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 萌音が思い返すところの「あの狂乱の日々」とは、萌音の十七年目に突入する人生に於いて、いまのところダントツに、著しく身を削る思いにつまされる日々だった。季節は春。新しい学年にあがった高揚感と、受験が近づいているプレッシャー、高校生活に輝かしい思い出を残したいという焦燥感。どれもがリアルな質感で押し寄せていた。

 一学年で同じクラスだったメンバーではあまり仲の良い子はいなかった。早めにどこかのグループに所属したい。できればヒエラルキー的に中くらいがいい。上すぎてもおそらく発生するマウント合戦に耐えられないし、下すぎるグループは得てしてマイペースな人が多い。

 高校生ならではの楽しい思い出も欲張りたい萌音としては、マイペースが過ぎるのもちょっと困る。ちょうど良いのは中堅どころのグループ。ほどほどに優しくて、適度に結束力のあるグループに、早いところ所属してしまいたい。始業式からの数日はそんな事ばかりを考えていた。

 そうしたら困ったことになった。

 クラス替え直後に行われた親睦会を兼ねたハイキングでは、名前の順で組まされたグループで行動をしていた。派手でも地味でもないメンバーを見渡して、そこで早めに仲の良い友達とやらを確保してしまおうという気持ちは確かにあったのだが、時期尚早だったと今なら判断できる。もしかしたら、終わりかけの桜が散らす花びらの洪水に、柄にもなくロマンチックな気持ちになっていたのかも知れない。


 最初に神崎の存在に気が付いたのも、もちろん図書室でのことだった。窓際の席に座る男子生徒がいつも同じ人物で、だいたいいつも同じ本を開いている。図書室のバーコードが貼られていないのできっと自前の本だろう。飽きもせず熱心に、いったい何の本を開いているのか。

 どういう加減なのか、窓際の彼を見かける度いつでも、窓からの光源がちょうど逆光になり、本の表紙に書かれた文字を読むことができなかった。今日もだめ、また今日も。そんなふうにして目で追う内、彼の横顔がまるで墨で描かれた書画のように見えてしまった。美しく連なる鼻や唇が形造る端正な陰影。色白な肌に影を落とすまつ毛は長い。本当に、筆でなぞったみたい。

 彼の周りはいつでも空気が独特の手触りをしていた。側に寄ってそれを確かめたいという思いに反して、私物の本を読む彼がカウンターへ来る事はない。近くから見たらただの男子生徒かも知れない彼は、萌音にとって高嶺の花へと静かに変化していった。

 そうなるともう意識せずには居られない。一枚の絵の中にいる彼から、目が離せなくなったのだった。

 それで、ふわふわした桜の花びらにつられるように、こう口を滑らせた。


 ———図書室に来る男の子で気になる子がいる。


 図書委員であるという自己紹介からの流れで、ちょっとしたネタのつもりでもあったけれど、披露した話はあっという間に独り歩きしてしまった。親しみを持ってもらうためにちょっと解放してみただけの話題は、いつの間にか「愛しの彼」に「恋焦がれる片想い」として祭り上げられてしまう。そこまでじゃないからと否定を重ねれば重ねるほど、周囲は盛り上がるものである。即席のライングループにも次々とスタンプが貼られていく。

「ときめき……」

「きゅん!」

「そこまでではナイよ~」

「照れてる! カワイイ!」

「かわよ」

「きゅん!」

 萌音の言葉は高速で流されてアッという間に遡れなくなった。そのあとは何を言っても後の祭りというもので、萌音と「愛しの彼」の話題は集団の中でも定番のネタとして扱われていく。

 可愛らしく笑いさざめきながら、萌音の淡い恋を「イベント」として消費していく彼女たちの姿が、夕方のニュースか何かで取り上げられていた桜の花のつぼみをむさぼり食べる緑色の大きな鳥、ワカケホンセイインコと重ならなかったと言えば嘘になる。

 けれどそれを非難する程の正当性を持ち合わせてもいなかった。こんな話題でさえも、自分がメインとして扱われることへの心地良さが少しでもなかったと言えば嘘になる。書道部というあまり派手さのない部活と、加えて図書委員という大人しい女子の代名詞にも言える集団にしか属せない自分。それが脚光を浴びるとしたら、ここが唯一なのではないか。

 そんな思いに囚われてしまった結果、その時はまだ、自分だけがその暴風にも似たさざめきに耐えれば良いのだと思っていた所もある。これが後に誰と誰を巻き込んで、誰が心を砕く結果になるとか、そんな事は一ミリも考えられずにいた。


 彼女たちは萌音が当番でなくとも、放課後の図書室に押しかけては代わる代わる彼の姿を覗き込んだ。


「確かに、ちょっと可愛いね」

「でも少し背が低くない?」


 そんな好き勝手を言いながら、ある時は細く開けた扉の隙間から、またある時は書棚の影から。彼の姿と、赤くなったり青くなったりする萌音の姿を冷やかした。

 昨年同じクラスだったという女子から彼の現在のクラスと名前を教えられ、部活は将棋部であるとか、将棋部は主力だった三年生が卒業した今や幽霊部員しかいないため主な活動はネット将棋になり、彼は図書室で詰将棋の本を開いているのだとか、特に付き合っている相手は今のところいなさそうだの、仲の良い友達は茶髪で軽そうだが実は幼馴染なのだとか。おかげで彼が広げている本の内容は分かったものの、その時点で既に、とにかくかなりの情報過多になっていた。

 構築しかけた人間関係の暴走ほど、止めにくいものもない。それを身をもって知ることになった春だった。

 女子生徒が肘をつつき合ってにまにましていると独特の空気が放出されるもので、居心地の悪さからか、対象となる男子生徒もなんとなくそれを感知するのはよくある事だ。幾度か目線がかち合い、その度に気まずく逸らしているうち、件の彼の姿は図書室に現れないようになった。完全に自分のせいだと後悔に頭までたっぷり浸かった時にはもう何もかも手遅れで、萌音はやっと浅はかな自分にも気がつく。


 連休も終わり、春先のざわめきが落ち着く頃、木々は一斉に濃い緑色の葉で空気を満たす。そして景色の様変わりと同様に、教室の中の人間関係にも変化が訪れる。

 様々な「応援」を萌音に吹き込んだあと、名前の順でグループ化したクラスメート達は嵐のように立ち去った。そうして連休が明けた今、再構築された人間関係に乗り遅れた萌音は、図書委員の肩書と共にぽつりと取り残された。おまけに丹羽賞の応募作も書けていない。


 そんな折に巡ってきた図書委員の当番の日。果たして、いつもの窓際のテーブルにあったのは彼こと隣のクラスの神崎かんざきの姿だった。

 萌音は、今度こそ慎み深く彼を見守ることに決めた。図書委員である。それ以上でもそれ以下でもない、ただの図書委員の貸出係。

 午後の日射しを受けて白っぽく反射している窓を、濃い緑色の葉が縁取っている。もしあれが半紙だったなら、いまそこに、どんな言葉を書いたら良いだろうか。ふさわしい言葉を探しあぐねたまま、萌音は墨の匂いが恋しいような気持ちになった。

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