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 藤原が編入生として現れてからひと月が経過した。順調過ぎるくらい順調にクラスに馴染んだ藤原は、誰が言い出したものか「ばんちゃん」などと呼ばれてすっかりマスコットキャラのように可愛がられている。


「万ちゃん、『餅入り最中』あるよ。食べる?」

「うーん、食べる! でもちょっと待ってね」


 彩花の座席のひとつ前に後ろ向きに跨った藤原が、かけられた声に反応して振り返って微笑んで見せてから、またこちらへ向き直る。万

 ちゃんの和菓子好きは今やクラスでは周知のこと。帰り道の買い食いで、コロッケやフライドチキンにかぶりつく男子生徒を尻目に、みたらし団子や草餅にきらきらと目を輝かせるものだから、皆が面白がって家から和菓子を持ってくるようになった。

 彩花の机の上には白と黒の駒が所狭しと広げられており、それらは互いの陣地を奪ったり奪われたりを繰り返している。すなわちそれはオセロなのだった。

 藤原の手元にあるストローの刺さった四角いパックには煎茶と書かれていて、相変わらず渋い趣味をしているなぁと思いながら白い駒をひとつ置く。途端、藤原が身を捩った。


「うあっ……」

「そんな、大げさだよ」


 俳優もかくやと言うリアクションは笑いを誘い、皆がくすくすと肩を震わせる。藤原はくるくると表情を変える。そんなところもクラスで人気になる理由のひとつなのだろうと思う。

 遊園地での一件からこちら、彩花は自分でも驚くほど藤原に対する態度が柔軟になった。藤原がオカメインコのこたろう似なのだと気付いてから、思春期独特の線引きがほぐれたような、息のしやすさを感じる。何となく、男子、女子と別れて群れていたものが取っ払われたような気さえする。

 女子は女子らしく可愛らしくして愛されて、なんて事ではなくて、藤原と自分を、こたろうと自分に重ねて見るようになったら、そこには単に生き物と生き物がいた。そんなふうに見方が変わって来て、いっそ愛おしさすら感じるようになった。


「なーんて、これでどうだっ!」


 黒い駒でボードの角を獲った藤原が、夢中で駒をひっくり返していく。

 あっという間に形勢逆転した盤面を見ても、彩花にはただただ微笑ましい光景にしか見えなくて、それで、クラスの皆と一緒に手を叩いて笑った。

 藤原はほんの一緒だけ驚いたように彩花を見つめた後で、思い直したようにクラスメートの声援に応える素振りをする。これで良い。誰かに言い訳をするような気持ちになったことに、彩花は気付かないふりをした。





 それにしてもアレはどうなのよ、そう言ったのは茉里奈だった。部室から直接正面玄関に向かうタイミングでばったりと出くわして、一緒に帰る流れになった。

 帰宅途中の通学路は公園を横切って、だらだらした坂道を下り、それから駅前商店街に入る。公園の中を通らなくても行き来はできるけれど、なんとなく気に入って入学以来ずっとそのコースを通っている。

 公園の噴水跡を歩き、歩道脇のハナミズキの葉が色づいているのを眺めていた。中心にある真っ赤な実は夕暮れの薄青い空気の中でも艶を帯びていてとてもきれいだ。そんなことを思っていたら、茉里奈がそう言ったのだ。


「アレって、何のこと?」

ばんちゃんのことよ」


 茉里奈の鞄に付けた赤い花の飾りがひらひら揺れるのに合わせて、長い栗色の髪もふわんふわんと揺れる。夕暮れの中でもその色が正しく認識できるというのは、考えてみればなかなか不思議なものだ。


「藤原くんならもう心配ないでしょう、部活も始めたみたいだし」

「いや、そうじゃなくて」

「えーと、クラスにお菓子の持ち込みが増えたことなら、授業中に食べたりしなければ多めに見るって文香先生が」

「そっちでもなくって」


 あーもー、わかんないかな。そう言ってくしゃくしゃと髪をかき上げた茉里奈は、彩花の目にもとても可愛らしく映る。色良く塗られたリップグロスも、短くしてあるスカートも、どれも茉里奈らしくてとても素敵だ。

 この頃なんとなく思っていた事を、自然と笑みの形になった口元のままで声にしてみる。


「私ね、今すごく、みんなの事が好きなんだ」

「……それってさぁ」

「男子とか女子とかの括りじゃなくて、みんながそれぞれ素敵に見えるって言うか」

「ドーラちゃん、」

「生きとし生けるものって表現が、しっくりくる、のかなぁ」

「……そりゃ今はそれでいいだろうけど。でも……だとしたら、藤原くんの気持ちはどうなるの?」


 藤原の、気持ち。思わぬ方向から照らされたように感じて彩花は瞬きをした。

 藤原は彩花のことを、昔飼っていた犬に似ているのだと嬉しそうに告げた。その言葉に安心した彩花は、やっと自分の立ち位置を確保した気持ちになっている。可愛くない、か弱くないけれど、隣に居ても良い理由。けれど、その結論に、実は薄々は違和感を覚えていなくもない。


