終章 【透過などさせるわけも無く】3
――片桐と会って話をする機会が持てたのは、俺が橘さんと会ってからちょうど一週間後の日曜日だった。その間、俺の自室ではポインセチアがその存在を誇張するかのように鮮やかな赤を輝かせ続けていた。自然、水遣りなどをしていたわけだが、そのたびに片桐を思い出す。その繰り返しに慣れた頃、今日という日が訪れた。自室の風景に馴染んだポインセチアをカゴに入れて、透明なビニールで上を閉じるようにして包んだ。
家を出る時、
「お、その植物、どうするんだ?」
と、叔父が声を掛けて来た。
「ああ、これはもともと友人のなんだ。ちょっと預かってただけなんだよ」
「そうか。消えない炎のようで好きだったんだがな」
「詩人だね」
「いやいや。気を付けてな」
外は午後の陽気が緩く流れる晴天。緊張が少し柔らいだ気がした。
待ち合わせ場所は、電車で二つ移動した駅前。そこから少し歩いたところに新しく出来た、ファミリーレストランに行くことになった。紅茶や緑茶などの味が結構しっかりしていて好きだからいつか怜君と行きたいなと思っていたんだと、六日前の月曜日、電話で片桐がそう言って教えてくれた。
駅前に着くと、もう片桐が来ていた。長い黒髪を下ろし、自分のつま先を見るようにして柱に寄り掛かっている。近付くと片桐もこちらに気付いたようで、パッと顔を上げた。その表情は形容し難く、明るいとも暗いとも付かない。複雑に抱え込んだものがそのまま顔に表れている、そんな感じだった。
「久しぶりだね」
「そうだな」
「あれ、それ……」
「ああ、預かって来た、橘さんから」
そこで会話は途切れる。昼間の喧騒の中に立っているというのに、ここだけが切り取られたかのように静かだった。
「じゃ、行くか」
「うん」
「昼飯、食べた?」
「まだ」
「そのレストラン、良く行くの?」
「今日で三回目」
「こっちの方まで来るんだな」
「紅茶がおいしいって本で読んだんだ、それで来てる」
――正直に言おう、非常に気まずい。
まず、空気が重い。次に、声が重い。そして、足取りが重い。今、この空気をステンドグラスを打ち割るかの如く美しく、そして派手に打ち破る方法があるならば是非とも教えて頂きたい。誰とも無しに俺はそう思ってしまったほど、現状はとても強い重力を覚える。
二人で淡々とした会話を少しばかりする内、目的のレストランが見えて来た。赤煉瓦仕立てで欧風の建物。本当にファミレスなのかと片桐に尋ねてみると、ホントにファミレスです、と少し笑った片桐が見られた。
まだ出来たばかりだし人気のお店だから予約しておいたという片桐のおかげで、俺達はすぐにボックス席に座ることが出来た。店内の奥、端の席。昼時ということもあるのか賑わってはいたが、落ち着いて話が出来そうな席だった。
本日のランチメニューというものが三種類あったが、偶然にも俺と片桐は同じ物を選択した。そしてドリンクバーを二つ頼むと、互いに手持ち無沙汰となってしまい、またもや重い沈黙が流れ始める。
やがて、片桐はデザートメニューを真剣に見始めてしまった。俺はといえば、ふと隣に視線を移すと、レースのカーテン越しに降りて来る日光を受け止めているポインセチアが目に入る。片桐は、これを橘さんの家にまで持って行ってくれていた。その赤が、小さく炎を灯した。そんな気がした。
「あのさ、ここ最近、橘さんのところに行ってたんだって?」
意を決して切り出した俺の言葉に反応し、片桐はメニューを静かに閉じた。
「実は先週の日曜日、橘さんに会って来たんだ。こっちに戻ってたんだね」
「……うん」
「ごめん。色々、気が付かなくて」
「え?」
そこで初めて片桐は顔を上げた。そこには疑問の色を濃く宿した表情があった。
「進路のこと。家のこと。片桐が悩んでいたこと。相談に乗れなくて、ごめん」
「えっ……」
疑問と困惑と動揺。それらが入り混じった表情が生まれる。何かを言おうとしたのか微かに開かれた片桐の唇が、何も言わないまま元のように閉じられる。
「自分のことを追い掛けてばかりで、ごめん。大学に進学して、環境が変わって、それが凄く面白くてさ。確かに今までより忙しくなったし、勉強しないとならないことも増えた。でも、だからって片桐のことを気遣えなかった理由にはならない」
