第七章【流露と常盤】4

 ――そして迎えた翌日。俺の頭の中を駆け巡るのは昨日の帰りに片桐が言った言葉だった。


「サガミ、食堂行かないの?」


「その手に持った弁当は何だ」


「弁当」


「そこじゃないだろ。まさか、お前も行くのか」


「九条さんが帰れって行ったら退席しますよ」


「明らかに楽しんでるよな」


 今の俺とは真逆とも言える響野は、弁当の包みを片手に、早く行こうぜと俺を急かす。廊下をスタスタ歩く俺達の頭の中、恐らく考えていることに大差は無いだろう。


「あれは片桐さんのことだよな、絶対」


「何で分かる」


「サガミに向かって言ってたじゃん、明日も食堂来ますかって。サガミと九条さんの共通点って片桐さんだけだろ。となると片桐さんの話以外には無い」


「そこまで分かっていて、どうして付いて来るんだよ」


「興味本位」


「だろうな」


 それしか無いよな、それこそどう考えても。


 別に聞かれて問題のある話では無いだろうし(多分)、九条さんが構わなければ良いか。俺はそう諦めて食堂へ続く廊下を歩いた。


 食堂にはまだ僅かの生徒の姿しか無く、食券販売機の前もパン売り場の前も空いている。響野の急かすままに来たらこれだ。だが、パン売り場に人があまりいないのはありがたいので、俺は早速パンを買いに行く。三つのパンを持って戻ると、響野の隣に九条さんが座っているのが見えた。九条さんも早く来たなあなどと悠長なことを思っていたら、こっちこっちと響野が片手を上げていた。未だにさして混雑していない食堂、そんなことをしなくても分かる。


 俺が席に座ると昨日のように九条さんは、ぴょこと小さく頭を下げた。そして控え目な様子で「こんにちは」と。


「ああ、こんにちは」


「あの、急にすみません。ちょっと、お話したいことがあって」


「それは良いんだけど、コイツがいて大丈夫?」


 九条さんは響野を見た後、少しだけ戸惑った様子を見せたが、やがて小さく頷いた。


「あの、綾のことで相模原先輩に」


 ああ、やはりそうかと、俺は思った。


「最近、ちょっと元気無いんです、綾。元気無いっていうか……何て言えば良いのかな。ただ元気が無いっていうんじゃなくて、何処かに何かを落として来たみたいな。あれ、うまく言えない」


 小さな弁当箱の蓋を開け、それを片手に持ったまま九条さんは話し始めた。だが、何をどう話せば良いのか考えながらのようだった。


「そういえばさ、冬休みは片桐と何処か出掛けたりするの?」


 何か取っ掛かりになればとそう尋ねた俺に対し、ハッとしたように九条さんは顔を上げて俺を見た。置かれた弁当箱の蓋がカタンと音を立てる。


「冬休み、それです。そういうことを私も綾に聞いたんです。相模原先輩と出掛ける約束とかした? って。そうしたら最初は、大学決まったみたいだけどそれでもやることは沢山あるだろうし邪魔しても悪いから、みたいに言ってたんです。でも」


「でも?」


 言葉を切り、何処か躊躇うような様子を見せた九条さんへ先を促すように俺は聞いた。


「リセットした方が良いかな、なんて言ったんです」


「リセット?」


 そう聞き返したのは響野。俺は聞き返さずとも、その言葉が何を指すかが分かり掛けてしまっている。いや、もうハッキリと分かってしまっているのかもしれない。


「あ、えっと……リセットっていうのは時々、綾が口にするんですけど」


 そこで窺うように九条さんは俺を見て、そして目を伏せてしまった。


「え、サガミ分かってるの?」


 事情が掴めないのだろう、響野は俺に尋ねたが、俺は説明する気力が湧かなかった。


 ――リセット。そういえば、最近はあまり片桐の口から聞いていなかった気がする。だから僅かに新鮮な響きを持って今、俺に届く。しかし新鮮というよりは冷たく鋭い氷刃のようであった。


 以前、片桐はリセットについて何と言っていただろうか。いつか、リセットをしたくなる瞬間について話してくれたことがあったはずだ。手繰った糸の先、冷たく鋭い氷刃と感じた俺の感覚が間違いでは無かったことを証明する記憶が待っていた。


 ――相模原君は無いの? リセットしたいと思う瞬間。私はあるよ。何度だってある。そのたびに何度だってリセットボタンを押すの。そうしたらまた、ちゃんと頑張れる。頑張って行ける。それが私の強み。


