第七章【流露と常盤】8

 高校の卒業式を三日後に控えた今日。放課後、俺はいつものように教室の後ろ扉を開ける。そこに既に立っていた片桐は、手に一冊の本を持っていた。


「やっほー。ちょっと時間あったら図書室に寄ってから帰りたいんだけど良いかな?」


「ああ、良いよ。返すの?」


「そうそう。今日までなのです、期日」


 てってって、と心なしか少しばかり早足で僅かに前を歩く片桐の肩より下で、遊ぶように黒髪がゆらゆら揺れていた。


 俺はそれを見るとは無しに視界に入れながら、何の本を借りたのか尋ねてみると、音楽辞典と言葉が返って来る。


「何となく借りてみたんだけど、意外な面白さがあったよ。デクレッシェンドはだんだん弱くとか、レガートはなめらかにとか、そういうことが延々書かれているだけなんだけど」


 プレガンド、祈るように。アウスハルテン、音を十分に長く保持して。トロイメント、夢みるように。ノンシャラン、何気無く。リトミコ、リズミカルに。テンペストーサメンテ、嵐のように。シャンテ、歌うように。ペルデンド、だんだん遅くしながらだんだん弱く、消えるように。ディミヌエンド、だんだん弱く。キアラメンテ、明るく、はっきりと。


 少し前を歩く片桐は、パラパラとページをりながら淡々と言った。俺の耳に聞き慣れないそれらはまるで何かの呪文のようにも聞こえ、あまり人のいない廊下に静かに響いた。


「ね、知ってるのあった?」


 図書室前、不意に振り向いた片桐が本を片手にそう尋ねる。


「デクレッシェンドとレガートとディミヌエンドだけだな」


「おお、凄い! 私は一つとして知らなかったよ」


「音楽の授業で習わなかったか?」


「ハテナ」


 片桐に続いて図書室への扉をくぐると、そこは別世界のようにしんと静まり返っている。窓側は注ぐ夕焼け色を受けて赤い琥珀のように染まり、何処か荘厳な雰囲気をかもし出していた。


「誰もいないね」


「そうだな」


「本、どうしようかなー。今日までだし、カウンターに置いておけば良いかなあ」


 入口近くのカウンターに身を乗り出すようにして寄り掛かりながら、俺の方を向いて片桐が言った。


「何か一言、書いておいたら? その辺りにメモ用紙とかあるだろ」


「うん、ある。書いて置いて行こっと。えーと、音楽辞典を返しに来ました。二年三組、片桐綾」


 片桐は声に出して言い、本の上にメモを置いた後、何か載せるもの載せるもの……と、やはり声に出してきょろきょろと辺りを見回している。その様子が小動物のようで思わず俺は笑ってしまった。


「むっ、何ですか。急に笑って」


「いや、ごめん。ハムスターか何かみたいでちょっと面白かったからさ。上に置くならあれで良いんじゃないの」


 と、カウンター奥にあるガラスかアクリルのペーパーウェイトを俺が指差すと、


「あ、ホントだ。あれにしよう」


 と、片桐は先程よりも遥かに身を乗り出してそれを手にしようとした。普通に裏から回ってカウンター内に入った方が良いと思う。そう思い、危ないから、と俺は言い掛けて片桐に近付いた時、危惧通りに片桐は体を支えていた左手を滑らせ重心を崩した。