「あ、あの」
遠慮がちに紡がれた少しの言葉が、俺の意識を引っ張る。
「そんなこと、無いよ。怜君は、悩んでいることがあったら話してって言ってくれたし、それで話さなかったのは私だし。その、うまく言えないんだけど、これは私のことだから私一人で何とかしなくちゃって思ったっていうか」
「でも、橘さんには」
「あれは違うの」
「違う?」
そこまで話した時、料理が運ばれて来た。
熱いのでお気を付け下さい、と置かれた二つのシーフードグラタンと二つのサラダ。グラタンは、まだチーズが踊っていてジュウジュウと音を立てていた。
「とりあえず、食べるか」
「うん。あ、飲み物持って来るよ。何が良い?」
「悪いな。じゃ、お茶の冷たい方」
「分かった」
片桐が戻って来るまで待とうと、俺は持っていたスプーンを置いた。その時、俺は自分の心臓の音がいつもより良く聞こえることに気が付いた。緊張しているのだろうか。
「お待たせ」
「サンキュ」
片桐が席に着くのを待って食べ始めると、待っててくれたんだ、と片桐がお礼を言う。それに返事をして、俺はさっきの話の続きが気になりつつ、三分の一程、グラタンを食べてサラダを少し食べた。そして、さっきの続きだけど、と言って片桐の言葉を待った。
「あ、えっと。もしかしたら怜君に相談しないのに芳久に相談したって思ってるかもしれないんだけどね」
片桐は一度、言葉を切って続けた。
「芳久に相談したわけじゃないの」
「え? でも、橘さんは片桐が短大に行くことを知ってたし、家のことで悩んでいることだって知ってたし」
「それは、芳久がこっちに戻って来たってことでメールが来て、メールの時とか、芳久の家に行ったりしていた時に聞かれたから答えたというか……。さっきも話したけど、私は自分の力で何とかしないといけないと思ったから。相談っていうのは解決する為のものでしょ。解決は自分でしないとならない、だから私は誰にも相談してないよ。その、芳久には話したのに怜君に話してないっていうのは申し訳無かったけど……」
「ちょっと混乱して来た……ような?」
とりあえず、グラタンを食べてみる。チーズに焦げ目が付いていておいしい。いや、今、考えることはそうでは無くてだな。
「えーと。自分で解決しないとならないことっていうのは、進路? 家のこと?」
「両方かな。でも、もう短大に行くことは決めたし決まったから、残っているのは家かな」
「少しだけ、橘さんから聞いたんだけど。あんまり家、折り合いが良くないって。あ、橘さんは片桐のいないところで勝手に話して良いとは思ってなかったんだけどさ」
「うん、平気。怜君だし。聞いた通り、折り合いは非常に良くないです」
非常に、を強調して片桐は言った。
「でも、もうそれは仕方無いと思う。極論で言えば、世界中の誰もから好かれることは不可能でしょ? そういうことなんだって割り切ることにした。そうしないと無理だから」
「それで……橘さんのところに?」
「そう。月並みな言い方だけど、どうしても耐え切れなくなって……ごめんね」
「え?」
「怜君と付き合ってるのに、無神経なことして。何もしてないよ、キスとか」
その言葉に俺は、危うく飲み掛けていた烏龍茶を吹き出すところだった。
「だ、大丈夫?」
「ああ」
「えと……その、ホントうまく言えないんだけど、怜君は何も悪くないよ。ただ、私が話さなかっただけだから」
そこで一度、会話は区切りを迎えた。
しばらくの間、俺達は陽の光がゆったりと降るその席でグラタンとサラダを食べ、二回程、片桐はドリンクバーに立った。そのたび、俺の分も持って来てくれた。
食事を終えた俺達がセイロンのアイスティーを味わっている時、不意に片桐は思いも寄らないことを口にした。
「私達、別れない?」
と。
まるで日常の些細な会話の如く、ごく自然に。さらりと吹き抜けて行く風のように。
「……何で?」
情けないと言われようと、そう口にすることがその時の俺の精一杯だった。平静を装い、そう尋ねることだけが。
