第六章【片隅と隔心】11
俺にとっては高校生最後の夏休みが終わる。八月が、終わる。その月の末の日、橘さんは予定通りに大阪へと移り住んだ。片桐が「眠る為の部屋」と表現した、あのマンション。そこにはもう橘さんは居ない。いつ戻るかも分からない。残された片桐が、もしかしたら学校に来なくなるのではないかと俺は懸念していたのだが、その心配は外れ、片桐はきちんと毎日、登校して来ていた。それが少し意外だった。
ただ、以前のような花開く笑顔はあまり見られなくなった。いや、ほとんど見られないと言っても良い。それが俺の思い過ごしなら、どんなにか良かっただろう。
その内に静かに夏が終わり、季節は秋を迎える。緑深い葉は徐々に生命力を落とした色に変わり始めて、日中の気温も下がり始める。勿論、もう蝉の鳴く声など聞こえない。
「もう、秋なんだね」
高校と公共のバス停とを繋ぐ長い道を歩く途中、隣を行く片桐が何かを思い出すかのようにそっと告げた。
「季節が変わるのは、あっと言う間だよな」
答える俺の声は、どこか乾いているように自身の耳に届いた。それが、秋の乾燥した空気のせいなのかどうかは分からない。
「私は、怜君が好きなんだ」
突然、片桐が言った。
「そう、私は怜君が好き。それは嘘じゃない。私は、好きじゃない人と、こんなに沢山の時間を過ごせない。こんなに自分の思っていることを話せない」
俺は、吸い寄せられるように左隣の片桐を見ていた。
「それなのに私は最近、自分が良く分からない」
俯く片桐の視線に重ねれば、既に枝から離れ落ちた枯れ葉が一枚、俺達の行く先で頼り無くふるりと揺れていた。
「最近、片桐さん来ないね」
無遠慮にそう言った響野は、次に続く俺の言葉を待っているようだった。
しかし俺が黙っているのを見てか、
「別れた?」
と、非常に興味本位丸出しな態度で尋ねて来た。
それを否定しても、憶測による追撃の手は止まない。
「お前、今日は弁当だって言ってただろ」
「弁当を食堂で食べることにした」
そうかよ、と俺が投げ遣りに返すも、そうそう、と少しも意に介した様子も無く、響野はやはり後を付いて来る。
「あのな、お前が期待してるような話は何もないから。だから教室に帰れって」
「期待するような話って?」
墓穴を掘った気がする。
「片桐さんと別れてないんだよな?」
「さっきもそう言った」
昼はパンを買うつもりだったので、少しでも品数が少なくなる前に食堂に辿り着こうと俺は足を早める。というか、響野を振り払いたい。しかし、どうやらそれは無理そうだった。
スタスタスタ、というオノマトペが似合いそうな速度のまま、俺と響野は食堂に入る。そのまま俺がパンを選びに行くと、まだ品数は豊富で選択肢の多さに繋がった。俺が三つのパンを抱えてテーブル席を振り返ると、律儀にも響野がへらりとした笑顔で軽く片手を挙げているのが目に入った。無視するのはさすがに気が引けるのでその向かいに座ると、やはり話題は片桐とのこと。やっぱり無視すれば良かったかと俺は軽く頭を抱えた。心の中で。
色々と聞いて来る響野に答えたり答えなかったりしつつ、俺は、俺自身も分からないことだらけなのだから答えられない、という事実に気付く。そして、片桐のことを考えるに、橘さんのことはセットと言っても過言ではないくらいだ。結局、思考はそこから始まりそこに戻る。
俺は、自分でも情けないとは思うのだが、どうしたら良いのか分からなかった。しかしながらそれは片桐も同じらしく、とりあえず俺と少し離れてみるということで、「しばらくは楓たちと帰る」という内容のメールが先日に届いた。
そして、それきり俺と片桐は連絡を取っていない。あれから、今日で二週間が過ぎようとしていた。
「そんなの、簡単だ」
「何が」
弁当の卵焼きを食べながら、あっさりと響野が言い放つ。
「聞けば良いだけ」
「何を?」
「片桐さんは本当は誰が好きですか、って」
「いや、それで解決するようなこととは思えない」
そう返した俺に、響野はさも不思議そうに首を傾げて見せる。微妙に不愉快だ。
「じゃあ、どうしたら解決するんだ?」
「それが分からないから困ってるんだろ」
首を元に戻し、二切れ目の卵焼きに箸を伸ばしつつ、更に響野は重ねる。
「聞くのが一番早い。他に良い方法が今、浮かんでるって言うなら別だけど。もう二週間が経つんだろ?」
「ああ」
「ずーっと待ってるのか、片桐さんが何か言って来るまで」
