第七章【流露と常盤】5

 ――教室に戻る途中、廊下の窓から見える景色がすっかり冬に包み込まれていることに気が付く。


 去年の冬は、俺達の住む地域は太平洋側にも関わらず雪が降り、積もった。片桐の誕生日、十二月二十五日にも雪は舞い降り、それを片桐がひどく喜んでいたことをふと思い出す。水晶を雪の中に落とし、必死に探していた片桐も脳裏によみがえる。まるで昨日のことのように。


 もしもあの日、雪が降らなかったら。片桐は落とした水晶をきっとすぐに見付けることが出来ただろう。道にしゃがみ込んで冷たい雪の中に両手を入れている片桐を俺が目に留めることは無く、声を掛けることも無く。俺が定期券を落とすことも無く、それを片桐が拾うことも無く。学年の違う俺達は出会うことも無かったかもしれない。


 全ての偶然は全て必然である。誰かがそう言っていた。以前、俺にはその意味が分からなかった。だが、もしかしたらそうなのかもしれないと、今は思う俺が此処にいる。


 九条さんと片桐が友人でなければ。響野と俺が友人でなければ。橘さんと片桐が付き合わなければ。俺が響野が片桐が九条さんが、この高校に進学しなければ。どれが欠けても今は無い。そう考えると言いようの無い不可思議な感覚に襲われた。


 冬。この冬が終われば、きっと春はすぐそこだろう。それを喜んで良いのか俺には分からない。高校に特別深い思い出や思い入れ、感慨は無い。俺にとって此処は、ただ勉強の場でしかなかった。まだ大学に進学するかどうか決めていなかった一年生の時から、此処は次へのステップアップの場であり、今と先を繋ぐ橋ぐらいにしか思っていなかった。だから卒業すること、それ自体には悲しみも感動も無い。高校に通わせてくれた叔父に感謝の気持ちが深くなる、それだけだ。


 だが、と思う。今まで俺は、俺が片桐より一年早く卒業するということを意識していなくて。むしろ片桐に言われて気が付いたくらいで。気付いたところでそれはどうしようも無いことで。


 俺と片桐は変わらずにいられるだろうか? いや、変わらないことが正しいというわけでは無い。変わらないものなど本当の意味では世界の何処にも無いのかもしれない。俺が高校を卒業し、片桐が高校三年生になる。俺は大学一年生になる。これだけでも変化と呼べるだろう。時間は表面的にも内面的にも確実に流れ、過ぎて行く。


 もしも。もしも片桐が、その指をリセットボタンに伸ばそうとしているのならば俺はどうすれば良いだろう。俺は自分で思っているよりも混乱しているのかもしれない。それとも困惑だろうか。どちらにしろ、ざわざわと落ち着かない、落ち着けない心情になっていることは確かだ。


「おーい、何してるんだよ」


「ああ」


 俺はもう一度、冷たい窓から見える冬景色を目に映してからその場を離れた。


「何か面白いものでもあったのか?」


「いや。ただ、もうすぐこの風景も見納めになるんだなあと思って」


「あー、来年は卒業だもんな。入学してから早かったような遅かったような。何か不思議な感じだな。高校、面白かったか?」


「面白くは無かったな。面倒だった」


「確かに」


 そう、面倒だった。勉強もクラス委員も当たり障りの無い人付き合いも。それでも今、俺は此処から去ることを引き留められたい心持ちでいる。


 ――その日の帰り道。寒々しい枝々が伸ばされている道を歩きながら、俺は隣を歩く片桐の様子を窺っていた。しかし予想に反して片桐に変わったところは見られない。


「寒いねー。雪はまだですかね」


「雪が降ったらもっと寒くなるだろ」


「ただ寒いのは損した気分になるの。どうせ寒いならバッチリ雪を降らして頂いて、冬という試練の季節を楽しめるようにしてもらわなくちゃ」


「分かるような分からないような。片桐は雪が好きだよな」


「好き!」


 片桐の会話する声は明るく、表情も冬のひんやりとした空気に負けないくらいに熱を持ち、明るい。


 どう、切り出せば良いだろう。いや、そもそも俺は何を話そうと、或いは尋ねようとしているのだろうか。やはり混乱しているのかもしれない。


「そういえば今月、誕生日だよな」


「あ、うん。一応」


「何処か出掛けようか?」


「あー……」


 間が、空く。隣からの声がピタリと止んだ。


「片桐?」


「あっ、誕生日だよね。そう、誕生日」


「いや、だから何処か行くか聞いたんだけど」


「何処か……どうしよっか」


 そう言って笑った片桐は力無い様子で。俺はまた引っ掛かりを覚えることになる。


「いや、無理に出掛けなくても良いんだけどさ」


 沈黙。ひゅるり、と冷気をたっぷり含んだ細く鋭い風が俺と片桐の間を走り抜ける。俺のコートの裾がパタパタと音を立てて鳴いた。


「片桐、またコート着てないよな。寒くないのか?」


「ちょい寒い。しかしあのコートを着るわけにはいかないのです。買ってないしね」


 去年の冬の会話が脳裏によみがえる。暗い色でレインコートのようで、一万円もして可愛くなくて。そんな服を着たら明るくない日常になるような気がするから、だから着ないと。片桐は、そう言っていた。