「このままだと、同じことになるような気がするんだ。私は芳久に寄り掛かって過ごしてた。付き合っている時も、別れてからも。そして、今も。もう、それは終わりにするけれど」
一拍置いて、片桐は続けた。
「私は怜君が好き。でも、私は自分のことは自分で解決して行きたいの。今はまだ出来なくても、そう出来るようにしたいの。だから本当は就職して自立する準備を始めたかったんだけど……」
「いや、その考えは凄く偉いと思うよ。だからって俺達が別れる必要は」
「でも、このままだと多分、怜君は私のこと面倒だなって思うようになるよ」
「ならない!」
思わず、少し大きな声になってしまった。
「あ、ごめん」
「ううん」
間を置き、先に片桐が口を開いた。
「凄く、嬉しい。でも、私はもう頼ることをやめたいの。依存することをしたくないの。もう高校生も終わり、いつまでも子供じゃいられないから。ちゃんと、自分で」
考えながら話しているような、そんな印象を受けた。 だからなのか、そこには強い意志が込められているようで、それを引っ繰り返すことは最早出来ないような気がしてならなかった。それでも。
「でも、俺は片桐が……綾が好きなんだ。力になりたい。そんなに自分を追い詰めなくて良いと思う。頼ることは悪いことじゃないんだ。俺が今の綾に出来ることって少ないかもしれないけど、それでも力になりたいんだ」
率直な、正直な想いだった。ここで片桐を――綾を離してしまえば、もう二度と出会えないような、そんな焦燥すら覚えて俺は言った。
――だが、結論から言えば俺達の会話は平行の一途を辿った。綾の想いもまた同様に率直で正直で、そして真剣なものだった。話していて分かったのだが、綾は橘さんに頼って過ごしていた自分自身を悔いていた。だからこその想いだった。それが理解出来ないわけでは無い。そこから生じた自立意識が悪いわけも無い。だが、俺は別れることには納得出来なかった。
「本当にありがとう……。そこまで言ってくれて」
いや、この流れは良くない。そんなに言ってくれてありがとう、でも別れましょう、こうなることが手に取るように目に見える。どうしたら良い?
「でも」
「綾の考えは良く分かった。ここで一つ、提案がある」
綾の言葉を遮って俺は少しばかり早口に言った。何が何でもこの流れを変えたい、その一心からだった。
「一人で考えてやって行く、その期間を設けるっていうのが良いと思う」
「期間?」
「そう、期間。まさか未来永劫、誰にも頼らず頑張るってわけじゃないだろう?」
「そうだね、確かに」
「だから、期間を決めて自分を試してみれば良いんじゃないかと思ったんだけど」
「なるほどー」
いつかのように瞳がまるくなり、少し考え込む風を見せた綾。そして、言った。
「じゃあ、一年くらい」
「一年!?」
「あれ、ダメ?」
「いや、ちょっと長すぎる気が」
「でも、短大が二年間だから、せめてその半分でも自分の力でやって行けたらちょっとは自信が付くかなーと」
ね? と、同意を求められたのだが俺は頷けなかった。
しかし、既に綾の中では答えが決まってしまったらしく、じゃあそうするね、と追撃されてしまい、もうこれ以上の反論は無意味という空気がゆるりと流れてしまった。別れるということは回避出来たのだから上出来なのかもしれないが……俺は手放しでは喜べなかった。
――その日、綾は夕方を過ぎた頃、ポインセチアを持って電車に乗って帰って行った。途中まで同じ電車に乗ってはいたが、お互いに何故か口を開かなかった。しかし、それは今日に何度か感じたような重い空気の中では無く、夕日に照らされた落ち着いた空気の中でのことで、俺は苦痛では無かった。
綾は、車窓から見える橙色の景色を見たりポインセチアを見たりする合間、何処か遠慮したように俺を見上げていた。目が合うと、控え目に笑う。
やがて俺が降りる駅が近付いた時、電車の走行音に掻き消されて聞き取れないくらいの小さな声で、ありがとう、と綾が囁いた。不意に胸が締め付けられる気がした。それを誤魔化すかのように俺は綾の頭に片手を置いて撫でてみた。心の底から愛しかった。
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