3

 騙されたと気づいたのは待ち合わせの遊園地に着いてからだった。

「貰い物のチケットが余っているから遊園地に行こう」と誘われたのは数日前のこと。最近急速に形成されつつある女子四人組でのことかと思えば、茉里奈と萌音、羽純が手を振る位置から少し離れた所に、クラスメートの男子が数人立っている。

 神崎くんと関口くんはわかる。二人はそれぞれ萌音と茉里奈の彼氏だ。羽純が最近仲の良い白澤くんの隣、少し俯きがちに頭を掻いているのは藤原。あれはダメだ。あれは良くない。彩花の頭の中で低く警報音が鳴り始める。

 地下鉄の出口から一息に階段を駆け上ってきた彩花の歩調はたちまち鈍った。けれど、あからさまに嫌な顔をするわけにもいかず、とりあえず合流はする。


「お待ちかねだよ、彩花ちゃん」

「ないわ」


 アハハと三人が無邪気な声をあげて笑った。これはもう、今日いちにちを無難にやり過ごすしかないだろう。



 コーヒーカップにお化け屋敷、ゴーカートを満喫してから一行がたどり着いたのは観覧車だった。

 皆お約束とばかりにそれぞれペアになってゴンドラに乗り込んでいく。例えば教室の中で自分と藤原があからさまなペア扱いされることには慣れていたけれど、それはあくまで不慣れな編入生とクラス委員としてであって、今回みたいなのはどうにも座りが悪い。

 藤原が彩花にまとわりつく、彩花が仕方ない顔で対応する、周りが何となく和やかな目で見るまでがワンセットで、そこから先に進む対象には選ばれないのが自分の役回りなのだと自覚している。それなのに。こんなまるでカップルみたいな扱い。まるで藤原が彩花に気があるみたいなキャスティング。

 ひとつも納得していないまま、それでも、踏み込むとわずかに沈むゴンドラも、ガチャンと鈍い音で閉じられた扉も、何となくフラップターを連想させたので彩花の心は少なからず弾んでしまった。フラップターは乗り物の名前で、天空の城ラピュタに出てくる、ドーラ一家のタイガーモス号に積まれている小型偵察機だ。

 今日の藤原は焦茶色の上着に深い緑のコーデュロイのパンツをあわせている。色合いが少し渋すぎるのではないか。コンバースのハイカットを履いているのも好きじゃない。アウターの中に着込んでいるのがアイボリーのパーカーなのも、その紐をちょうちょ結びにしているのも、あんまりそんなに好きじゃない。

 そうやって自分の中における藤原の評価を下げ、自尊心を保とうとしている自分のことはもっと好きじゃない。


 目の前のシートに腰掛けた藤原の姿を見るにつけ、何でこんな目にという気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。

 色素の薄い茶色みがかった髪の下から仔犬のような瞳が覗く。視線がぶつかり、藤原がこちらの機嫌を伺うように気弱そうな笑顔を作る。困りたいのはこっちの方だと思わずにはいられなかった。

 ゴンドラは徐々に高度を上げている。


 後方のオレンジ色をしたゴンドラから茉里奈が手を振っている。笑顔を浮かべて振り返しながら、どうしたものかと思う。クラスメートの誰にも打ち明けてはいない事だったが、実は彩花は観覧車が苦手なのだ。

 カタカタというわずかな機械音と、ドアをすり抜けてくる風のほかには、あまり音がしない。


「彩花ちゃん、今日のこと、怒ってる?」


 殊更ゆっくりとした口調の藤原に、そんな事を聞くくらいなら来ないで欲しい、と思ってしまう。答える代わりに首を横に振る。


「藤原くんも、呼ばれたからってノコノコ出て来ちゃダメだよ」


 ゴンドラの揺れは想像していたよりも穏やかで、それは彩花にとって救いだったけれど、高さを意識しないように景色を視界に入れないとなれば、自然と、藤原と向き合わなければならない。

 ジェットコースター方面だろうか。風に乗って楽しそうな歓声が聞こえてくる。わざわざあんな高速で振り回されに行くのもどうか。フリーフォールなんてもはや正気の沙汰とは思えない。

 その点、観覧車は穏やかだが、何しろ対空時間が長いのだ。

 こんな物を怖がっているくらいでは空中海賊にはなれない。けれど、空中海賊なんてものはアニメ映画の中にしか存在しないので、当たり前に空中海賊にはなれない。だからと言ってドーラに憧れる身でありながら高所を怖がるのは、やはり情けなく思える。


「あ、それは違うんだ」


 ぐだぐだと纏まらない思考を繰り広げていると、藤原がまた言葉を発した。


「……違うって、何が?」


 聞こえた単語を拾ってなんとか会話に押し込める。


「うん、あのね、僕が集めたんだ」

「集めた?」

「そう」


 にこやかに続けられた言葉によれば、藤原の方から神崎くんや関口くんに声をかけたらしい。


「神崎くんは将棋部で一緒なんだ。それでね、僕が彩花ちゃんともう少し仲良くなりたいって相談したら、それならダブルデートはどうかって話になって、そこから関口くんと白澤くんにも話が伝わって」

