第七章【流露と常盤】6

 ――しかし、やがて訪れた冬休み、約束の十二月二十五日の早朝には、片桐から体調を崩して出掛けることが出来ないというメールが届けられた。その日は前日よりもかなり冷え込んでいて、心配になった俺は見舞いに行くと言ったのだが、風邪を移したら悪いからと丁寧に断られた。しかし熱も高いようだし、飲み物なども買いに行けないのではと案じたのだが、薬を飲んだしすぐ治るから大丈夫の一点張りで片桐は譲らなかった。


 無理に行くのも気が引けたので、俺は部屋を暖かくしてとか水分を摂ってとか助言をしたものの、その日は片桐への心配に包まれて終わりを迎えた。


 ――片桐の誕生日の翌日、二十六日に片桐からメールが届き、せっかく約束してくれたのにごめんねと、昨日に聞いたものと同じような言葉が沢山、俺の手元に表示された。体調はどうか聞いてみると、まだあまり良くないとのことだった。でもミルクリゾットを作って食べたし治って来ているよ、と笑った顔文字付きの片桐からの一文を読んだ時、俺は僅かにホッとした反面、片桐が作ったということに微かな違和感を覚えた。家の人は誰もいないのだろうか?


 だが、その疑問を片桐に尋ねることは出来なかった。体調が悪いところに余計なことを考えさせたくなかったというのもあるし、断片的に聞いている事柄から察するに、あまり円満な家庭ではなさそうだと思っていたからだ。


 とにかく今日も寒いから冷やさないようにしてとか、無理せず横になっていてとか、やはりまたありきたりなアドバイスしか出来ない俺は、非常に焦れったい感情を持つに至った。見舞いに行こうかと昨日同様に尋ねてはみたのだが、やはりやんわりと断られてしまい、そうなると俺に出来ることは何も無い。それがとても俺を落ち着かなくさせる。何か出来ることは無いだろうかと思考し、何も無いという結論に辿り着き、落胆する。これのエンドレスリピートだった。


 ずっとメールをしているのも体に障るだろうからと終わりにした遣り取りの後、ふと窓の外へ目を向けると、冷たそうな寂しい冬景色が見えた。


 片桐は、もしかしたらたった一人でこんな景色を目に映しているのだろうか。風邪の時は、心が弱る。一人で大丈夫だろうかと、やはり俺は心配だった。せめてこの景色が片桐の好きな雪景色なら、片桐の気持ちが少しは和らいだかもしれない。俺に雪を降らせる力があったならなどとファンタジーな思考に取り付かれるほど、俺は片桐が気掛かりだった。


 ――結局、十二月の二十五日から年が明けて冬休みが終わるまで、片桐の体調が良くなることは無かった。冬休み終わり近くには大分回復はしていたみたいだったが、寒い日が続く中、無理をしてほしくなかった。それが風邪だったことが救いで、重い病気でなくて俺は安心したのだが、新学期に会った片桐は空気を無くした風船のように俺に「ごめんね」と、ぽつりと言った。






 短い冬休み明けの高校は何処か騒がしく、落ち着かない雰囲気だった。高校三年生の俺達は既に進学や就職が決まっている者もいれば、まだ決まっていない者もいる。それらが複雑に入り混じり、その熱の間を冬の冷気が走り抜けて行く。一月は、その慌ただしく緊張した空気のまま、あっと言う間に過ぎて行った。


 片桐の体調が良くなってからは、日曜日に都内に買い物に行ったり食事をしたり、お互いに楽しい時間を過ごしていた。その頃から、俺達は割と自然に手を繋いで歩くようになった。


 ただ、手袋を持っていない片桐の小さな手はいつもヒヤリと冷えていて俺はとても心配になった。なので、遅くなってしまったけれど渡せなかった誕生日プレゼントをと、二月の第一日曜日、俺は片桐に手袋を贈ることにした。


