終章 【透過などさせるわけも無く】2
――俺が大学二年生になる頃、つまり片桐が高校を卒業する頃。およそ一年ぶりに橘さんから一通のメールが届けられた。
橘さんからの連絡は高校卒業時のメール以来で、俺は何処となく微かに緊張を覚えながら読んだことを覚えている。緊張はすぐに強くなり、携帯電話を持つ右手に力が込められた。そこには、片桐がひどく疲弊しているということ、俺と片桐が今も付き合っているのかどうかということ、今の片桐の状態を俺が知っているのかどうかということ、大きくその三点が簡潔に綴られていた。
橘さんは大阪への出張が終わり、東京に戻って来ていた。以前、俺が訪れたことのある、あの立派な二十階建てのマンションに元の通りに住んでいるという。片桐について話したいことがあるという橘さんの申し出を受けて、俺はメールを貰った翌日の日曜日、橘さんのマンションへと向かった。春の陽光が柔らかく降る、暖かな日だった。
――橘さんはアイスコーヒーを出してくれたが、そのお礼を言うより早く、俺は片桐について橘さんが何を知っているのかを尋ねていた。今、思えば、問い詰めるような口調になっていたかもしれない。あの時の俺は何かに急かされるような焦りと苛立ちとを覚えていた。
片桐が心配だった、それは正しい。だが、それ以外にも理由はある。俺と付き合っている片桐について俺の知らないことを橘さんは知っている、片桐が俺には話さなかったことを橘さんには話している。それらから来る苛立ちと、そして疎外感があったことを、俺はその日からかなり後になって自認した。
「メール読んだけど、相模原君は綾と付き合っているんだよね?」
「そうです」
俺の詰問するような口調を受け流し、橘さんはそう問い掛けて来た。会話はここから始まった。
「綾から、何か聞いていない? 悩んでいるとか」
「……いえ」
「本当は俺の口から言うのは良くないと思う。だから綾にも今日、来るように言ったんだけど体調が悪いみたいでね」
返事が、出来なかった。
しんと静まり返った部屋全体に押し潰されるような錯覚が俺を包む。橘さんの次の言葉を俺は待った。
「綾の家庭環境について聞いたことは?」
「直接はありません。以前、橘さんからメールで少し。それだけです」
「そうか。綾の父親は数年前に亡くなっている。今は母親と綾の二人暮らしだ。詳細は省くけれど、前に伝えたように綾は母親とあまり折り合いが良くない。簡単に言えば、母親の求める子供の図が『勉強の出来る』という前提の元に成り立っているからだ。というのは、綾から聞いた話からの推測だけど」
綾から聞いた話。その言葉が深く俺に刺さった。何故だろう、ひどく喉が渇く。それでも目の前に置かれたアイスコーヒーに手を伸ばす気にはなれなかった。
「綾は高校を卒業した。聞いた限り、悪い成績じゃないと思う。けれど、綾の母親は良く思わなかった。多分、進学先も関係しているんだろう」
「進学先?」
「ああ、綾は短大に進学が決まった。本当は就職したかったらしい。そして早く家を出たかったんだと思う。でも、母親は大学に行くことを望んだ。間を取って短大に決めたらしいよ」
短大。本当は就職したかった。早く家を出たかった。橘さんの言葉がグルグルと俺の頭の中を回る。
「それは綾が心から望んだことじゃないし、綾の母親が望んだことでも無い。おそらくだけど、そこから以前以上に関係がうまく行かなくなったんじゃないかなと……相模原君?」
不意に途切れた声、俺を呼ぶ声。いつの間にか俯いていた顔を上げると、橘さんと目が合った。ここに来てから初めて、俺は橘さんの顔をまともに見たような気がした。
「大丈夫? 何かおかしなこと言ったかな」
「いえ、おかしくないです。おかしくなんか」
おかしいと言うなら俺だ。俺は今まで片桐の何を見ていた? あの明るさや弾むまるい声とは裏腹に、ひどく脆いところがあると知っていたはずだ。その片桐の進む先を俺は知らなかった。片桐の高校卒業後の進路を知らなかった。片桐は話してくれなかった。いや、俺が知ろうとしなかった?