 静まり返っていた図書室内に、鞄が床に落ちる音と人間が倒れる音がして、ゴンという鈍い音が一つした。


「……ごめんなさい」


「いや、大丈夫か?」


 俺と片桐は倒れ込んでしまったが、間一髪、俺は片桐を支えることは出来た。


 立ち上がり、更に謝った片桐は、


「痛い。おでこ打った」


 と、自分の額を押さえている。


 その言葉で、俺はさっきの鈍い音の正体を知る。どれ、と片桐の手をどかして見てみたところ、少し赤くなってはいたが血は出ていなくてホッとした。


「少し赤くなってる。冷やすか?」


「ううん、大丈夫。でも、超痛かった。ダメだね、面倒がっては」


 ごめんね、と三度目になる言葉を唇に乗せて片桐は苦笑いを見せた。


 ――ふと、片桐と目が合う。気が付けば距離が近かった。片桐もそれに気付いたのか、少し戸惑った様子で俺のすぐ目の前に立っている。


「あ、えっと。大丈夫だから」


 それは暗に、離れてほしいという意思表示だったのかもしれない。だが、俺はその思考に至るより遥かに早く片桐の唇に自分のそれを重ねていた。


 時間にすれば、ほんの数秒だったのかもしれない。けれども、まるで時が凍り付いたかのような錯覚を知らず覚えていた。


 何かに引き戻されるかのように唇を離した時、やはり凍り付いたように身動きしない、目を閉じた片桐が視界いっぱいに広がり、今度は俺が戸惑いを感じる番だった。いや、片桐も同じだろうか。


 そしてまた、今のこの瞬間も溶けない氷のように感じられた。やがて片桐が両目を開けて見せた時、ああ、時間は止まってなどいないのだと。そんな至極当たり前のことを心の遠くの方で俺は思った。


 黙ったままの片桐に耐えかねて俺は、何か言葉を発したい、そう思ったのだが、こんな時に限って何も浮かんで来ない。俺のボキャブラリーとやらは一体、何処まで飛んで行ってしまったのだろうか。


「今のって」


「あ、ああ」


 少しばかり上擦った声がひどく情けない。


「初めてのキスという!」


 そう言って片桐は静止していたかのような黒い瞳をまるくさせ、続いて片方の手で自身の黒髪を何度も何度も撫で付けて、そして俯き。やがてまた沈黙が互いの間を流れ始めた。


「あっ、あの。嬉しい」


 びっくりする勢いで唐突に顔を上げ、その勢いのまま片桐は告げた。


 俺を驚かせたことに気付いたのか、


「あ、ごめん! でも、ちゃんと伝えないとと思って。誤解されちゃったら嫌だし。あの、嬉しかったです」


 と、薄く染まった頬と共に、片桐はそう言った。


 とても。と、溶け掛けの氷のかけらのように小さな囁きを付け加えて。


 静かな図書室の窓から音も無く降り注いでいる夕焼けは先程よりもその色を暗くし、赤く染まっていた窓ガラスもそれに倣い、鮮やかさを手放していた。


「……帰ろうか」


「あ、うん」


 思ったよりも俺達の声は室内に響き、そして、どちらの声にも何処か熱があった。少なくとも俺はそう思った。


 ――その日の帰り道、もう卒業になるけど高校は楽しかった? と、珍しく片桐の方から卒業についての話を振られた。声は明るく、無理をしているようには思えなかった。以前の帰り道、喫茶店に寄り、互いの心情について向き合って話をしたことが功を奏したのかもしれない。


 けれども、見落とさないようにしようと思った。片桐は、何処か自分を偽るところがある。そう、今まで片桐を見て来て思った。それは俺に嘘をついているとか、そういうことでは無い。勝手で根拠も無い憶測だが、片桐は片桐自身すら気付かない内に偽っているような気がしたのだ。だが、そんなことは多かれ少なかれ誰にだってあることだろう。きっと、俺も。


 ただ、片桐にはちゃんと気付きたかった。無理をして笑顔でいてほしくなかった。それは単に俺のエゴなのかもしれない。いっそ、それでも構わない。勿論全てとは言わないが思っていることは話してほしいし、笑えない時は笑わなくて良いから頼ってほしい。


 思えば、とても穏やかにゆっくりと進んで来た心は少しずつ片桐を知るにつれて、そのたび、少しずつ加速して行った。それを、悪くないと思っている自分がいる。至極、不思議な感覚だった。


