二学年、春 あすなろ
1
窓の外から聞こえた金属音が放課後の空気を震わせる。それでも室内は乱されず、どこか張り詰めたようにすら感じるのは、ここが図書室だからかも知れない。
放課後が始まってすぐだと言うのに、オーライなのかオーエスなのか、窓の外でよく分からない掛け声をあげているのは野球部だろうか。強豪校ではないと聞くものの、やはり練習には余念がないようだ。ノルマはあるのだろうか。連帯して、連携して、そうやって勝ち抜いていくのだろう。きっと責任感が重くのしかかるに違いない。すごいなぁと思う。体育会系の部活は私にはとても務まらないだろう。
ホワイトボードとカウンターに挟まれた狭い空間の中で控え目に椅子を引いたけれど、ぎぎぃ、と不恰好な異音がしてしまった。どうしてキャスター付きの椅子じゃないのか。そんなことを思いながら辺りを見回すものの、幸いなことに眉をひそめる人は見当たらない。よかった。けれど、本当にキャスター付きの椅子については次の委員会の時にでも提案してみようかと思う。
彼も、机の上で広げられた本に視線を固定したまま動く気配がない。そっと嘆息する。乱さないでいられたことに安堵する。彼はここで静かに本を読むべきなのだ。間違ってももうあの狂乱の日々に戻るのはご免だ。頭の端に浮かんできた少し前の騒がしい空気を、ちいさくかぶりを振って追い払う。
図書委員の中でも、週に一度か二度めぐってくる貸出係の日は特別な日だ。特別に大切であると言い換えても過言ではない。
カウンターにやってきた生徒から二冊の本を受け取り、裏返した所にあるバーコードシールに機械を押し当てる。野球理論の本と、飛騨高山のガイドブックだった。ガイドブックは数年前のものだ。飛騨高山の場所を正確に思い出せない。白神山地って飛騨高山だったっけ。もしかして全然違う? それって白川郷? 頭の中で誰にともなく問う。そもそも地理は苦手だし、東海地方にはまだ旅行した経験がないのだ。彼はその辺どうなんだろうか。
図書室のカウンターに居ると、彼の姿をより多くの時間目にすることが許される。許されるというか、合法的にと言うか、後ろめたくないと言うか。……おや、今の感情はまさに「後ろめたい」なのでは。矛盾してる。そう自覚しつつ顔を上げ、「五月二十日までです」と告げながら本を渡した。金属バットって物騒な単語だなと思い、一年生っぽい男子生徒を見送り、それから窓の外へと視線を動かした。
図書室の常連、というのが初めに彼を意識したきっかけだった。たぶん、
たぶん背は萌音よりも少し高いくらいか。ある時、彼の通り過ぎた書棚の高さに目星をつけて並んで立ってみたことがある。頭のてっぺんがこのラインと同じくらいだったから……と、目に見えないラインを見上げて思い描く。目線はこのくらい、顎はこのへん、肩の高さはここになるという事か。そこに彼が立っている様を思い描こうとするけれどなかなか上手くいかず、しばらくその辺りをうろうろしてからまたカウンターに戻った。
萌音はいつも、ただただ彼の横顔を見つめていた。彼はいつでも凪いでいる。おおよそ感情を揺さぶられるという事がなさそうな、静かで、まるで水の底か絵の中にいるようだと眺めてしまうそのうちに、胸の中にぼんやりとした感情が芽生えてしまった。彼の姿を見かけるようになってからふた月と経っていない。自分が惚れっぽいという事を萌音は初めて知った。
「せーんぱい」
いくぶん控えめにボリュームの絞られた声がすぐ側でして振り返る。所存する書道部の後輩の、人懐こい女子生徒だった。名前は思い出せないながらも顔には見覚えがあって、たしか悪くない印象の子だったと思う。そう、どちらかと言えば熱心だったはず。後輩ちゃんは嬉しそうに本を差し出しながら、もうすぐですね、と言う。抑えた声に含まれる笑み。つられて萌音の口元もゆるむ。何だっけ、何の話だっけ。もうすぐあるもので、楽しそうな顔になるもの。テレビ? 配信? そんな話は部活の先輩には振らないだろうから、何だろう。萌音が必死で頭の中をフル回転させている内に後輩ちゃんはヒントを出した。大ヒントというやつだ。
「
「それ、狙って獲れる賞じゃないよ」
またまたぁ、などと軽口を叩く彼女を先輩らしく嗜めながらバーコードを読み取り本を差し戻す。それって全然楽しい話題じゃないな、すくなくとも今の私にとっては。とは言わないまでも思いつつ、けれど無事に話題に追いつけたことに安心して、そうしながら、爪に塗られた淡いピンク色に一瞬だけ目を止めた。注意深く塗られた爪のエナメルは、それを塗る姿を想像させる。後輩ちゃんが背中を丸くして一心不乱に小さな爪を凝視している所を、その薄そうな爪にピンク色のエナメルを注意深く塗っている姿を。
「五月二十日までね」
「
口にした日付にふと思い当たる。言われてみれば応募締切日だ。
昨年、入ったばかりの書道部で、年間活動のひとつである丹羽賞に応募して、一年生の萌音は偶然にもと言うかラッキーパンチというか、奨励賞に選ばれてしまった。何の気なしに選んだ単語で「風光明媚」としたためたのが、曰く「乱雑に見えて隙がない」だの、「無鉄砲のようでいて品がある」だのと褒めているのかけなしているのか良くわからない品評と共に与えられて、目を白黒させたものだ。以来、書道部に突如現れた「期待のエース」呼ばわりされているという訳だ。
富裕層の娘でもなければカリスマ主婦の娘でもなく、これといった特技も趣味もなく、コミュニケーション能力がある訳でも、ユーモアに長けている訳でもない。身体能力や容姿が優れている事もなく、かと言ってファッション誌を読んで学ぼうという気概もない。小鳥遊学園高校という、地域では進学校に属するこの学校に滑り込めるくらいの学力はあっても、そこで沈まないように平均点以上をキープするので精一杯。
誰からもどこからも頭ひとつ抜けることすら出来ない自分はこれからどんな人生を歩むのだろうと、そう思っている時にやっとひとつだけ出来た取っ掛かりが書道だった。それも、単に「字が少しでも上手になったらいいな」とか、「社会人になってから役立つかも」くらいの軽い気持ちで始めたもので、例えば今目の前にいる後輩のように「好きな書道家」もいなければ、書いてみたい文字もない。
正直なところ、「期待のエース」は持て余し気味の称号である。だからと言って何もないよりは遥かにマシで、とは言えそれに当て嵌まる自分でいるのかといつも歯痒い気持ちを味わいながら、居心地悪く半紙の前に収まっているのだった。
後輩を見送ってから視線を戻すと、彼は窓の外に目を向けていた。邪魔にならない声量で喋り終えられた事にとりあえず満足し、席を立って背後のホワイトボードに向き直る。誰かが書いた「返却期限」の文字が消えかかっていたのでペンを探す。窓の外では、ゆっくりと、空の端が染まり始めている。
墨汁よ墨汁、どうしてあなたは真っ黒なのかしら。
黒いペンでホワイトボードに「期」と書き直しながら心の中で問う。せめて墨汁がピンク色だったなら私はもう少しでも素敵になれただろうか。そしてすぐに、「限」の最期の払いからペンを浮かせながら、さすがにピンクはないかと思い直した。
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