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翌朝、駅から学校までの商店街を消沈して歩いていた。あまりよく眠れなかったし、なんだか夢見も良くなかった気がする。朝日が眩しくて涙が出そうになる。神崎のたった一言に、自分がこんなにもショックを受けているのが不思議だった。無防備だったせいもあるかも知れないけれど、浮かれていた分、落差が大きかったのかも知れない。
「
的外れな指摘と言えなくもない言葉を、どうしてか昨夜からずっと頭の中で反芻している。なぜ、という言葉が脳内をぐるぐると回り続けては眠りを妨げた。神崎は萌音に何を伝えたくてそんな言葉を。
その朝何度目かのため息を吐いた時、後ろから声をかけられた。
「野宮さん! 昨日、途中で帰ってごめんね!」
振り返ると、そこにはギャルとチャラ男がいた。そうとしか言いようのない姿の二人組は、美原茉里奈とその彼氏だ。名前は確か、
関口直人と美原茉里奈の組み合わせは、少女漫画かテレビドラマから抜け出してきたように鮮やかだ。それに比べて自分はどうだろうか、などと比べても仕方のない思考に行きついてしまうほど、今日の萌音は見事にネガティブだった。
鮮やかな二人がギョッとした顔をしたので、萌音の表情はよっぽど苦しげであったらしい。美原の眉が八の字を作る。隣で関口も、身を屈めて心配そうに覗き込む。
「うわぁ、どうしたのその顔!」
「み、美原さん……」
「茉里奈、でいいよ」
「うう、茉里奈ちゃん……」
「まだ時間あるし、公園でも寄ろっか。ね? うち、話聞くし!」
優しげな二人の雰囲気にすっかり絆された萌音は、肩を落としたまま通学路にある公園へと足を踏み入れた。同じ高校に通う生徒の姿がぼちぼち見える他は、犬の散歩やご老人の井戸端会議など、平和そのものに見える。
噴水広場とは名ばかりの、今は水が抜かれてコンクリで蓋をされた、円形の舞台のようになった噴水跡を見るともなしに見ながら、並んでベンチに腰掛ける。偶に、演劇部やコーラス部なんかが擬似舞台として使っているのを見かけたことがある。
隣に座った美原と、少し離れたベンチで足をぶらぶらさせている関口に、昨日の顛末(と言っても些細な一幕だ)を話して聞かせた。言葉にするほどに現実味が増すようで気持ちが次第に深く落ち込んでいく。
話し終えると自然と目線は足元に落ちていた。茶色く光る二対のローファーが、広場のタイルの上に並んでいる。
考え込んでしまった美原茉里奈とは対照的に、空気を動かしたのは関口のほうだった。大きく伸びをして頭を掻く。
「あー、そりゃ陣には地雷だったかも」
「地雷?」
そ。と短く答えてから右上に目線をやる。テレビでやっていた脳科学か何かの番組で、人間は何かを考える時に自然と右上を見てしまうのだと言っていたのを思い出す。そう言えば「茶髪の幼馴染」ってこの人のことだな。ちょうど先月聞いた誰かの話に思い当たった。
「陣はさ、ちょっとイジメに近い状態のことがあったんだよ、昔」
「中学の頃の」
美原が応えるのに「それ」とまたしても短い返答をする。
中学生の頃の神崎は今と同じように将棋が好きで、大人しい生徒だった。祖父に懐いていたせいか年代が上の層と話が合い、教師などにも受けが良かったという。それを快く思わなかったクラスメートの輩が神崎を揶揄うようになり、関口などは一時期はハラハラしながら見守った経緯がある。
つまりは、そういった経緯があって神崎 陣は他人の悪口だとか悪意だとか、そういう類のものに少々敏感なタイプなのだという。
だから恐らく、萌音の話がそちら方面にシフトしたのを察知して、会話を区切ったのだった。
萌音はもう一度溜息を吐く。神崎のやり方に少々乱暴な気配は感じたにせよ、どちらかと言えば萌音の方に落ち度があったように思う。けれど、これをただ謝って手打ちにするのも座りが悪い気がする。
「これさぁ、どっちが悪いって事でもないと思うよ? だって、野宮さんに悪意があったわけでもないもん」
「それな」
「陣も言い方が、ね」
「それな」
美原と関口が代わる代わるフォローしようとしてくれているのが判って、萌音は少し胸の中がしゅんとする。