「続き、話して良いかな」
俺にコーヒーを勧めた後、そう言った橘さんの言葉に返事を返すと、橘さんはまた静かに話し始めた。
「俺がこっちに戻って来たのは今年に入ってからなんだ。綾とはほとんど連絡を取ることは無くなっていたんだけど、戻ったことは言っておこうと思ってメールした。それから、高校は卒業出来ること、短大に進むこととかを聞いた。そして、家のこと。気分転換になればと思って、翌週に喫茶店に誘った。出来れば詳しい話も聞きたかったし。しばらく話して分かったんだけど、思った通り、綾は凄く疲弊していた。それから何回か会って話をする内、綾はここに来ることが多くなったよ。相模原君と付き合う前のようにね」
俺は、ごくりと唾を飲んだ。
「綾はまた、ここで眠ることが多くなった。眠る為のこの家で。あの部屋で」
「それは、どういうことですか」
「誤解しないでほしい。言葉通りの意味だよ。綾はここで眠ることが多くなった、それだけだ」
「それだけって、だってここは橘さんの家で、橘さんがいるじゃないですか!」
思わず、語尾が強くなった。一瞬にして鋭くなった雰囲気の中、グラスに閉じ込められた氷がカランと溶ける音がする。それを合図にしたかのように橘さんは再び言葉を繋げた。
「落ち着いて。俺は相模原君と言い合いをしたいんじゃないんだ」
「それなら、どうしてあんな言い方をするんですか」
怒りを抑えて尋ねると、予想外にも橘さんは謝罪を口にした。
「悪かった。棘のある言い方をしたのは謝るよ。ごめん」
「――いえ。その、俺も怒鳴ってすみません」
「綾はここで眠るようになった。けれど本当にそれだけだ。確かにここは俺の家だけど、相模原君が心配しているようなことは何も無い」
そう言い切り、橘さんはアイスコーヒーを飲んだ。そして軽くストローでカラカラと中身を混ぜた後、ガラス製の四角いコースターの上にそれを戻す。
「立ち入ったことであることは承知で聞きたい。相模原君は綾をどう思っている?」
「どうって、好きです。だから付き合っているんです」
「そうだよね。でも俺が聞きたいのはそういうことじゃない。綾が短大に進学すること、家のことで悩んでいること、相模原君は知っていた?」
心臓が一際、大きな音を立てた。そんな、気がした。
「……いえ、知りませんでした」
「相模原君が知らないことを俺が知っている。それも些細なことじゃない、大事なことだ。綾は泣いていた。早く自立した大人になって自分の力で生活出来るようになりたいと言って。付き合っているからといって全てを話す必要は無い。けれど、泣くほどの想いをどうして綾は恋人である相模原君に話さない?」
「俺が、頼り無いからでしょうか」
「そうかもしれないし違うかもしれない。その辺を綾本人から今日、聞きたかったんだけどね。良い機会だから相模原君に話してもほしかったし」
はあ、と橘さんが溜め息を落とした。
そして、ふと思い出したかのようにポンと付け足した。
「誤解の無いよう、言っておくけど。綾は確かに相模原君が好きだよ」
「は」
唐突に告げられたその言葉に、間の抜けた一つの音が俺の口から勝手に飛び出した。
「いや、考え込んでるみたいだったから。それに、以前にも話したけど俺は綾に対して恋愛感情は持っていないから、敵視しないでくれるとありがたいんだけど」
「敵視、いえ、それは無いです」
「そう?」
「はい、本当に」
言われて気が付いたのは敵視というより、羨望。羨望というより願望。
橘さんはこの家に片桐を招き、片桐が安心して眠りに就ける環境を差し出すことが出来る。それが、俺はずっと引っ掛かっていた。俺にはそれが出来ないから。そして、ここに泊まることを良しとしない俺がいる限り、ここを失うことになるから。ガラス細工のような片桐綾という人間が。
「ま、ともかく。綾の現状はそういうことになってる。正直、相模原君と綾が今も変わらず付き合っていると聞いて俺はホッとしたんだ。変な話かもしれないけど、俺は相模原君に期待してる」
「期待?」