「楽しかったよ」


 様々な想いが自然に込められて俺はそう言った。


 しかし、多少センチメンタルになっていたのかもしれない俺のその言葉と感情を、良くも悪くも片桐はすっぱりと遠くへ放り投げてしまった。


「そう? 怜君って、いつも退屈そうでだるそうだなあって思ってたんだけど。だから高校を終えることが出来て身軽になって良かった良かった……とかが本音かな、なんて」


 思わず苦笑が洩れた。


「いや、どういう目で俺を見てるんだよ」


「あっ、悪気は無いよ。ホント、全く。ただ、飄々としてるっていうか、颯爽としてるっていうか」


「飄々と颯爽はかなり意味が違うぞ」


「そうだっけ。えっと、とにかく。卒業おめでとう!」


「うまくまとめたな。でも、ありがとう」


 心から、俺はそう言った。


 細く駆け抜けて行く二月終わりの風は冷たく、コートを着ている俺ですらかなり寒さを感じるというのに、やはり今日も片桐はコートを着ていない。買っていないと言っていたから当たり前と言えば当たり前なのだが。ただ、今までと違うのは真っ白な手袋が装備されたところだ。


 俺が手袋を見ていることに気が付いたのだろう、


「とっても好き」


 と、ふわふわした羽のような手袋を片桐は掲げて見せた。


「良かった」


「うん」


「マフラーも嫌いなんだよな?」


「そう、首が絞まるから。あ、コートに関してはコートというもの全てが嫌いなんじゃないよ、この高校指定のコートが有り得ないだけで」


 と、その「有り得ない」俺のコートに視線を向けながら片桐は言う。


「でも、寒いだろ」


「まあまあ」


 実際、かなり寒いと思う。だが片桐は割と平気そうな顔でスタスタと歩き続ける。降り止んでいたとは言え、積もるほどの雪の日も制服だけで帰り道を辿っていた。振り返れば、あれから一年以上が過ぎようとしている。


「なあ、このコートあげようか」


「えっ?」


「いや、卒業したら使わなくなるし。男女でデザイン変わらないだろ。ああ、裾が長いから駄目か?」


「裾は、詰めれば……。で、でも怜君が困るんじゃ」


「いや、高校終わったら着ないって。もう春になっちゃうけどさ、今年の秋頃からまた着られるだろうし」


「それは嬉しいけど」


 遠慮からなのか少し戸惑った様子の片桐に、


「嬉しいのか、有り得ないコートなのに」


 と、からかうように俺が言うと、すぐにポップコーンのようなポンポンとした声で返事が返って来る。


「有り得なくてもコートはコートだし、暖が取れる布には変わりないし。それに、その」


 不意に言い淀んだ片桐にどうかしたのかと尋ねると、ほんの僅かの間ののち、続きを口にした。


「怜君の、コートだし」


 冷気を抱え込んだ風に遊ばれて頼り無く揺れる黒髪を押さえ、控えめな声で片桐は、ぽつと告げる。


 一瞬、心臓が強く掴まれたような錯覚を覚えた俺は、それを誤魔化すかのように言葉を紡いだ。


「じゃあ、卒業式の日に渡すよ」


 と。


 それを受けて片桐は、うん、と小さくもハッキリと答え、頷いたのだ。


 こんな風にささやかで温度のある会話が、高校生という時間の中ではもうすぐに出来なくなるという事実、現実が音も無く、しかし確実にそこまで迫っていた。その真実に俺は少しばかりの感傷と惜別を覚えながらも、大切にしていけるものがある幸福を思った。


 別れ際、片桐はひらりと春を舞う蝶のように片方の手を振り、いつものように電車に乗り込んで行った。軽く手を挙げて見送った後、数分後にやって来た電車に、やはり俺もいつものように乗った。片桐の乗ったそれとは反対方向へと動き出す。もう、こうして「いつものように」この電車に乗ることは無いのだ。後方へと流れ去る景色に流れ行く時間を重ね、終わりを迎えようとしている高校生の時間に軽く想いを馳せつつ、俺は帰路を辿った。


