第六章【片隅と隔心】10

 ――いよいよ本格的に夏は勢いを増して行った。太陽はいつも以上に輝き、緑はいつも以上に色を深めた。恵みの雨はなかなか訪れない日々が続く。しかし、全てのものが生命力に満ち溢れているようだった。


 週に三日から四日は、そういった暑さ猛る中を俺は高校へと足を運び、真面目に講習を受け、大学受験に備えた。今までに何度か受けた模試の結果も良い。推薦にしろ一般にしろ、このまま続けて行けば大丈夫だろう。おそらく。


 受験については確かに気になることであり大事なことなのだが、それ以上に俺には気掛かりなことがある。


 片桐のことを思う。夏休みになってから、俺達は会う機会や話す時間が減った。今までは学校という場があったわけで、長期休暇でそれが失われれば自然な流れなのかもしれない。片桐はあまり講習を取っていないようだったし、休暇中に高校で偶然に会った回数は一回だけだった。


 お前はそんなに勉強ばっかりしてないで片桐さんと遊びに行けよ、と先日に響野に言われたが、同じ受験生の言葉とは思えない。しかし、確かに毎日毎日、学習ばかりでは気が滅入る。それに、久しぶりに片桐に会いたいというのも事実だ。ただ、あの喫茶店での一件以来、どうも気まずいというか――きっかけを俺は失っていた。片桐がどう思っているのかは分からないが、何となく連絡が取りづらくなっていた。少なくとも俺は。


 今まで、割と頻繁に来ていた片桐からのメールも減った。単に忙しいのかもしれないし、夏休みゆえに出掛けているのかもしれない。それならそれで良いのだが……。


「暑いな」


 部屋の窓から見える木々も生命を力強く謳っているようだった。光を受けては輝き、時折、そよりと吹く微風に葉はゆらりと踊った。 


 ――俺は勉強の手を休め、ぼんやりとしていた。その時、携帯電話が短く鳴り、着信を知らせた。見ると、しばらくぶりの橘さんからのメールだった。何故か少しばかりの緊張のようなものが駆け抜ける。そのメールは少しばかり長く、そして俺をドキリとさせるには充分の内容だった。


 橘さんからのメールを読み終えてからすぐ、俺は片桐にメールを書いた。橘さんからメールが来たのも久しぶりだが、片桐にメールを送るのも久しぶりのような気がした。


 勉強が一区切り付いていたこともあり、俺はベッドで本を読みながら返信を待っていた。しかし、携帯電話が光ることはない。普段、メールの返事が早くほしいと思うことはあまり無い。だが、今回ばかりは沈黙したままの携帯電話がチカリと光りはしないかと、本を読みながらも俺の意識はそちらに向かったままだった。本の内容は正直、ほとんど頭には入って来なかった。


 ――結局、その日は片桐からの返事は無かった。そして翌日になっても、更にその翌日になっても、返事が届けられることは無かった。


 またメールを、或いは電話をしてみようかとも考えた。だが、気が引けた。行動に移し難い俺が、そこに居た。


 何を遠慮することがあるのだろうか、俺と片桐は付き合っているのだし、メールの返事が無くて心配になるのは当然のことで、それについて尋ねてみることも少しもおかしなことでは無い。そう思う反面、何かが俺にストップを掛ける。その「何か」が俺には全く分からないような気もしたし、既に明確に分かっているような気もした。


「何がしたいんだ」


 思わず、言葉が洩れた。けれど独り言は独り言でしか無く、俺一人しか居ない自室にそれは空しく響き、そして消え去った。






 片桐にメールをして三日目になって、ようやく机の上に置いていた携帯電話が鳴った。振り向くと緩やかに明滅している光が目に飛び込んで来る。僅か十秒程で失われた音楽と光。メールの着信という事実が、俺に焦燥めいた感情を与える。思った通り、片桐からだった。ただ、その内容は短く、先程に生まれた焦燥感のようなものが、より一層、鮮やかになるに至った。


 


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 From:片桐綾



 Sub:ありがとう


 

 Text:心配してくれて本当にありがとう。私は大丈夫だから、ノープロブレムだよ。



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 しばらくの間、俺は携帯の画面から目を離せなかった。


 大丈夫。その言葉に、そうかと頷けないのはどうしてだろう。俺には、片桐が本心から言っているとはとても思えなかった。しかし重ねて問い掛けてみても、返って来る返事は同じようなものだった。


 俺は思い切って、せっかくの夏休みだし何処か出掛けないかとも片桐に尋ねてみた。が、受験生である俺を思い遣る返事が届き、また、夏は苦手な季節だからあまり外出したくないということが、申し訳無さそうに加えられていた。そう言われてしまっては無理には誘えなくなってしまう。俺は諦めて携帯を閉じた。


 部屋の窓から見える真夏の午後の空は青と白とのコントラスト。それはあの日、喫茶店に来た片桐を思わせた。


 ――俺に出来ることはないかと、ふとした時に自然に考えてしまうほど、片桐の存在が大きくなっていることに気が付く。毎日は当たり前に暑く、蝉が鳴き、向日葵が咲き、木々の葉は色濃く。時々、片桐にメールをしてみるも、その返信が本心なのか分からないままに日常が過ぎる。