 最初はこちらが驚くくらいに遠慮していた片桐だったが、やがて照れたように小さな声で、ありがとうと言った。


「どういうのが好きなんだ?」


「もあもあしたのが好き」


「もあもあ?」


「ふさふさしたのが希望です」


 そんな会話の後、片桐が選んだのは雪のように真っ白で、うさぎのしっぽのようなまるい飾りが手の甲の側に付いたものだった。


 会計後、そのままして行きますと告げると店員はタグを切ってくれた。そのタグを何故か片桐は受け取ってチョコレート色のバッグに仕舞い、手袋を着けた。


「さっきのタグ、いるの?」


「うん」


 にこにこ、という文字を背負ったかのように笑顔の片桐は、


「プレゼントして貰った記念」


 と、付け足して俺を見上げて更に笑った。


 俺は不覚にも可愛いと思い、見とれた。が、そんな俺には気付かなかったのか、私も何かプレゼントしたいなー、と片桐は売り場をきょろきょろと見始めている。


 洋服、財布、手袋やマフラー、雑貨。幾つかの売り場を見た片桐が選んだのは写真立てだった。


「これ、好き」


「写真立てか」


「ねえ、これ二つ買って、写真入れておくっていうのはダメ?」


「良いよ。二人の写真?」


「うん」


 片桐がしている真っ白な手袋のような、何物にも染まることなど無いような白に、深い緑のつたと明るい黄緑の葉が飾られたフレーム。四隅には小さな鳩のような鳥が羽を広げて、それぞれくちばしを中央へと向けていた。


「そういえば、今は手袋取ったら?」


「確かに!」


 ハッとした様子で片桐は言い、わたわたと手袋を外してバッグに仕舞った。そして、でもちょっと着けてみたかったから、と小さな言葉を付け足した。


「あ、じゃあこれ、在庫あるか聞いて来るね。一つしか無かったらガッカリだし」


 あっという間に店員を目掛けてスタスタ歩き出した片桐は、その勢いのまますぐに戻って来て、


「二つあった!」


 と、語尾に括弧書きでルンルンとでも付いていそうな調子で俺に告げた。


 ――その後、デパートの中にあるパスタ専門店で夕食を取り、俺と片桐はそれぞれ一つずつ、同じ写真立てを手に帰路を辿った。


「私ね、どんな写真入れるかは決めてあるんだ」


「どういうの?」


「制服で撮るの」


「制服? 気に入ってるのか?」


「制服は嫌い。可愛くないし、みんながあれを着て校内をうろちょろしているのを見ると、自分を含めて量産型アンドロイドみたいな錯覚に陥るの。制服無理」


 ぴしゃりと言い放った片桐に少し驚きつつも、それならどうして制服で写真を撮るのか更に尋ねてみると、


「一枚の写真の中なら私と怜君だけだよ。制服、着てるの」


 と片桐は言い、大きく白い息を吐いた。


 そして、


「高校生の私達って、もうすぐいなくなっちゃうから」


 と、今までの片桐からは想像も付かないほど、まるで太陽のように自然な明るさを以て告げた。それは俺に言うというよりも、まるで自分に言い聞かせているような気がした。


 羽のような雪のような、買ったばかりの手袋をして片桐は暗く染まった夜の空を見上げていた。繋いだ手を離したらそのまま空に向かって飛んで行きそうなくらい、二つの目は熱心に宙を見上げている。空に何かあるのかと見ても、メレダイヤのような星が幾つか光っているだけで。


 何かを見ているのかと尋ねようとした時、急に片桐は俺へ視線を向けた。その突然さよりも、片桐の表情の方が俺に驚きを与えた。


「ありがとう」


「え?」


 唐突に言われた言葉に聞き返すと、片桐はもう一度、全く同じ言葉を繰り返した。先程と同じ、ひどく静かに咲く花のように。


「私を好きになってくれてありがとう。付き合ってくれて、ありがとう」


 言葉が、刺さる。刺さるという表現は違うのかもしれない。だが、他に思い浮かばない。ああ、この笑顔は、少し下を向いて儚く咲くスノードロップの花のようだと、俺は何処か遠い心で思った。