 そうやって思い出せる去年の冬という季節。一年という時が巡ったことを証明するかのように、ささやかな思い出が俺の頭の中で小さく光る。


 俺は、リセットなど出来ない。リセットして、ゼロにして、無かったことにして? そして? 片桐には出会わなかった、付き合わなかったことにするというのだろうか。そんな馬鹿な話があってたまるか。


「なあ、片桐」


「ん?」


「片桐が今、考えていることをちゃんと話してくれないか。何を言われても最後まで聞くから」


「考えていること」


 その意味を一人確認するかのように、片桐は俺の言葉を繰り返す。


「前にも話したけど、俺はこれからも片桐と付き合って行きたいと思ってる。俺が卒業したってそれは変わらない。高校で会えなくなったって、いつだって何処でだって会える。電話もメールも。でも、片桐が思っていることをちゃんと話してくれないと俺の一方通行だろ」


「ん……」


「片桐が何を考えているのか知りたいんだ。冬休みとか誕生日に出掛けられない理由があるなら言ってほしい。責めているんじゃなくて。片桐の思っていることを話してくれないか」


「――怜君は」


 そこで片桐の言葉は途切れた。再び、二人の足音と風の駆けて行く音だけが辺りに広がる。耳に届く。


 知らず、歩調が緩やかになっていたのかもしれない。同じ制服を着た何人かが俺達を後ろから追い越して行った。ふと軽く辺りを見れば、制服姿は前方にちらほらとしか見当たらない。それでなくともこの道は人通りが多くないので、冬色に染められた景色と、色で喩えれば白を思わせる空気と相まり、周囲は何処か現実離れした雰囲気をかもし出していた。時折、右の車道を走り抜ける自動車の音が思考回路に柔らかな針を刺すように俺を現実に立ち返らせる。


「本当に、怜君は本当に」


 自動車の走行などよりも遥かに強く現実を見せ付ける片桐の声が不意に響く。いつものまるく弾むような声は、俺の思い違いで無ければその力を無くして微かに震えていた。


「怜君は本当に私を好きでいてくれる?」


 立ち止まり、見上げて来た片桐の目には雫がかろうじて落下しないように留まっていた。


「本当に好きでいてくれる? 大学に行っても、こうやって一緒に帰れなくなっても。もしもお互いが忙しくなって、なかなか会えなくなっても」


 ――それでも好きでいてくれる?


 言葉は風に攫われるように小さく儚くなる。しかし間違い無く俺には届いた。


 変わらないものなど無い。だが、進化も成長も変化だ。俺と片桐がこれからどうなるか、誰にも分からない。俺にも片桐にも分からないのだ。けれども、それを祈って努力して二人で歩いて行くことは出来るはずだ。


「好きだ」


 思っていることをちゃんと話してほしいと片桐には言いながら、俺は俺の思っていることの半分も言葉に出来ていない。


「でも!」


 言葉を続けようと俺が口を開き掛けた時、片桐が半ば強めに言い放つ。


「でも、私は芳久が好きだったのに、付き合ってたのに。それなのに別れて、怜君が好きになって。どっちも嘘じゃないのに。こんなに簡単に気持ちって変わるの? 変えようって思わなくてもこうなるんだったら、これからずっと一緒なんて」


 滲んだ声が消え、片桐の視線が下がる。


 先程よりも冷たくなった風が無感情に後ろから前へと素早く走り抜けた。そして一台の乗用車が走って行く。空は既に夕方の半分を過ぎようとしているのか、輝きを失い掛けた橙に変化している。


 はっくしょ。と、突然に小さな音が片桐から聞こえ、続いて、すん、と更に小さな音が聞こえた。


「寒いよな。とりあえず歩こう」


「うん」


「コート、着るか?」


「着ない」


 さっきまでの会話を反芻しながら、俺は前方と片桐とを交互に見遣りながら歩いた。てくてくてくスタスタスタ、そんなオノマトペが似合いそうな俺達は無言のまま駅への道を辿った。


 何となく、俺と片桐は似ているかもしれないと思う。変化しないものを無意識下で求めているのかもしれない。


 やがて見え始めたいつも通りの駅が、俺を焦らせる。何か言わなくてはと思う。聞きたいこともある。何度目になるだろう片桐の方を見ると、俯いてはいないものの、何処か虚ろな、ぼうっとした目をしていた。


 俺は、まるでそこに不意に発生した引力に引き寄せられるかのように、ポケットから左手を出して片桐の右手と繋いだ。片桐の手は雪のように冷たかった。


 ぼんやりと前を見つめていた片桐の両目が僅かに戸惑いを含んで俺を見た。そして一瞬、揺れた瞳はそっと緩く弧を見せる。まだ少しだけ透明な水を飾っていたそれは確かに俺を映し出し、笑った。