「ずっと、ってことはない」
買ったばかりのハムマヨパンを食べながら、思考しながら、俺は響野の話を聞く。
正直、響野の告げて来る言葉は核心を突いていた。俺だって何もせずにこのままただ待っているつもりは無い。だが――と、ここで逆接の接続詞を持って来てしまうことは不本意だが――俺には打つ手が思い付かなかった。
片桐が橘さんを慕うのは悪いことでは無い。断片的な話から察するに、きっと片桐は多くを橘さんに助けて貰ったのだろう。それ故に、という側面もあるように思う。そこに生じるものが敬愛なのか恋情なのか俺には分からないし、感情の線引きなんてひどく曖昧で、本人ですら自覚していないことだってあるだろう。
突然、今まで近くに居た親しい人が遠くなる。動揺する。ともすれば落ち込む。当たり前のことだ。
「別れてないなら付き合ってるんだろ?」
降って来たような響野の声に、俺はいつの間にか下がっていた目線を上げる。
「ああ」
「じゃあ遠慮してる場合じゃないだろ。このまま自然消滅しても良いってのなら、そのまま黙っていれば良いさ。優しいのとヘタレは違うからな、言っとくけど」
「は?」
「橘さんがいなくても俺がいる! ぐらいは言ってみろよ、ってこと」
もくもくと弁当を食べ続ける目の前の友人とは正反対に、自然、俺の手と口は止まっていた。
「食べないなら貰うけど?」
手を止めた俺に気付いてか、未開封の二つのパンをサッサと指差し響野が問い掛ける。
「お前は今、弁当を食べてるだろうが」
「まだ食べられます」
「これは俺の昼飯」
「ですよね」
まあ、あれだ。と、何処か改まった口調で、ゴクリと唐揚げを飲み込んでから響野は言った。
「相手の話を良く聞く。これに尽きるな、恋愛は」
その言葉が、ズキリと俺の心の奥深いところに届く。
俺は片桐の話を聞こうとしただろうか? あの日、駅前の喫茶店で。片桐は、話したいことを全て話すことが出来ただろうか。俺は妨げにならなかっただろうか。その答えは、誰より俺自身が充分すぎるほどに分かっていた。
「パン、一つやるよ」
「そうか!」
躊躇いなく、素早くツナトマトサンドに手を掛け、シパッと音が立ちそうな勢いで自分の手元に引き寄せた響野は、お世辞にも良いとは言えない変な笑顔を見せた。何処か、からかうような。
「頑張れ」
「言われなくても」
そう言い返して、俺はパンの続きを食べる。
もしかしたら響野は恋愛について口で言っているだけでは無いのかもしれない。響野って実は付き合ってる人がいるのか? と聞きたいような気が一瞬したが、実際にはそうはしなかった。俺はまず、俺の足元を見るべきだ。
昼休み半ば、割と食堂には生徒が入っていたが教師の姿は見られない。俺はブレザーのポケットから携帯を取り出し、開き、一通のメールを書き、送信した。送信しました、の表示を確かめてから携帯を閉じる。パチリ、と小気味の良い音が小さく響いた。
――そして昼休みが終わる十分程前、ポケットの中で携帯が短く震えた。
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From:片桐綾
Sub:私も
Text:そう言おうと思って、メール書いてたところだったからびっくりした。帰り、待ってるね。
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メールを読み終える。安堵と緊張が入り混じる、そんな表現がぴったりな俺がそこに居た。
――その日、帰りのホームルームが終わって廊下に出ると、両手で鞄を持ち、壁に寄り掛かって立っている片桐が目に入った。
「やっほー」
「早いな」
「今日、担任が休みなの。代わりの先生がホームルームに来て、すぐ終わった。そして急いでピャッと来ました」
「そっか」
「帰る?」
「ああ」
俺は隣を歩く片桐を久しぶりに見たような気がする。いや、実際に久しぶりだ。約二週間ぶりか。学年が違うせいか校内でも姿を見掛けなかった。時折、メールを送り、メールを受け取り。そこから、片桐が登校していることが分かって安心はしていた。しかし、今の安堵感はそれより遥かに
左隣、少し視線を下げると、揺れる片桐の黒髪が目に映る。初めて見た時は肩の辺りだった髪は、今では肩を通り過ぎて少しのところでゆらゆらと軽やかに踊っていた。