「お誕生日、お祝いしてくれてありがとう」


 ふと、俺の足が止まった。動かなくなった、というのが正しいのかもしれない。


「怜君?」


 そこで初めて、片桐の目がいつもの弾むようなまるさを取り戻し、スノードロップは姿を潜めた。


「どうかした? 私、変なこと言った?」


 俺が黙って首を振ると、それでも片桐は不思議に思ったままなのか、


「ちゃんと伝えておかなくちゃと思ったから。言わないと伝わらないことってあると思うし、何よりも私が怜君に話したかったから。何かダメだった?」


「いや、そんなことないよ。ありがとう」


 俺は、それだけを口にすることが精一杯だった。


 どう、言えば良いのだろう。この心情を。この感覚を。この、降り注ぐ感情を。何処か悲しみに似た喜びを。


 心配からだろうか不安からだろうか、繋いでいる片桐の手に僅かに力が込められたことが分かった。俺が歩き出すと片桐も歩き出す。だが、その目は不安感に揺れて俺を捉えたままだった。


「俺も、ありがとう」


「えっ?」


「付き合えたこと。ありがとう」


 瞬間に片桐は、今度は向日葵のように笑った。寒い冬の夜、街路灯より遥かに柔らかな光が見えた。




 


 ――時間は、ひどく早く過ぎた。既に卒業式の練習も二回目を終え、あと一回だけが終われば本番当日になるという。嘘のような早さだった。もうすぐ終わるのだ。高校生という時間の全てが。


 以前にも思ったことだが、俺は高校を卒業すること自体に特別な感慨は覚えない。俺にとって高校は勉学の場であり、次へのステップの一つに過ぎない。大学進学が決まった今となっては、より、その気持ちが強くなっている。だから、卒業を間近に控えた空気が冬の寒気に紛れて校舎を包んでも、校内を走り抜けても、それは俺にとって悲しみなどには繋がらない。いや、本当に悲しんでいる人間がいるかも疑わしい。皆、「卒業」の雰囲気に酔っているだけではないかとすら思う。


 だが、そんなことはどうでも良いことだった。今の俺が気になるのは片桐のことだ。俺は卒業し、大学へ。片桐は進級し、高校三年生へ。


 あれから片桐は、一言もそれに関する言葉を口にしない。俺に話したことで整理が付いたのかもしれないとも思う。しかし、少し不安を覚える自分自身が否定出来ない。


 俺がプレゼントした雪のような手袋をして、片桐は笑う。そこに偽りなど感じない。ただ、無理をしているのではないだろうかと、細い棘のような危惧が俺の胸を刺す。


 何でも話してほしいと片桐には言ったくせに、俺はその危惧を杞憂とすり替えて片桐に尋ねることはしなかった。尋ねられなかったのかもしれないし、違うかもしれない。


 もしも片桐の気持ちが固まっていたとしたら、俺が言うことで乱してしまったら嫌だから? 口にしたところで迫る現実は変わらないから? そもそも卒業など、そんなに重視するほどの出来事では無いから?


 どれも当て嵌まるようで、どれも当て嵌まらないような気がした。


 手袋をしなければ俺の指先を氷のように冷やして行く二月の寒気が脳味噌まで侵蝕し、思考能力を鈍らせているのかもしれない。俺は、そう思うことにした。


 数日前に届いた橘さんからのメールを再び眺めていた俺は振り切るように携帯電話を閉じ、家の扉を開けた。パチリという音とガチャリという音が乾いた空気のせいか、いやに強く耳に響いた。


 自室に鞄を置いてベッドに座ると、ふと動かした視線の先、あの日に片桐から貰った写真立てが目に入った。そこには既に、いつも通りの制服を着て高校の正門前で笑う俺達の写真が収められている。


 ――写真立てを買った翌日、月曜日の放課後。片桐は早速、写真を撮りたいと楽しそうに言った。


「正門前?」


「ダメ?」


「ダメってことは無いけど、他に人が通るだろうし、ちょっとな……」


「あ、だから日曜日に撮るの」


「え、日曜日に学校?」


「ダメ?」


「ダメじゃないです」


「じゃあ来週の日曜日のお昼、十二時に制服着て駅前で待ち合わせよう。で、帰りに何処かでお昼ご飯食べましょう。ねっ?」


 と片桐に言われ、頷いてしまった俺は翌週の日曜日に制服を着て電車に乗って学校へと向かった。


 普段と違ってガラガラに空いた電車に乗り、揺れる中。ふと、何をしているんだろう俺はと思ってしまったことは事実だが、駅前に制服を着て立っている片桐を見た時、そんな心情は吹っ飛んでしまった。一瞬で。