 ――部屋に着いてブレザーを脱ぎ、ベッドに寝転び、何とは無しにぼんやりとしていた時。しんとした室内に明るくメールの着信音が響く。携帯電話をブレザーのポケットに入れたままにしていたことに気が付き、俺は反動を付けて立ち上がって携帯を取り出す。


「あ」


 と、思わず声が出た。


 送り主は橘さんだった。その名前を目にするのは、ひどく久しぶりのように感じる。




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 From:橘芳久

 


 Sub:卒業おめでとう


 

 Text:もうすぐ卒業式かと思って。高校卒業、おめでとう。あまり多くは話す時間が持てなかったけれど、相模原君と知り合えて良かったよ。二十歳を迎えたら酒でも飲みながら色々楽しく話せたらと思ってる。

 

 俺の方の近況としては、大阪での任期が決まりつつあり、もしかしたら年内には都内へ戻ることになるかもしれない。


 ところで、綾は元気? あんまり連絡を取らなくなったので少し気掛かりで。相模原君とうまく付き合っていることは聞きました。正直、安心してる。俺が口出しすることじゃないだろうけど、これからもよろしくと言いたい。それと、ありがとう。


 相模原君が卒業することで、綾が落ち込まないように見ていてもらえたらもっと安心出来ます。それでは、また。



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 ふと、立ったまま読んでいたことに気が付く。俺は携帯を持ったまま、もう一度ベッドに座り、寝転んだ。しばし天井を見つめた後、開いた携帯の画面を視線の先へ持って行った。


「やっぱり、意外だな……」


 素直な心情が、するりと言葉になって生まれ、消えた。


 確かに、多くを話したわけでは無い。橘さんから直接、片桐とのことを聞いた機会はたった一回しか無い。それでも思う、橘さんは片桐を好きなのではないのかと。考えすぎなのだろうか。


 メールの文面からは、恋愛感情というよりも見守るというか、大切な友人以上恋人未満の片桐をどうかよろしくといった感じが読み取れた。そこに嘘は無いだろう。ただ、どうにも気に掛かるというか、腑に落ちないというか……。


「気にすることじゃないか」


 夕食が出来てるぞ、という叔父の言葉がドアの向こう側から聞こえたのを機に俺は思考の流れを止め、パチリと携帯を閉じた。窓の外は、もうすっかり暗闇が支配していた。






 ――夕食後、風呂に入り、部屋に戻り。何となくクローゼットから制服を出してみる。ふと、片桐の言った言葉が脳裏によみがえった。あれは当たりに限り無く近いと言っても過言では無い。


 まだ少し早いが、俺は高校を終えることが出来て身軽になれて良かったと思う。その心情は否定出来ない。つまらなくはなかった。しかし楽しくもなかった。もっと言うなら、入学時に期待していたよりはずっとつまらなかった。


 だが、片桐と出会った。たった一人、その一人と出会ったことで俺の考え方や日常は少し変わった。良く、その人と出会ったことが自分の人生を変えたとか、モノクロの世界がカラフルになったとか、退屈だった毎日が薔薇色になったとか、そういうことを耳にする。本で読んだりもした。正直、俺は信じていなかった。


 今、俺に起きている変化は、そこまで劇的なものでは無いだろう。少なくとも俺の日常に薔薇色などは見当たらない。ちょっと想像してみたが、凄く似合わないし気持ち悪い。だが、モノクロがカラフルになったという表現は少し分かる気がする。俺なりに表すならば、本当は最初から世界っていうのはカラフルで、そのことに気が付かないままだっただけで。気付かせてくれたのが俺の場合は片桐綾という一人の存在だった。


 俺は片桐に何が出来るだろうか。それを俺はこれから考えて行きたい。


 制服をクローゼットに仕舞いながら、隣に掛けているコートに視線を移す。仮にも人にあげるのにクリーニングをしていないのは問題だろうかと思ったが、まだ気温の低い日が続いている。おそらく明日も着て行くだろう。明日、着終わってから考えよう。


 思考を完結させ、その日、俺はいつものように眠りに就いた。まさか卒業式当日、片桐が来ないなどとは夢にも思わずに。

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