「そうでしょう? ドーラちゃんは博愛主義に目覚めて『めでたしめでたし』かも知れないけど、それは隠れ蓑に見える、……って言うか」


 いつになく強めの口調で言葉を重ねていく茉里奈は、言いかけた途中でふと口をつぐむ。それからこちらを見て慌てて「ごめんね」と呟いた。


「ごめん、私。なんか、押し付けがましいこと言ってるね」

「いいよ」


 いいんだよ、ともう一度口にする。痛い指摘だと感じたのは、それが間違っていないからだろう。何かが、彩花の胸を内側から弱くノックしているような気がしていた。

 それからふたりとも何も喋らないまま並んで歩き続け、公園の出口まで来た時に後ろから声をかけられた。声には聞き覚えがあって、振り返る前に誰だか分かる。


「ドーラちゃん! ……と、茉里奈」

「三浦さん」

「雛子ちゃん!」


 公園出口のフェンスに寄りかかるようにして立っていたのは三浦みうら雛子ひなこだった。

 三浦は茉里奈と同じチアリーディング部に所属していて、彩花の中ではこの数ヶ月で「大人しく見えるが口を開くとわりと歯に衣着せぬ物言いをする、芯の強い女子生徒」という風に評価が変わった生徒のひとりだ。

 小柄さを感じさせない大胆なアクロバットを得意としているらしく、次期部長との呼び声も高い。

 本来ならこの時間はまだ部活動に励んでいるはずなのに、最近はこんな風に公園の出口や坂道の途中などで一緒になることが多い。きっと何か用事があるのだろうとは思いつつも、彩花も三浦も核心には触れないような、当たり障りのないことを話して駅で別れることが続いていた。

 三浦の表情とリアクションから、今日はどうやら何かを決心して自分を待っていたらしい事と、三浦が茉里奈をわりと鋭い目でいちべつしたことに、何故だか少しギクリとしながら向き直った。


「三浦さんも今帰り?」

「そう……あの、私」


 いつになくモジモジと身体を動かしてみせてから、もう一度、意を決したように茉里奈と彩花を順番に視線で撫でる。


「私、ドーラちゃんと話がしたかったの」


 きっぱり言い切ったのを聞いて、茉里奈がわずかに身を固くするのが分かった。こう見えて実は小心者な部分があるところは、本人は隠せているつもりかも知れないものの、仲の良いメンバーには共通の認識だった。彩花は、茉里奈の服の裾を柔らかく掴んだ。まるで自分が茉里奈に助けを乞うているようになる。もちろん、半分は自分のためだけれど。

 茉里奈が動けなくなったのをそのままにして、三浦が口を開いた。


「ドーラちゃん、ううん、彩花ちゃんは藤原くんと付き合ったりしないよね?」

「えっ……」

「最近の彩花ちゃん、少し、変」

「えっと、それは、あの」

「ねぇ。彩花ちゃんは、藤原くんを好きなの?」


 好きかどうかと聞かれたらそれは好きだ。けれど。でもさっき、いろいろと違うってことに気が付いたばかりなわけで。

 言い淀んでいる彩花に立ち向かうように三浦が続けて口を開いた。


「私は好きだよ藤原くんのこと。だから、ちゃんと告白しようと思ってる。だから……だから、」


 泣き出しそうに歪んだ顔でそこまで口にしてから、三浦は踵を返して駆け出した。追いかけようか。一瞬迷ったけれど、今ここで追いついたとしても、かける言葉が何も出てこないだろう。薄闇の坂道を駆けていく三浦の背中が小さくなる。

 心臓がうるさいくらいに鳴っていて、漠然と「人の感情に触れてしまった」と思った。痛々しくて瑞々しいそれは、皮を剥きたての果実のように鮮やかなものだ。


「私、自分でも自分の感情のことがよく分からないんだ」


 自分の感情どころか、将来何になりたいのかも、それになれるのかも、ドーラに憧れているくせにクラスメートの纏め方も正解が解らない。オセロ盤の向こうでキョトンとした藤原が何を考えていたのかも、さっきの三浦に何て言えば良かったのかも。

 何かを掴んだように思えても、全てが一瞬で砂のようになって手のひらから溢れ落ちていくような気さえする。

 変かも知れないけど。と付け加えると、隣で茉里奈が緩くかぶりを振った。


「変か、変じゃないかじゃなくて、自分が無理してないかどうかってことかも知れないね」

「そうかもね。ありがとう、私もうちょっと自分の気持ちと向き合ってみる」


 そうかも知れない。私はもう一度ちゃんと、自分の心と向き合わないといけない。

 吹いてきた風には冬の気配が含まれていて、彩花は人の心も方程式のように簡単に解けたら良いのにと思いながらため息を吐いた。

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