。

 教室の中では目立つ生徒ではなくて、物静かで、成績は良い。運動はまぁ普通だったと思う。と言うか、運動が苦手だという話は特に聞いたことがないから、たぶん、苦手ではないのだと思う。

 先週の日直でたまたま当番が一緒になった。その放課後、クラス日誌を付けつつの世間話のつもりで、その日の授業に出てきた「真姿の池湧水群」が小さいころに住んでいた辺りなのだと話したら、その場所へ行ってみたいという話になり、二人で散策してきたのがこの週末のことだった。

 なぜ私などと一緒に出掛けたがったのか、それは今をもって謎なのだけれど、重要なのはそこではなくて。実は白澤くん的には私のことを、自身が所属する「地学部」への適性があると目星をつけていたのらしい。それでまぁ、地学部に入るか、入らないか。そういう分岐になっていた。

 椅子の背にかけられた制服の、ブレザーに付いている金ボタンに刻まれた小鳥のマークを見つめる。


「部活がね、ちゃんとやった事ないんだよ、実は」

「そうなの!?」

「そうなの」


 これと言って理由はない、と言ったら茉里奈のような中高通してチアリーディングに打ち込んでいる人に信じて貰えるだろうか。

 中学は図書部という、図書室で本を読む部活なるものに所属してはいた。けれど、部活といっても在籍だけの幽霊部員なんてザラに居たし、半分くらいは「部活動をしない人」の避難先みたいな場所でもあったのだ。だから誰にも咎められることなく幽霊部員として過ごしていたし、本を読んだり、家のことをしたり、塾に通ったり、そうやって静かに過ごしてきた。友達と言える人も数人いたし、それなりに楽しい中学校生活だった。

 だから、高校でも同じように過ごして行くのだと思っていた。ところが。

 入学初日に茉里奈に出逢ってから、私の視野は勢いよく広がり続けている。茉里奈はお洒落で社交的で、そして私のことをまるで妹のように構ってくれた。

 部活こそ何も入らないままではあるけれど、茉里奈の部活がない日の放課後、クラスメート何人かでウィンドウショッピングしたり、こうしてフードコートでお喋りしたりと、中学時代に比べたらそれなりに充実してたりする。大躍進だ。それに、茉里奈に教わったスカートの丈と、お肌の手入れと、色付きリップのおかげで、私もそれなりに女子高生っぽい感じに仕上がっていると思う。

 特に、茉里奈の言葉は魔法のようだった。これまでの私はいつも、思っていることを上手に言葉にできず、もどかしく思うものの「まぁいいか」と諦めてしまう事が大半だったけれど、茉里奈はいつでも根気強く耳を傾けてくれたのだ。


「羽純はちょっと変わってるけど、別に変じゃないから。むしろ、面白い」

「面白いこと言ってるつもりはないんだけどね」

「いいからいいから。とりあえず、言葉にしないと伝わるものも伝わらないんだよ?」


 そうやってにっこり微笑まれると、まるで自分が本当にそれっぽい人になったように思えるから不思議なものだ。やっぱり魔法だと思う。

 茉里奈からすると白澤くんは「羽純の面白さに気付くとは、只者じゃない」らしく、私としては少々複雑ではあるけれど、白澤くんのことは特に嫌いではなくて、むしろ一緒に過ごした時間はなかなかに楽しかった。だから、迷っている。下手に近づいて「やっぱり無し」と判断されるのも悲しい。


「そうなったら悲しいって、思うのも一歩前進じゃない?」

「そういうもの?」

「たぶんね。あと、単純に楽しそうだから、かなぁ」

「楽しそう?」


 うん、と頷いてから、茉里奈はまたとてもきれいに笑った。


「白澤くんのこと話している時の、羽純の顔」

「そうかなぁ」

「気付いてないのぉ?」


 いひひ。と嬉しそうな声を出した茉里奈がポテトフライを一本摘んで顔の前に差し出す。私は恥ずかしいような、ワクワクするような、何かを持て余したような落ち着かない気持ちのまま、それに噛り付いた。





 そんな時間を過ごし、白澤くんとあらためて話をする時間もないまま一週間が経とうとしている。一緒に出掛けたのは夢だったのでは、などと思い始めた昼休み。五時限目が始まる直前に、おかしな事が起きた。教室に猫が入ってきたのだ。

 茶色い縞模様の猫は成猫で、とても落ち着いた態度で後ろの扉から静かに入り込んだ。すぐに気付いた一団がキャアキャアと騒ぎ立てても猫に動じた様子はない。誰かが提供したストールをお腹の下に敷くと大人しく丸くなり、そのまま五限目が始まってしまった。この時間は眠そうな日本史のおじいちゃん先生の授業で、教室の後ろのスペースに陣取った猫に気付く様子もなく授業は進んでいく。


“野良猫かな?”