――高校と公共のバス停を繋ぎ、バス停から本屋、本屋から駅への、このいつも通りの道が、こんなに長くつまらなかっただろうかと、片桐と歩かなくなってから俺はふと思った。今まで、そう思ったことは無かった。確かに長い道のりではあっても、そこに退屈とか面白いとか、感情の色を付けることは無かったのだ。それが片桐と帰るようになってから、きっと自覚無く、俺はその時間を楽しく思っていたのだろう。それ故に片桐がいなくなったと同時に、色も失われたに違いない。元に戻っただけだというのに。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、ああ」
「ホント? じゃあ今、何を話してた?」
「秋は焼き芋の季節」
「それはかなり前のお話なんですよー。やっぱり、ボーっとしてたでしょ?」
少しだけムッとした表情を見せた片桐。
その顔を、俺はまじまじと見てしまった。見るという意思よりも、引き付けられるような感覚が上だったかもしれない。理由は無い。ただ、何故だか目が離せなくなっていた。
「どうしたの?」
ムッとした表情から一転、不思議そうな目で俺を見上げる片桐。
「ああ、いや何でも」
片桐に言われ、俺は初めて視線が固定されていたことに気付く。
僅かに慌てて前を向くと、両側から枝を伸ばしている木々が自然に視界を彩る。日ごと確実に深まって行く秋を知らせる赤や黄の葉が、何処か切ないほどに美しかった。
しばらくの間、俺達は無言のまま歩いた。その沈黙は、少なくとも俺にとっては重いものでは無く、息苦しいものでも無く。その静かな時がずっと続けば良いという思いすら持つくらいに、俺は心地よさを覚えていた。
やがて公共のバス停を通り過ぎて少し経った頃、あの、と遠慮がちな片桐の声が小さく響いた。それは、さっきまでの話し声からは予想も付かないほどに本当に小さな声で、もしも強く風が吹いたなら、きっとかき消されてしまうのではと思うくらいの儚さだった。それに不安を感じながらも俺が返事をすると、やはり躊躇いがちな小さな声が生まれる。
「怜君は、私といて、楽しい?」
言葉を区切るように、発した言葉を確かめるように、片桐は心持ち俯き加減で尋ねた。
「楽しいよ」
「私といて、疲れない?」
「疲れないよ」
「ホント?」
「ああ、本当に」
本当に。それに繋がる言葉を俺は探していた。見付けて、片桐に伝えたかった。そうしないと、秋の冷たい風に吹かれるまま、ひらりと片桐が飛んで行ってしまいそうな気がしたから。
「あれから私、考えたんだ。ううん、本当はずっとずっと考えていたのかもしれない。私が本当に好きな人のこと」
本当に好きな人。その言葉に、自分の心臓が
「私は、芳久とお付き合いしてた。それは勿論、好きだから。好きだった、から。でも、芳久には多分、分かってたんだと思う。私が恋愛とは少し違う感情でいたことに。私はあの時、分かっていなかったけど」
その時、俺はいつか橘さんが話してくれたことを思い出していた。
「芳久が別れようって言った時、私には受け入れることが出来なかった。どうして、っていう疑問だらけで。でも、何となくだけど、恋愛は二人のものだから片方が恋愛をしなくなったら終わりなんだって、どこかで思ってた」
そこで片桐は一瞬だけ、俺を見た。すぐに目線は下を向いてしまったけれど。
「芳久とは、別れてからも勉強を教えて貰ったり電話したり出来たし、そんなに寂しくなかった。今、思えばだけど、それがやっぱり恋愛じゃなかったってことなのかもしれない。それで、考えたの。私がもし、怜君と別れたらどうなるんだろうって。怜君とメールも電話も出来る、勉強も教えて貰える、時々、一緒に出掛けたりも出来る。でも、お付き合いしていない、彼氏じゃない、恋人じゃない。それってどうなんだろうって」
間が、空いた。その沈黙はさっきのような居心地のよさとは無縁の、むしろ正反対のもので。俺は、続く言葉を待った。
「それは凄く寂しい」
ぽつ、と小さく音を立てて地面に辿り着いた雨の一滴のように、それは俺に届いた。
「凄く……」
そう重ねて、片桐はそれきり黙り込んでしまった。言葉を探しているのか、何かを考えているのか。
「うまく言えないけど、私は怜君が好きだよ。一緒にいたいよ」
