第七章【流露と常盤】9

 ――卒業式、当日。二月末日。その日は良く晴れた。担任は朝のホームルームで「みんなの日頃の行いが良いからだろう」と、何処か誇らし気に言った。あまり興味は無かった。


 太陽は顔を見せていてもこちらに届けられる光は弱く、連日続いている気温の低さには変わり無かった。風が無いだけマシかもしれない。


 式は滞りなく行われた。滞りなくなどどいう表現を使うほどの重さは無いのかもしれない。たかが高校の卒業式だ。だが、高校にさして感慨も無かった俺ですら何か胸に込み上げるものがあることを否定出来なかった。


 体育館から退場する為に起立して歩き出した時、俺はさり気無く在校生の中に片桐の姿を探したが、如何せん、そんな短い時間で片桐を探し出せるはずも無く。思えば、どの辺りにいるのか聞いておけば良かったのかもしれない。でも、卒業に関する話題はしづらい雰囲気だったしな。と、一人自分を納得させ、俺は教室へと戻った。


 担任の城井は、やはりというか、お決まりの内容を長々と教壇に立って話した。しんと静まり返った教室内、城井のやや低い声だけが響く。


 やがてそれが終わった後、全員で「お世話になりました」と告げ、礼をする。語尾に付いたエクスクラメーションマークの数がやたらと多い気がして俺は少しだけ怖くなる。


 俺が鞄とコートを持って立ち上がると、


「お、もう帰るのか」


 と、響野が呼び留めた。


「ああ」


「お前、もっとこう、感傷に浸るとか無いの? もう、ここには二度と来ないんだぞ」


「二度とってことも無いだろ」


「分かってないな。高校生の俺として来るのは正真正銘、本日が最後なんですよ」


 その言い聞かせるような口調が面白くて、俺は思わず笑った。


「分かってるよ」


「ホントかよ。ま、別に良いけど。どうせ片桐さんと帰るんだろ? お幸せに」


 からかうように手をひらひらと振り、早く何処かに行けとでも言いたそうな響野に俺は一言だけ告げて、その場を後にした。


「お前といて面白かったよ」


 と。


 僅かの間の後、


「俺も! ていうか友達は今日で最後じゃないんだからな!」


 という言葉が俺の背中にぶつかった。


 それが俺には嬉しかった。






 ――俺は少しだけ浮かれていたかもしれない。高校を卒業すること自体は勿論、校内を静かに巡るように流れるパッヘルベルのカノン、熱を持った空気、何処かふわふわとした生徒達。それらが図ること無く相乗効果を生み出して行く。


 いつものように教室前にはいなかった片桐に、正門前で待ってるとメールをして。正門に辿り着くまで、酔うように耳から脳へと流し込まれるカノン、ざわめき、熱気。ああ、今日は本当に卒業式なんだと俺は実感する。


 しかし、その何処か心地好い熱も急激に一通のメールによって冷まされることになる。ブレザーのポケットで震えた携帯電話を取り出すと片桐綾という名前が目に入る。正門前だが、こんなに浮かれた空気の中では咎められることも無いだろうと、俺は堂々と携帯を開き、メールを読んだ。


 


 -----------------------------



 From:片桐綾


 

 Sub:卒業おめでとう



 Text:ごめんね、行けなかった。本当にごめんなさい。

 


 -----------------------------


 


 俺は目を疑った。それこそ、ギョッというオノマトペが相応しいだろう。いやいやいや、まさか。という、自分でも良く分からない言葉が急速に生まれて急速に消えた。この心情をどう表せば良いのだろう。


 俺は困惑する感情を抱えて正門を背に駅へと歩き出した。と同時に、メールの返事を書き始める。返信はすぐに来た。




 -----------------------------



 From:片桐綾



 Sub:今日

 


 Text:これから?でも怜君が疲れない?


 

 -----------------------------


 


 大丈夫ということを短く書いて送信すると、待ってる、という短い返信が届けられる。俺は携帯を閉じ、元通りブレザーのポケットに押し込んだ。


 片桐の家はお茶会で一度、行ったことがある。駅から下りの電車に乗って三つ目、そこから十分程、歩いたところだ。我ながら良く覚えている。


 俺は少しでも早く着けるように、ちょうど来ていた公共のバスに飛び乗る。文字通り飛び乗ってしまったらしく、ダン! という思ってもみなかった音が足元から生まれ、立っていた数人から振り返られてしまった。申し訳無い。しかし気にしていられなかった。


 今まで、短い時間だったかもしれないが片桐と一緒にいた。その俺が頭の中で警鐘を鳴らす。一秒でも早く片桐に会いたい。


 既に卒業式の余韻は全身から吹き飛ばされ、今は片桐がどうしているのかという一点に向けて全身の意識が走り出していた。


 ――駅まで迎えに行こうかというメールが届いたが、家までの道順は何となくだが覚えているし大丈夫だと断った。一回切りの道筋だったが俺の脳味噌はそれなりに記憶してくれていたらしく、ほとんど迷わず辿り着くことが出来た。庭先には、以前に来た時と同じように葉牡丹が植えられたプランターが置かれている。やはり何度見ても葉牡丹はキャベツに見える。