「そう、期待。さっきも言ったけど、俺は綾に恋愛感情は持っていない。ただ、綾が安心して立っていられる場所を見付けられることを心から願ってる」
「そこまでの気持ちがあって、恋愛感情が無いんですか」
「無い。それは綾も分かっているし、綾ももう俺を恋愛対象として見ていないよ」
そうだろうか。いや、そうだとして。俺は片桐に何が出来た? それに、どうして片桐は俺に心の内を話さない? 橘さんに泣きながら話すことを何故、俺には話さないのだろうか。
――俺が、知ろうとしなかったからだろうか。俺は片桐を見ているつもりで、その実、何も見ていなかった……? そんなことは無い、そんなことは無いだろう。けれど、俺は自分の環境が変わったこと、変わって行く様に目を奪われて、隣にいたはずの片桐の心情を気遣うことが出来なかった。そう、思う。
「綾が俺を頼ったことの理由の一つは、おそらく、この家のこと。あの部屋があることだろうね」
先程、俺の脳裏をよぎったことに近い内容を、遠い響きを持つ声で橘さんは言った。それは俺に向かって言ったというより、何処か独り言のような印象があった。
「ここに来れば、安堵出来る。安心して眠ることが出来る。だから俺を頼ったんだ」
「そうなんでしょうか」
「それが全てでは無いだろうけどね。誰だって良いという考え方をする子じゃないし。俺はそれで良いんだ。むしろ、綾を少しでも助けることが出来るなら俺も助かる。綾が困っているのを知って何も出来ないのは俺も苦しい。でも、相模原君」
軽く息を吸い込み、橘さんは思い切ったように告げた。
「環境を提供出来ないからといって綾の力にならないわけじゃない。きっと綾は、ずっと相模原君に助けられて来たと思うよ。そこに自信を持って、もう一度、綾と話してみたらどうだろうか。相模原君を責めているわけじゃない。細かく聞いたわけでは無いから確実なことは言えないけれど、綾が相模原君に話すべきことを話せていないことにも問題はあると思う。すれ違っているだけだよ、二人は」
「……ありがとうございます」
自然、そう言っていた。
「お礼を言われるようなことはしてないよ。立ち入ったことを聞いて悪かったね。どうしても心配だったんだ、二人のことが。たとえ、お節介と言われても」
「そんなこと無いです。俺、綾と話をしてみます」
「良かった」
俺は未だ手を付けていなかったアイスコーヒーを飲み干して立ち上がると、
「ああ、あれ、綾に渡してくれないかな。きっともうここには必要無いだろうから」
と、橘さんはリビングの片隅に視線を動かした。
その視線の先には、春の日だまり。レースのカーテン越しに入り込む光の中、いつか見たベンジャミンと、その隣に寄り添うようにして赤いポインセチアが置かれていた。
「綾が持って来たんだ。こっちに来た時、家に置いたままだと気になるからって」
ほんの数秒、時間が止まったかのような気がした。緑の葉を大きくし、真っ赤な
「相模原君が贈ったらしいね」
二年と少し前のクリスマス。片桐の誕生日にプレゼントしたポインセチア。
「はい、カゴ」
手渡されたそれにポインセチアの鉢植えを慎重に移し、俺は橘さんにお礼を言った。
「ああ、カゴ? 返さなくても良いよ」
「いえ、それもですけど。その、色々。俺はまだ大学生で出来ることは少ないかもしれませんが、片桐を助けて行きたいと思ってます。それを伝えて、話をしてみます」
何だか、自分がひどく小さな存在に思えた。俺は自分のことに精一杯で、まだ学生で。けれど、片桐のことを少なからず分かった気になっていた。それが恥ずかしく、情けない。
だが、気付いたからには取り戻す。俺一人のことでは無いから、そううまくは事は運ばないかもしれない。けれど、ここで片桐を失うわけにはいかないのだ。もう、手を離せない。
「そう言って貰えて、俺も話をした甲斐があったよ。失礼なことを言ったかもしれないけど、すまなかった。気を付けて」
こうして、俺は橘さんの住むマンションを後にした。その手には火のように赤いポインセチアを持って。
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