 その日、制服を着て歩いているのは俺達だけで。あまり人通りの多くないその長い道は冬場にしては珍しく、久しぶりに少しだけ勢いを持つ太陽に照らされていた。片桐の手袋も日光の恩恵にあずかり、僅かに温かくなっていた。


 写真が好きとか嫌いとか、道にほとんど人がいないとか、お昼ご飯は何が食べたいかとか。そういう他愛無い、ささやかな、しかし小さな光の粒のように思える会話を織りながら俺達はいつもの道を歩いた。学校のある日に歩いている時よりも車や人の姿があまり無く、俺はまるで何処か現実離れしたような不思議な感覚に包まれた。


「今日、ちょっとあったかいね」


「そうだな。最近は寒かったし珍しいよな」


 途切れた会話の後、


「……誰も、いないね」


 と囁くように言った片桐の声は、静かな空気に溶けた。


 そして、


「そういえばさ、写真、誰に撮って貰おう?」


 という片桐の言葉も、同様に静かな空気の中に溶けた。


 ――思い出し、苦笑が洩れた。写真を撮ろうと言った片桐も、叔父のデジカメを借りて来た俺も、誰が俺達を写すのかが全く頭に浮かんでいなかったのだから。


「いや、でも自分達でも撮れるよね? ほら、私達のどっちかがカメラ持ってさ、こうやって」


 言って、繋いでいない左手を前方に伸ばして見せた片桐の声も表情も慌てていて、それに少しだけ俺は笑ってしまった。


「いや、笑ってる場合じゃないんだよ。ホントどうしよう……。怜君には何か妙案があるの?」


「こうやって撮れば良いんじゃないの」


 俺が真似るように右手を伸ばすと、


「それで撮るしかないかなー。本当は真っ直ぐに二人並んでいる写真が良かったんだけどなあ」


 と、僅かに残念気味な片桐の語調が響いた。


「あー。何で忘れていたんだろ、撮る人のこと。今から友達呼ぶのは申し訳無いし」


 そうこう言っている間に俺達は高校の正門前に辿り着いてしまい、撮らずに帰るのは嫌だし、とりあえず撮ろうという片桐の自分を励ますかのような言葉を合図に、俺と片桐は並び立ち、写真を撮った。


「何で怜君がカメラ持つの? 私も持ちたい」


「腕が長い奴が持った方が被写体から距離が取れるから」


「腕の自慢ですか?」


「いや、違うから」


 そうやって撮影した写真には、少しだけ緊張を滲ませた片桐と俺が写っていた。


「何だか別人みたい。自分を自分で見るのって、うまく言えないけど不思議だね」


「確かに」


 その後、数枚を撮影した後にそれらを黙々と眺めていた片桐は急にバッと顔を上げ、理由を聞く前にデジカメを俺の手から持ち去り、


「すみません! 写真を撮って頂けませんか。あの、お急ぎじゃなかったら」


 と、正門の前の道を歩いて来た一組の老夫婦に声を掛けていた。


 あまりの早業に俺が面食らっていたら、それはもう輝くばかりの顔で片桐はこちらへ走って来て、


「撮ってくれるって!」


 と、エクスクラメーションマークが軽く十個は付き添って来そうな調子で言ったのだった。


 ――そうして、片桐が希望していた、高校の正門前に二人で並んだ真っ直ぐな写真が俺達の手元に残されることになった。撮影後にデジカメを覗き込んだ時、プリントアウトした写真を手渡した時、片桐は本当に嬉しそうで。それこそ、こちらが驚くくらいで。


 雪原のように白い写真立ての枠、細く絡む深緑のつた、数枚の黄緑の葉。そこに並ぶ二人は少しばかり緊張しているものの確かに俺と片桐なのに、何処か小さく、本当に小さくだが違和感を覚える。片桐の言っていた通り、自分で自分の姿を見るのは不思議な感じだ。


 考えてみたら俺達はプリクラも撮ったことが無いし、これが初めて二人で写った写真だった。少し照れくさいものの、俺はその写真立てを一旦手に取った後、再び元に戻し、部屋を出た。

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