「あ」


 俺がインターホンを押してすぐに片桐はひょこりと顔を見せた。しかし、「あ」の一文字を発したまま何故か固まってしまっている。


「元気?」


 そう聞いてみれば、心なしか片桐の目が伏せられる。


「えと、良かったら上がる?」


「じゃ、お邪魔します」


 玄関の扉が閉まったところで、どうして今日来なかったのか、体調が悪いのかとかを尋ねようとした矢先、


「怜君」


 と、凄く静かに、だが芯の通った声で片桐は言い、不意に俺に抱き付いて来た。


 それはもう驚いた。驚いて声が出なくなるくらいに。しかし、その驚愕と困惑は瞬時に霧散する。


「怜君、卒業おめでとう」


 何処か、押し殺したような声。


「でも、悲しい……!」


 胸に刺さる、声。


「本当はこんなこと言うつもり無かった、今日だってちゃんと卒業式に行って、怜君おめでとう良かったねって、伝えるつもりだった! それでコート貰って、今までありがとうって、私を好きになってくれてありがとうって言いたかった! でも、こんなに寂しい……!」


 衣服に顔を押し付けているせいだろう、くぐもった声が静かな玄関に響く。


 やがて聞こえて来た、堪えるような小さな泣き声が俺を引き摺るように悲しみへと誘う。


 そうしたいと思うより早く、俺は片桐を抱き締めていた。ごめん、と呟いた自分の声がまるで他人のもののように遠くで聞こえた。


 ごめん。もう一度、同じ言葉を繰り返す俺。泣き止まない片桐。ごめん。三度目になるそれを言いながら、これは何に対する謝罪だろうかと、何処か別の場所にいる俺が考える。

 

 卒業してしまうこと? 片桐がここまで耐えていたことに気が付けなかったこと? それもある。だが、今、片桐の悲しみを取り除けないこと。この現実を動かせないこと。これが俺にとって一番のつらさであり、自分の無力さには怒りを覚えた。


 卒業する事実は動かせない。俺はこうして片桐を抱き締めて謝ることしか出来ない。本当に? 本当にそれしか俺に出来ることは無いのか。


「片桐。卒業したって俺達が別れるわけじゃない。それは前にも話しただろう」


 片桐の泣き声は止まらなかった。


「いつでも連絡取れるし、会える。俺が卒業したからって終わりってわけじゃない」


 そうだ、その通りだ。そこに偽りの心は無い。けれども言っている俺自身が良く分かっている。こんな言葉は気休めに過ぎないと。片桐が求めている言葉も現実も、こんなものなんかでは無いと。


「うん。私こそ、ごめんね」


 しがみ付くようにして泣いていた片桐が、不意に体を離してそう言った。


「ホント、ごめん。ちょっと、ぶわーっとなっちゃって」


 へへ、と涙を滲ませたまま緩く笑った片桐は無理をしているように見えて仕方無かった。


「無理しなくて良い」


「いやいや、無理っていうか……。しょうがないもんね、うん」


「片桐」


「平気! あっ、コート。本当に貰って良いんだよね?」


「それは良いんだけどさ」


 片桐の心情を捉え切れず、戸惑いながら俺はコートの入った紙袋を手渡した。


「あ、今で良いの?」


「ああ」


 俺からコートを受け取り、宙に広げて見せる片桐。


 コートが俺と片桐を遮り、向こうにいる片桐の表情が見えなくなる。そして俺が口を開くより早く、片桐が言葉を発した。


「私、思ったより怜君に頼ってたみたいだね。だから学校も前よりちゃんと行くようになったし、勉強も前よりちゃんとするようになった。一緒の帰り道が魔法みたいに楽しかった。大袈裟なんかじゃないよ。本当に、楽しかった」


「まさか、学校にもう行かないとか……」


「それは無い!」


 バッと急にコートを下げて、そう言った片桐の顔は思いの他、笑顔だった。


「せっかく怜君が勉強教えてくれたりしたのに無駄にしちゃったら申し訳無いもんね。頑張りますよ」


「そ、そうか。それは良かった」


「うん。でも、でも時々へこたれたら、怜君が私を励ましてくれたら嬉しいな」


「まかせとけ。ていうか、何かこれで終わりみたいな雰囲気流してるけど違うんだからな? これからだって遊びに行ったり出来るんだからな。春になるし、片桐の好きなアイスクリーム食べに行くとか」


「それは良いね! チョコミントが大好き!」






 片桐の部屋で、少しの間、俺達は他愛無い話をした。アイスクリームでどの味が好きかから始まり、シャーベットや、他に甘いものだと何が好きかとか。本当に他愛無い話だ。だが、俺はもう知っていた。こういう話が、こういう時間が、どれほどに大切なのかを。それは片桐から教えた貰ったことの一つだった。


「コート、ありがと。大切に着ますね」


「って言っても、もうあまり機会が無いだろうけどな」


「今年の冬があるし」


「ああ、そうだな」


 弱い陽光が降り注ぐ中、駅までの道を二人で歩いた。どちらからともなく繋いだ手がどうしてか心強かった。


 ――電車に乗り、扉が閉まった時。いつものように、ひらりと蝶が舞うように片桐が片手を振った。それに俺も手を上げて応えた。


 走り出した電車のせいで、片桐の姿が遠ざかり、小さくなり、やがて見えなくなった。

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