思い起こせば昨日から美原のことを「ギャル」だとか、関口のことを「チャラ男」だのと、自分は少しばかり斜に構え過ぎかも知れない。先月の一件があったから、気を張っていたのかもわからない。そしてその感情は、昨日の神崎に通じるものがあるのではないだろうか。境遇のせいとは言え頑なになってしまって、視界が塞がりがちになることは、きっと誰にでも等しく起こり得る。
「……なんか、私、わかったかも」
落ち着こう。一旦、視界をクリアにしたい。自分の心の奥にある気持ちは何なのか。それを捉えないと、きっとまた神崎と向き合うことも出来ないだろう。
「二人ともありがとう。すこし頑張ってみる!」
「そっか。うちらも応援してるよ」
「ありがとう! 茉里奈ちゃん、大好き!」
二人に礼を言いながら立ち上がってスカートの尻をはたく。それから学校への道を急いだ。予鈴が近い。駆け上った階段の先、共用廊下のざわめきの何処かにいる神崎と、今度こそ自分の本当の言葉で話をしなければならない。
高校の部活の書道には、世間でいう書道パフォーマンスというものがあって、畳何畳分にもなる大きな紙に人の頭ほどもある巨大な筆を用いて、音楽を流して複数人でダンスしながら書を完成させるというものだ。
書道パフォーマンスの大会なども開催されており、いかにも青春っぽいそれに萌音はほんのりと憧れていたけれど、残念ながら萌音の所属する小鳥遊学園高校の部活動ではそれに参加をしていない。
自己研鑽を主とし、年に数回ある検定を受けたり、賞への応募をするに留まる。顧問の頭が固いのだ。それが悪いということではない。悪くはない。けれど、いささか青春っぽさに欠けるように思えてしまうこともある。
そんな中でも、丹羽賞は比較的派手な部類の活動に入るものだった。
「野宮ちゃん、何を書くか決まったの?」
声をかけてきたのは部長の鷺宮先輩だった。鷺、という文字から連想させる通り、すっと伸びた背筋で筆を持つ姿がとても様になる人で、後輩部員はみんな憧れを持っている。萌音も例外ではない。
「あの、まだ、はっきりとは」
「という事は、書きたい方向性は見えたんだね」
方向性が見えたと言い切るには、ぼんやりし過ぎていて気が引ける。そうか、でも部長ならば。萌音はすうっと息を吸い込むと部長の目をまっすぐ見つめた。
「あのっ、鷺宮先輩。私、あてはまる言葉がよく分からないんですけど、先輩、こういうのって心当たりないですか?」
最近ちょっと気になる人が居て、あ、気になるっていうのは、なんか、そういうアレじゃなくって、その人の物事に動じないと言うか、流されないと言うか、足元がちゃんとしてるような所が私としては羨ましくって。
萌音が話し始めると、最初はきょとんとした顔で聞いていた鷺宮部長の表情が、柔らかくなっていくのを感じた。
ひとしきり話し終えると先輩は何度か頷いてから、一冊の本を手渡してくれた。分厚い装丁の持ち重りのするその本は、様々な先人たちの書がモノクロ写真になって所狭しと並べられている。
「例えばこれはね、」
萌音の望む言葉に似通うものを、先輩はひとつひとつ丁寧に、時間をかけていくつも紹介してくれた。ここまで把握するのに、鷺宮先輩はいったい何度この本を開いたのだろうか。例えばそれを先輩に聞いたとして、同じように何度も本を開いて書かれている言葉を書き写したとして、私もなれるのだろうか、こんな風に。
萌音には、自分が何者かになりたいと願うと同時に、何者にもならないだろうという否定的な感情も存在する。今の段階では肯定も否定も無いはずなのに、こんな自分では駄目だろうと、挑戦する前から挫けてしまう気持ちがある。
それでも、それと同じくらい強い力で、何者かになりたいと願う気持ちは確かに存在するのだ。
私は何処へ行けるのだろうか。これから先の未来は自分の力量に応じた分しか掴み取れないのだとしたら、この数日に確かに揺さぶられた心は、ほんの少しでも可能性を広げる推進力くらいにはならないだろうか。
その日の放課後遅く、書道部の部室には、畳に正座してただ静かに墨を
色濃く立ち昇る墨の香りを吸い込みながら、萌音は気の遠くなるような長い時間を半紙の前で過ごした。
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