 いや、人の本心など誰にも分からないだろう。自分自身ですら自分の心の確かなところを理解しているとは言い難い。それでも思うのは、片桐は無理をしているのではないだろうかということ。もっと頼ってくれて良いのにと思う反面、それを出来なくしたのは他ならぬ俺ではないかと自己嫌悪に陥る。片桐は俺に頼ろうとしていた。話をしようとしていた。それをはねのけたのは、俺だ。


 言い訳めいてしまうかもしれないが、意識的にそうしたのではない。あの時――俺自身、驚いたのだ。自分が生み出した自分の声音の冷たさに。そして、それを受け取らざるを得なかった片桐の目、表情が忘れられず、こうして何度も脳裏によみがえっては俺をさいなむ。などと、一人で同じところをグルグルと廻り、悩み続けても良い結果には辿り着かない。だからこそ、片桐に連絡を取ってみたのだが。堂々巡りというか悪循環というか負のスパイラルというか。何も事が進まないまま、進められないまま、夏という時間は確実に流れて行った。


 ――先日、久しぶりに届いた橘さんからのメールには、片桐を心配し、思い遣る心情に溢れていた。自分が居なくなった後の片桐を案じ、そして、どうか支えてやってほしいと。


 俺は、今までに何度か片桐と橘さんの結び付きの強さのようなものを感じてきた。正直、恋人同士ではないことが不思議に思えることもあった。それでも、俺は片桐を信じていたし、橘さんが喫茶店で俺に言った言葉を信じ、俺は俺なりに片桐の隣に居た……つもりだった。


 実際、俺は片桐の隣に立てていたのだろうか? いや、それよりも、片桐は俺と付き合いたいと、付き合っていたいと、本当に思ってくれているのだろうか。何度となく考えては来たことだった。そこに何も不安が無いわけではなかった。しかし、幾度も開く花のような片桐の笑顔がそれを越えるほどに生まれ、惹かれ、片桐との距離は少しずつ縮まっていると。俺は、何となくだがそう思っていた。


 けれども、やはり心の奥底では何か引っ掛かりのような小さな棘のようなものを、俺は気付かぬ内に作り出したままだったのかもしれない。これも推測でしかない。だが、それを裏打ちするかの如く、あの日に喫茶店で俺が発した声には温度が無かった。それを今、悔やんでいる。後悔しても始まらない、とは良く聞くし、その通りだとも思う。あの時、ああしておけば良かったとは誰しも一度は思うだろう。しかし、それを実行することは出来ない。俺も例外では無い。だからこそ、前に進む時間の中で新しく築きたいと思い、夏休み中に何度か片桐にメールをしてみたのだが、夏バテしているという理由が主となり、外出は断られ続けた。水族館とか映画館とか室内で楽しめるものもあると思うのだが、片桐からすると家から出てそこまで移動するのも気が進まないらしい。心底、夏が苦手のようだ。と、橘さんからのメールを読むまで俺はそう思っていた。


 メールには、片桐の家庭事情が少しだけ書かれていた。本人に断りなく伝えるのは気が引けるけれど、と前置きされた後に続いた文章を読み、俺は今、片桐がどうしているのかが強く気に掛かっている。


 予感はあった。月並みな言い方だが、あまり円満な家庭では無いかもしれないな、と。片桐の誕生日を祝った去年の十二月二十五日、その帰り道。片桐が静かに言った言葉は俺の中に確かに残った。


『誕生日をお祝いしてもらうと、ここにいてもいいんだよって言ってもらえたような気がするんだ』


 それだけで家庭状況までに想像を広げるのは早計かもしれない。だが、他にも幾つかある小さな点のような事柄を集めてみると、俺の予想があながち間違いとは言い切れない気がした。そして実際、間違いでは無かったらしい。


 橘さんの話では、最近あまり片桐が家に来なくなったということだった。それはつまり、自分の、片桐の家に居る時間が増えているということだろうと。橘さんは以前に家庭教師をしていた時に感じたらしいのだが、片桐の母親は、勉強が出来る子が良い子である、という式があるようだと。それを片桐は負担に思っているらしく、その辺りから微妙に親子関係にズレが生じ、家に居るのがだんだん苦痛になり、橘さんの家に居る時間が増えて行ったと、そういうことらしかった。それが今、夏休みという休暇の中、片桐は橘さんの家に行かずに、おそらくは自宅に居るという。だから心配していると、橘さんは書いていた。それを読んだ時、片桐が気掛かりになったと同時に、何故、片桐は橘さんの家に行かなくなったのかと思った。そしてすぐに思い当たる。俺が、気になると言ったからだ。結果的に、あの時に片桐が言っていた「眠る為の部屋」を片桐は失ったことになる。


「そう、だよな……」


 静かな自室に独り言が響いて消える。


 片桐は、「眠る為の部屋」だと、橘さんの家全体を指して言っていた。だが、俺が気にするなら、そして自分でも考えた結果、そこに行く回数を減らすとも言った。それは、安眠や安堵の回数の減少に繋がるのではないだろうか。


 半紙の片隅にぽたりと滲んだ墨がジワリジワリと静かに確実に広がるように、不安が広がる。広がり続ける。それと同じように、絶えず日常は流れて行く。片桐とは、ポツポツとしたメールでしか連絡が取れないままに。


 ――やがて、夏という名を冠した暑さは緩やかに収束に向かう。誰が望まなくとも、望もうとも、季節の移り変わりは誰にも阻むことは出来ない。

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