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「水急不月流」と書かれた半紙が、照明に包まれながら下がっている。水の流れるような紋のついた薄水色の中縁は雰囲気があってとても素敵に見える。

 川を流れる水の勢いがいかに激しくても水面に映る月は流されずにある、という意味合いの禅語のひとつで、悩みに悩んであの分厚い本の中から選び出した言葉だった。

 鷺宮先輩も良い言葉を選んだことを褒めてくれた。人の心は移ろいやすい。その時その場の状況によって、何となくあった方が良さそうな言葉や行動をつい取ってしまいがちな萌音などには、一見凪いだ態度をとる神崎が眩しく、とても羨ましく見えた。

 学校の教室という限定された空間の中で構築される関係は、その後の人生の長きに渡って影響を及ぼすと聞く。

 見えざるスクールカースト、静かな不文律、黙認される軽微な違反。それぞれの個性がひしめき合う一種異様とも言える限定空間の中で、萌音たちは三年という月日を費やして正しく自分の形を見つけて、ここを出て行かなければならない。

 そんな中でつい出てしまう言葉や、軽く流してしまう事柄によって失われてしまうものも確かに存在する。それを蔑ろにしてはいけないと、つまるところ神崎には、そう言われたように思った。

 萌音の内包する認識の甘さや危険性は、今後どうにかして自覚していきたい所ではある。


「水、急にして月を流さず」

「うん」


 ゆっくりと読み上げた掛け軸の右上には銀色の紙が貼られており、それはすなわち「銀賞」を表すものだった。萌音は、市立博物館の特別展示スペースに立っている。その隣には神崎が居て、同じように展示を見上げている。


「高山流水と迷ったんだけど、こっちの方が今の私には必要に思えて」


 「高山流水」は美しい自然の景色や、それを想起させる音楽を形容する言葉だけれど、大切な友を示す言葉でもある。

 美原や関口と話し込んだ場面や、鷺宮先輩や部活の後輩にかけられた言葉たちを思い、その言葉も候補に挙げた。軽率なところもある自分の悩み事に真面目に向き合ってくれる美原と関口とは良い友達になれそうな予感がしたし、部活にもこれまで以上に真摯に向き合えそうな予感がする。

 そうやって悩み抜いた結果の選択だったが間違ってはいなかったようで、今年もなんとか賞に漕ぎ着けることが出来た。


「いい言葉だ、と思う」


 それにすごくきれいだ、と照れを滲ませたような口調で神崎がこぼした。ありがとうと礼を返しながらそちらに向き直る。


「これを書けたのは神崎くんのおかげ」

「……俺は特に何も」

「そうかも知れないけど、でも、神崎くんの言葉で気付けた部分が大きかったから」


 やわらかな照明を浴びた半紙はあくまでも白く、墨汁は活き活きとした艶のある黒色で紙面を縦横無尽に躍る。躍動感と静謐さが内包された……というような評がついた今回の作は、萌音も気に入っている。

 一緒に市立博物館に来て欲しい、書道部で応募した賞の展示を観に来て欲しいから。放課後の図書室でそう告げた時、神崎に動揺などは見られなかった。

 きっと関口か美原が何かしらを伝えてくれていたのだろう。神崎を展示に誘おうと思っていることを告げた時、美原などは本当に花が咲いたような笑顔になっていた。その場でジャンプまでしていたっけと、カールした髪がぴょんぴょんと嬉しげに飛び跳ねていたのを思い返す。


「将棋って、駒を指した時、一度手を離すと指し直し出来ないんだ」


 目線を萌音の作品に固定したままで神崎が口を開く。


「言葉も同じかなって思ってて。口から出た言葉は二度と元には戻らない、消すこともできない。だから、それが誰に対してどんな意味を持つか、後の盤面でどんな影響を及ぼすか、とかそういうの、いつも考える」


 神崎が考え考え話す声を耳で受け止めながら、萌音は自分が今回の神崎の言葉に深く思い悩んでしまった理由に思い当たる。

 自分自身にだいぶ軽率な所は数多くあるけれど、芯から間違えた考えをするやつだと思われたくなかったのだ。要するに。

 墨汁はピンクじゃなくても充分に想いを含んだ表現ができるし、クラスでの立ち位置は慌てて決めなくてもいい。自分の考えは「伝わる」のではなくて「伝える」のが良いし、でもそれは、言葉にするために少しばかり時間がいるものなのだ。


「だから、僕もなんと言うか……浅はかだったと思う。僕の方こそ、ごめん」

「えっ! いや、神崎くんは何もないでしょ!」


 急に頭を下げた神崎に驚いて顔の前で忙しなく手を振ると、神崎はそれ越しに決まり悪そうな顔をした。あれほど大人びた生徒に見えていたのに、今は年相応に見える。それが駄目という話ではなくて、単純に「こんな顔もするんだ」などと好ましく思う。


「怒られた、あのあと」

「え!?」

「直斗と、美原さんから」


 ぽかんと口が開いた。本気で何のことだか分からなかったのだ。けれど神崎の口から二人の名前がでて、それでふと思い当たる。茉里奈と関口くんの声。


「言い方!」

「……そう。ごめん」

「いや、だってそれはさぁ、仕方ないって言うか」


 しどろもどろになりながら言葉を手繰り寄せる。そうだ、こうやって考えて、考えて考えて、それで相応しい言葉をきちんと探そう。そうしたらきっと、ちゃんと伝わる。


「わ、私たちまだ高校生だよ? 完璧に出来るわけないよ、これからだよ、きっと。ね?」


 神崎はしばらく下を向いて何かを考えていたものの、またすぐに顔を上げた。


「そういうの、よく祖父にも言われた。伸び代があるんだからって」


 そふ、を口語で言う人はじめて見た。とは口にしないものの、それで何だかとても面白くなってしまって「ねぇ」と気安く呼びかける。

 伸びしろ、なかなか良い言葉かも知れないな。不確かな場所に立つ萌音にもきちんとこれから伸びる場所が用意されているのだと考えたら、きっとその分だけ伸びて行ける気がする。

 枝を伸ばし葉を増やして、日を浴び月を眺めて、食べて寝て悩んで笑って、そうやってこれから、今からぐんぐんと伸びて行こう。私たちにはそのための場所が用意されている。


「ねぇ神崎くん、またどこか誘ってもいいかな」

「え? あぁ、うん」

「神崎くんが誘ってくれてもいいんだよ?」

「はぁ、まぁ、何か、あれば」

「たまにラインしてもいい?」

「えぇ? ……いい、けど」

「あとさ、」

「……まだ何か」

「私も、陣って呼んでもいいかな」


 萌音はあらためて神崎の横顔を見つめる。朱墨汁もかくや、といった風情に染まった耳を見る。やっぱり艶のある黒髪を見る。自分より少し高い背丈で、大事なことをきちんと言える、素敵な男の子の横顔を見る。あ、ニキビ治ったんだ。


「……ちょっと、見過ぎなんだけど」

「あ、ごめん」


 いいけど、別に。そう答えて踵を返す神崎の、その言葉は萌音の問いに対するものなのか。続きを聞きたくて、萌音も大きく一歩を踏み出した。





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