「ちょ!」


 情報処理が追いつかない。

 大きめの声と、同時に右手で藤原に待ったをかけた。藤原が将棋をするのも初耳だし、神崎と仲が良いらしいのも知らなかった。それなら英単語帳は神崎と買いに行けば良かったではないか。と言うかそれ以前にダブルデートって。


「あの、あのさぁ」

「ん?」


 藤原が目を細めたままこちらを見る。ゴンドラの隙間から吹いてきた風が藤原の茶色い髪をかきあげて揺らした。背景の薄青い空と相まってとてもきれいだと感じる。

 彩花が何かを言い出すより先に、藤原が口を開いた。


「彩花ちゃんは、僕の家で前に飼ってた犬に似てるんだ」

「それって……ブルドッグかなんかでしょ」

「ううん、土佐犬」




 頭の中で、化粧まわしを締めた土佐犬がこちらをキョトンと見つめている。

 ゴンドラはもうだいぶ高い位置まで来ていて、先ほど乗ったゴーカートのコースと、これから乗る予定のメリーゴーランドの屋根が楕円形に見えている。

 ゴンドラに取り付けられたドアの隙間から冷たい風が吹き込んできて彩花の首元をくすぐる。これは全然ぴったりと閉まっていないものなんだなと、あらためて心細い気持ちにもなる。

 藤原は、かつて家に居た土佐犬がいかに可愛かったか、どれほど家族に愛されていたかをぽつりぽつりと話していた。曰く、土佐犬と言っても闘犬として育ててさえいなければ、普通の大型犬とあまり変わらないらしい。

 その犬がとても優しくて、律儀で、少し怖がりで、ユーモラスな顔はどれ程表情豊かであったか。

 彩花は実際のところ高度が上がっていくにつれて気が気ではない心持ちもありはしたが、反面、藤原のマイペースな語り口に安心している部分もあった。

 遠くで湖の水面が光っているのが見えた。堤防の歩道は、中学生の頃にマラソン大会で走らされた覚えがある。

 ふと、藤原が指をさした。


「僕の家、あの辺」

「……どこ?」

「湖の、もう少し向こうの……あ、鉄塔の横のマンション」


 そう言いながら身を乗り出すのでわずかにゴンドラが傾いた。ヒェ、と意図せず声が漏れてしまう。至近距離の藤原が聞き漏らすはずもなく、すぐに何かを察した顔になって席に戻る。

 そのタイミングで安っぽいチャイムの音がゴンドラ内に流れ込んで、それで初めて、スピーカーが付いていることに気が付いた。


「まもなく、当ゴンドラは観覧車の頂点を通過致します」


 明るい女性の声が告げたあと、藤原が人差し指を唇の前に立てた。


「……内緒にしておくね」

「…………頼みます」



 だんだんと高度が下がっていく。

 樹木の梢が窓の外に現れ始め、ほっと胸をなでおろす。さっき、席に戻る時の藤原はゴンドラを揺らさないように動いていたな、と思い返した。分かってはいたけれど、少なくとも信用できる人物なのだろう。

 観覧車の頂点を過ぎてからずっと、藤原の話題は自分が将棋を始めたきっかけや、将棋の魅力についてになっていた。祖父の影響で始めたのだと聞いてから、藤原の立ち居振る舞いが、同級生の男子に比べて妙に落ち着いていることにも納得がいった。


「犬は、何て名前なの?」


 話が途切れたタイミングで水を向けると、藤原は少し居心地悪そうに「フランシーヌ」と告げたあと、「もう死んじゃったけど」と呟いた。


「私の家にも小鳥が居たんだ、前」

「名前は?」

「こたろう。オカメインコだった」


 そっか、と答えてゴンドラの天井を見上げた藤原の、柔らかそうな髪がまたふわりと風に煽られて、彩花は「あ、オカメインコ」と思う。似ているのだ、こたろうと。

 ああ、そういうことか。発見だった。彩花も天井を見やる。無意識の内にこたろうに似ていると感じていたから、だから藤原を無下に出来なかった。藤原も、きっと同じことなのだ。


「さっき、ちょっと近いなって思ったんだ」


 何処とは言わないものの、藤原のそう言いたい事が解って、それでゆっくりと同意した。



 観覧車から降りるとき、あろうことか藤原はゴンドラからひらりと飛び降りると、悠々と振り返って彩花めがけて片手を差し伸べた。

 先に地上で待っていた萌音と羽純が「ひゃあ」と声を上げるのが聞こえる。

 それを頭のてっぺんの方で受け止めながら藤原の手を取る。そして彩花は堂々と、まるで女王の帰還のように、タラップから降り立った。

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