「片桐って手袋もしないの?」


「んー、持ってないだけでしないってわけじゃないよ。でもマフラーは嫌い。首が窮屈になるから。あ、あのね。良かったら喫茶店に行かないかなー、なんて」


 片桐は言って、空いている左手の人差し指で駅前の喫茶店を指す。


「ああ、行くか。時間は大丈夫?」


「うん」


 片桐は返事をし、そして俺と繋いでいる指先にきゅっと小さく力が込められた。そこからまるで片桐の何かしら決意めいたものが流れ込んで来る気がして、俺は応えるように手を握り返す。


「そういえば、片桐から貰ったコーヒーおいしかったよ。去年にくれたやつ」


「ホント! 良かった! あ、怜君からのポインセチア、元気だよ。真っ赤」


「ちゃんと世話してるんだ」


「してますよ。大切に育ててます」


「あれから一年が経つんだな」


「そうだね。びっくりだね」


「今年は雪が降るのかな」


「今のとこ、降る予定が無いっぽい」


「天気予報チェックしてるのか?」


「週間予報までバッチリ」


 へへ、と得意そうに俺を見上げて笑う片桐は少しだけ泣いた顔のせいか、とても小さく頼り無い。それは、次に風が吹いたらいなくなってしまうかもしれないと思わせるほどで。俺は思わず、繋いだ手に更に力を込めた。


 不思議そうに俺を見た片桐の両の目がくるりと動く。そのリスのような様子がおかしくて、俺は少しだけ笑った。


 ――ああ、このまま。このまま時間の流れが、俺達が歩くスピードくらいにまで緩やかに緩やかになれば良いと。俺は初めて、流れ行く時間を心から惜しんだ。


 その日、寄った駅前の小さな喫茶店で。片桐は、ぽつぽつと胸の内を明かした。そして俺の予測はあながち間違っていなかったことを知る。やはり片桐は――まだそうと決めていたわけでは無いようだったが――リセットしようかと揺らいでいたようだった。その原因は、俺がもうすぐ卒業してしまうこと。高校で会うことが無くなれば、俺との繋がりも無くなってしまうのではないかと不安だったこと。だから、俺と思い出を作ることに躊躇いを感じていたこと。


 店内を流れるクラシックのようにゆったりとしたスピードで、小さな囁くような声で、その目を伏せたり上げたりしながら片桐は話した。


 そんなに不安になる前にどうして話してくれなかったのかと聞けば、自分でも自分の気持ちが良く分からず、何をどう話したら良いかも分からなかったと。また、俺が卒業することも互いの学年が違うことも変えようの無いことだと。だからこそ、追い詰められるような息苦しいような心情でいたと、片桐は答えた。その顔付きは、ずっと言えなかった抱えて来たことをやっと話すことが出来たという安堵と喜びと、それでも未だ残る不安の入り混じった複雑なもので、今まで片桐が秘めていた心の重さを物語っていた。


 俺は今まで、片桐がそんなにも悩んでいたことに気が付かなかった自分自身を悔やむと同時に、これからはもっと色々なことを臆さずに話してほしい、伝えてほしいと片桐に伝えた。


 いつも楽しい話をしてくれる片桐。まるく弾む音のような声をしている片桐。勿論、そういう片桐が俺は――好きだ。俺に無いものを持っているような気がする。だが、そうでは無い片桐だって片桐だ。当たり前のように。


 だから、楽しい話ばかりでなくても良い。弾む声ばかりでなくても良い。こんなにも悩み、苦しくなる前に話してほしい。一緒に考えたいから、考えて行きたいから。


 そういうことを俺は片桐に話した。正直、うまく言葉にして表現出来ていたかは分からない。それでも目の前に座る片桐が笑ってくれたから。それで――それだけで俺は心が大きく呼吸するのを感じた。


 それじゃあまたね、と走り込んで来る電車を背に手を振る片桐は、まだ何処か元気が無さそうに見えた。その考えが伝わったのだろうか、大丈夫、無理してないよと片桐は笑って言った。少しだけ安心して俺は片桐を乗せた電車をいつものように見送った。


 やがて俺を乗せた電車が片桐とは反対の方向に走り出し、後ろへと流れ行く冬の景色が両目に映り始めた時、俺だって全く不安が無いわけでは無いと、小さく心の片隅で呟く自身の存在に気が付いた。こうして目に見える景色ですら、季節ですら移り変わって行く。それは誰にも止められない。片桐も言っていたように、人の気持ちも変わって行く。自分の知らないところでも。それを今、俺は少し怖く思っていた。


――その時、ブレザーのポケットの中で携帯が振動した。


 


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 From:片桐綾



 Sub:誕生日


 

 Text:怜君、お祝いしてくれる?



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 変わらないものなど無いのかもしれない。だが、それならそれで良いかもしれない。片桐が俺を気に掛けたのも、俺が片桐を気に掛けたのも、気持ちが変わったから起きたことだ。何も変わらない日常など退屈なだけだろう。


 これから先、何があるかは分からない。それでも――いや、だからこそ俺は片桐のことを大切にしようと、不思議なほどに静かな心の内側で思った。


 片桐の誕生日は勿論祝うよと俺がすぐに返信をすると、ありがとうの言葉に八分音符の記号が三つも添えられた返事が届いた。それを見て俺は、知らず小さく笑みが浮かんだ。

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