 斜め前の座席に座った萌音ちゃんから、可愛らしいメモに短いメッセージが書かれて回ってくるのは割とよくある事で、私はそのメモに返事を書き足して隣の茉里奈に回す。すぐに返ってくるので、また書き足して萌音ちゃんに回す。


“違うと思う。たぶんだけど、飼い猫さん”

“何でそう思うの?”

“人慣れしてるし、肉球が柔らかそう”


 野良猫ならもっと警戒心が強いだろうし、あの猫は毛並みが良い。記憶の中の触らせてくれる野良猫さんはもっとカチカチの肉球をしていた。それに、誰かから貰ったストールで無防備に丸くなれるのは普段から人間の生活に接しているせいだと思う。加えて言えば、かなり大事にされている。


“飼い主は生徒かな?”

“たぶん、先生”

“なんで?”


 うーん、と考え込みシャープペンシルを弄ぶ。

 例えば生徒の家から飼い猫が付いて来たとする。まず、猫が電車やバスにひとりで乗ってくるのは無理がある。それに朝から居たならば、もう少し早く発見されそうなものだ。あと、近隣に住んでいる生徒というのも聞いたことがないし。ではこの昼休みに登校してきた生徒がいるかと言えば、今日は職員会議があるから授業はどの学年も五限で終わりだし、その関係で部活動も制限されている所が多い。そんな日にわざわざ出てくるって事もないだろう。とすれば。

 私の頭の中には、クラス担任の古文の先生の顔が思い浮かんだ。たぶん、そう。


“文香ちゃんだと思う”

“何で!?”

“猫、飼ってた?”


 ここでバタバタと廊下を小走りでやって来る足音がして、教室の戸がそっと開く。戸の隙間からこちらを覗き込んでいたのは予想通りの女性の顔だった。文香ちゃんは、いつになく切羽詰まった声を出す。


「授業中すみませんっ、こちらに、猫が来てたりしませんか?」

「……猫?」


 途端に教室中がザワザワし始め、文香ちゃんに気付いた猫さんがニャアンと鳴き、ふたりは無事に再会することができた。動物病院に猫を連れて行った帰り、職員会議の為に学校に寄ったら、いつの間にかケージから猫が脱走していたのだとは文香ちゃんの弁解から聞こえたストーリーだった。

 授業が終わると、口元をムズムズさせた萌音ちゃんと茉里奈が私の方に一斉に向き直る。


「何で分かったの!?」

「えーと、あの……例えばね」


 私は飼い主についての考察を何となく照れながら披露する。

 つまりは、今日の午前中は居なくて午後はどうしても出てくる必要がある人物で、教師で、猫が好きで……と絞り込んで行くと、今朝のホームルームに居なくて、猫プリントのスカーフや猫のワンポイントが入ったノートなど、持ち物から猫好きが漏れていた文香ちゃんかなと思った訳だ。


「家族急病のためって、猫のことだったのかー」

「確かに家族だね!」

「すごいね、羽純!」


 納得した二人が口々に褒めてくれて、照れた私の視線が泳ぐ。それがふと、窓際の机で帰り支度をしている白澤くんとぶつかった。白澤くんの口元が静かに緩んで、空気だけで言葉を紡いだのがわかる。


 お見事。


 そう言ったのだ。

 それで、私は何となく赤い頬のままで決心する。


「入ろうかな、地学部」

「地学部?」

「それがいいよ」

「うん、気になるんだ」


 萌音ちゃんは不思議そうな顔をしたし、茉里奈は「それでいいじゃない」と嬉しそうに言ったけれど、私の中では大冒険の始まりだった。

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