 片桐の言葉が浮かび、巡り、そして消えた。やはり片桐は言っていた。ちゃんと頑張る為にリセットボタンを押す、と。それならば。


「あの、聞いても良いか分からないんですけれど。綾と相模原先輩は付き合っているんですよね」


「ああ」


「そうですよね」


 確かめるように尋ね、更に俺の答えを確認するように九条さんが頷く。おそらく、九条さんも俺と同じことを思っているのだろう。先程よりも幾分か、その表情が曇っていた。


 互いを映し合ったように黙ってしまった俺達を包む空気は、


「昼飯、食べないの?」


 という響野の一声によって確かに崩された。


 ああ、これがいわゆる空気を読まないということかと、何処か遠くで思考する俺を余所よそに、響野は持って来た弁当をもぐもぐと食べている。見ると、それはもう半分以下になっていた。


 目の前に座る九条さんは響野の言葉で思い出したように箸箱を開け、厚みのある卵焼きを一切れ、口に運んだ。俺も買ったばかりのパンの袋を一つ開けて食べ始めたが、味覚が自分から切り離されたかのような錯覚を覚えるくらいに、心此処に在らずだった。


 ――リセット。その単語が俺の頭の中をグルグルと何度も何度も廻るように現れる。


「マズそうだな」


「ああ」


「貰って良いか?」


「は?」


 響野の視線は俺が持つハムチーズパンを捉えていて、それはやがてテーブル上に置かれている残り二つのパンに流れた。


「パンかよ!」


「え、他に何かある?」


 もう良い、ちょっと黙ってくれと俺が言うと不思議そうな顔をしつつも響野は沈黙してくれた。しかしその時、九条さんが小さく笑い声を洩らしたので俺は気が抜けてしまった。


 思わずついた溜め息に、九条さんは慌てて「ごめんなさい」と言ったが九条さんは悪くない。悪いのは明らかに空気を読んでいない奴一人だ。


「あのさあ、さっきから重苦しい顔してるけど。そんなに非常な事態なのか? emergency?」


 何故か異様にネイティヴな発音でそう言った響野は、心から不思議そうな表情を強く滲ませる。


 ああ、俺はコイツに一から説明しなければならないのか? それを思うと非常に面倒だ。それに今、俺が感じている氷の温度と片桐についての感情を敢えて口にするなどということはしたくない。


 俺が黙って噛み千切ったパンを咀嚼していると、そういう俺の心情を知ってか知らずか、響野は更に言を重ねる。


「俺達がここで顔突き合わせて悩んでいたって片桐さんの考えていることは分からないんじゃないの?」


 その言葉は、先程に俺が感じたものとはまた違った意味で氷刃のようだった。九条さんも水に打たれたかのように顔を上げて響野を見ている。


「あれ、どうしたんだよ。そんな驚いた顔して。だって本人がいないと分からないだろ、本当のことは。サガミが片桐さんに聞かなきゃ分からない。そりゃ、聞いたって本当が分かるとは限らないけどさ。本人抜きで話しているよりは、ずっと分かるだろ」


 多分。最後に付け加えて響野は弁当の続きに手を伸ばした。


「あ……そうですよね。分からないですよね」


 半ばは独り言のように九条さんは言った。


 そうだ、聞いてみなければ分からない。この間だってそう気付かされたばかりではないか。ここで九条さんから片桐に関して聞けたことを、むしろ幸運と捉えるべきだ。やはり片桐は冬休みについて、ひいては俺について、何か思うところがあるのは違いないようだ。それならば、それを片桐本人の口から説明してもらうしかないだろう。


 このまま、理由も状況も心情も良く分からないまま、片桐と離れることは出来ない。こんな心のまま冬休みを迎えることも出来ない。もしも片桐の思っていることが俺の思うリセットだったとしても、話は本人から聞かなければ。


 意外にも響野の発言で空気が柔らかくなった昼食時。その終わり、九条さんは遠慮がちに「あの」と俺を見て口を開いた。


「綾は、本当は相模原先輩のことが好きなはずです。響野先輩の仰る通り、綾に聞かないと綾の気持ちは分からないですけれど、それでも。それでも私は綾を見ていて、そう思うんです。だから」


 綾のこと、よろしくお願いします。そう言った九条さんはとても真剣で、片桐は良い友人がいるなと俺は安堵を覚えた。


「ああ。話してくれてありがとう。これからも片桐をよろしくな」


「はい」


「良い感じにまとまったな」


 まとまったのは他ならぬ響野のおかげだと、俺は心密かに思った。空気が読めないというのは撤回しておこう、やはり心の中で。

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