やがて片桐から発せられた言葉はやはり小さな声だったけれども、それは確かに意思の込められた芯が通っているものだった。まるで静寂にヒビを入れてパリンと割るかの如くに、片桐の声はまっすぐだった。それに対して答えた言葉は、俺も同じだ、の一言でしかなかったけれど。しかし、俺を見上げて来た片桐と自然に目が合った時、心の何処かが緩められた気がした。見えなかった何かが壊された気がして。
――俺達は付き合っていた。いわゆる彼氏と彼女だった。それでも今、思えば、何処か隙間が空いていた。
別に彼氏彼女だからと言って、すべての隙間を埋めて距離を無くさなければいけないとか、そんなことは無いだろう。ただ、俺は――もしかしたら片桐も――あるはずのものがそこになくて、戸惑っていたのかもしれない。それをずっと、知らない内に探していたのかもしれなかった。
「えっと。これからも付き合っていける……よね?」
不安と期待のようなものが入り混じった片桐の表情が俺の目に、片桐の声が俺の耳に届いた。
「ああ。勿論」
「良かった!」
その時に目に飛び込んで来た片桐の笑顔は、瞬間にして脳裏に焼き付けられたかのように感じた。それぐらいに印象的で、鮮烈で、目が離せなかった。決して大袈裟では無い。それにはきっと、ここ最近、片桐の笑った顔自体をしばらく目にしていなかったせいもあるだろう。けれど、まるで花開くように見せる片桐の表情が俺の心を捉えていること、捉えることに変わりは無い。
「ん?」
僅かに首を傾けた片桐に、俺は、何でも無いと答えた。そして、駅までの残り少ない道のりを、俺は――俺達は何処か惜しむように歩いた。
夏に比べて日が早く落ちるようになり、夕方の空気も冷たくなって、木々に宿る葉の色が変わり、葉は枝を離れ地に落ち始める。制服も替わった。確実に時間は流れている。季節が、移って行く。
「もう秋だねえ」
「ああ、そうだな」
先程よりもずっと弾んだ、片桐の声。何処か物悲しい秋という季節が滲んだ風景とは正反対の、音符を思わせるような響きだった。
「さっきも言ったけど、秋はね、焼き芋が好き」
言って笑う片桐は、やはり鮮やかだった。赤や黄に色付いた葉よりも、きっと。
思えば俺は、その惹き付けるような笑顔とポンポン弾む声を追い掛けて来たのかもしれない。見失わないように。
――なんて、少々俺らしくもないことが頭に浮かんだのは、この季節のせいということにしておこう。秋は人を物思いに
俺とは反対方向の電車に乗って手を振る片桐を、本当に久しぶりに見たなと思う。それが、まさかこんなにも既に俺の日常に溶け込んでいるものだとは思わなかった。当たり前にあるものなんて、もしかしたら一つだって無いのかもしれない。
電車の窓から見える風景も、いつの間にか秋のそれに変化していた。後ろへと流れ去って行く景色を目に映しながら、俺が考えるのは片桐のことだった。
自分でも意外だった。当たり前にある俺の当たり前の日常、日々。ほんの一年くらい前まで、そこに片桐はいなかった。出会ってもいないのだ。それが二週間程、片桐と会わず連絡も取らずにいた、それだけで、まるで何処か欠けたような毎日になっていたのだ。この感覚の不思議さを、どう言えば表せるのだろう。連続した日々、大きな変化の無かった時間。そこに生まれた存在。
勿論、今までに何も無かったわけでは無い。誰だってそうだろうが、楽しいことや悲しいこと、そんな表現では言い表せないくらいの出来事が、本当に数え切れないくらいあるだろう。俺だって例外では無い。
入院していた父が亡くなり、俺と母が不仲になった辺りは、俺はかなりの影響を家庭から受けていただろう。高校受験の始まる数ヵ月前から俺は叔父と暮らし始め、それからは勉強やその他の生活事に落ち着いて向き合えるようになった。叔父には本当に感謝している。
平凡平和な日常に思えても、見えても、その実は本当に色々なことがある。そこに、片桐の存在が加わったことが俺はどうにも楽しいらしい。自分でも良く分からない内に片桐を追い掛けてここまで来たような気がするのだ。
電車は、ゆっくりと各駅に停まりながら進む。進んで行く。やがていつもの駅に停車し、そこに降り立った俺は、いつになく新鮮な気持ちを覚えていた。
新鮮? いや、感傷的とでも言うのだろうか。確かにそれ自体は新鮮と呼べるものかもしれないが……。
俺は俺の感情をどうにも捉えられないまま帰路を歩いた。まるで空に浮かぶ月のように、俺の心の中には片桐の姿が浮かんでいた。
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