第六章【片隅と隔心】9

 六月が去り、やがて訪れた夏休み。それは俺にとって高校生最後の夏休みで、大学進学を考えている身には大切な時間だった。基本的には自由参加の高校の夏期講習に対し、俺は積極的に受講予定を組んだ。大学受験に際し、推薦が貰えるとは限らないし、推薦で受かるとも限らない。出来ることを精一杯やっておくが吉だ。それに、高校での夏期講習は無料だ。素晴らしい。有名な学習塾なんかで講習を取ると、数万円は払わなくてはならないことになる。暑い毎日、いちいち電車に乗って高校まで来るのは面倒だが、無料には勝てない。内容がお粗末ならば来る価値は無いが、一年と二年の時に受けた講習はなかなか実りのあるものだった。


「怜君は勉強に一生懸命で偉いねー」


 駅のベンチ、隣でベルギーチョコレートのソフトクリームに夢中になりながら片桐が言った。その声は暑さのせいか、やや間延び気味である。


 れいくん、という響きが耳に残る。そんな風に呼ばれたことは、両親ぐらいからしか無いからだろうか。叔父も初めはそう呼んでいたが、そのうちに「君」が外れた。それを俺は悪く思っていない。


「暑いよう」


 セミの鳴き叫ぶ声が延々と続く中、視界には真っ青な空と真っ白な雲のコントラスト。夏特有の、じっとりとした空気。隣には、暑い暑いとポツポツ繰り返しながらソフトクリームを食べる片桐。


「夏だな」


「夏だよ?」


 平和そのものな時間が二人を包んで流れて行った。 

 





 ――ミンミンミン、というアブラゼミの鳴き声が真夏の暑さを助長する。そんな気がする。その日は特に暑い日で、俺が午前中の数学の講習と漢文の講習を受けた後に校舎を出ると、待ってましたと言わんばかりにジリジリと太陽光が俺を焦がした。時刻は午後十二時半、高い位置で太陽が輝く。高校から公共のバス停までを繋ぐ道の両側では、色濃い緑が自己を主張する。ちなみに高校の夏休み中は通学バスが動いていない。夏の熱気に白旗を振り掛けて公共のバスの時刻表を見ると、次が十五分後だった。


 暑さのせいで普段より長く感じられる駅までの道を歩いていると、ブレザーのポケットで携帯が震えた。こっそりと見てみると、背面ディスプレイに「片桐 綾」の文字。辺りにチラホラとしか生徒が歩いていないことを確認してから、俺はメールを見る。



 


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 From:片桐綾


 Sub:やっほう


 Text:ちょっと、ご相談したいことがあります。今日、時間あるかなー。アイスとか食べながらでも。


 

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 相談? その中身が気になりつつ俺が返信をすると、五分も経たない内に再びメールが着信する。


 

 


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 From:片桐綾



 Sub:ありがとう!



 Text:じゃあ私が駅に行こうか?その方が帰りも楽かなーと。


 

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 高校の最寄り駅近くにある喫茶店。俺がそこに着いてから一時間経たないくらいで片桐が姿を見せた。青空に流れる白雲のような、そんな模様のワンピースを着て。けれど、目の前に座った片桐の表情は雨が降り出す少し前のように曇っていた。


 片桐の注文した、ブルーベリーのフレーバードティーがテーブルに届けられる。やがて一つの雫が大海、或いは大地にゆっくりと落とされるように、片桐は驚くほど、静かに言った。


「転勤、するんだって」


「……誰が?」


 芳久が。そう、囁くような片桐の声がそっと宙に舞い、そして消えた。


 来月の八月末には転勤、つまり引っ越してしまうこと。行き先は大阪ということ。こちらに戻って来る予定は今のところは未定ということ。それらを昨日、聞いたこと。


 喫茶店内を緩やかに流れ巡るクラシックに絡め取られて消えてしまいそうなほど、話す片桐の声は小さく儚かった。それを注意深く聞き取り、時々返事をしている内に、俺は何を言ってやれば良いのかを考え始めていた。言ってやれば良いのか、などという考えはおこがましいのかもしれない。それでも俺は、何か言いたかった。それが何なのかが分からないままに。


「急な話だな」


「うん」


 シャボン玉のように、ぱちんと消えて無くなってしまいそうな片桐の声。


「昨日、会ったの?」


「最初メールしてて、途中で電話して」


 途切れる、声。場を繋ぐように、カランと氷の溶けゆく音がした。


「もしも」


「ん?」


「もしも、芳久が帰って来なかったらどうしよう」


 合わせた片桐の目に涙は無かった。けれども、そこに湛えられた不安や悲しみのようなものがゆらゆらと絶え間無く揺れているのが見えた気がして、俺は心の奥深くを急に掴まれたような錯覚を覚える。錯覚だろうか?


「いつ帰って来るって分かってれば、ここまでにはならないのかもしれないんだけど。その日まで待っていればいいんだって思えるかもしれないけど。でも」


 途切れる声。片桐の両目が僅かに伏せられる。


 手を伸ばせばすぐそこに片桐は居るのに、俺はまるで蜃気楼を相手にしているような頼り無さを感じた。もしかしたら手を伸ばしてしまうと、逃げ水のようにゆらんと遠ざかってしまうのかもしれない。俺を誘うように、からかうように、無邪気に。ただただ遠ざかってしまうのかもしれない。


 ――俺は何を考えているのだろう。片桐が蜃気楼や逃げ水のわけが無い。幻であるわけなど無い。


 ついにあまりの暑さにやられたかと、俺は自分の脳味噌に不安を覚える。しかし、ここは冷房の程良く効いた喫茶店の中。脳も心も、妨げられはしない。少なくとも、気温や室温によっては。


「いつ、帰って来るのかな……」


 長い沈黙の後、独り言のようにぽつんと片桐は言った。


 俺はと言えば返す言葉が見当たらず、ただ座って片桐を見ているだけだった。何とは無しにアイスコーヒーを飲むと、つられたように片桐もブルーベリーティーを飲んだ。


 店内にはあまり客が居ず、僅かな音量で流れ行くクラシックのメロディーがハッキリと耳に届けられるほどだ。その中で今、俺が考えるべきことは確かに分かっている。だが、考えられない。まるで何か正体の見えない不確かなものが俺の血に乗って巡っているように、それは緩やかに俺を支配し、考えるべきことから遠ざける。


「仕事のことだから、仕方無いよね」


 半分近くは空になったグラスを、コツ、とコースターの上に置き、片桐はやはり囁くように儚く告げる。


「分かってるんだ。どうしようもないっていうことは。私がどうにか出来ることでも、して良いことでも無いってことも。ちゃんと分かってる。それでも、私」


 不自然に、途切れた言葉。けれど不自然に途切れたからこそ、そこに存在する片桐の感情が良く分かるような気がした。


 俺は、片桐と橘さんが築いて来た形を知らない。橘さんが片桐の家庭教師だったことや、あの広く静かなマンションの一室に橘さんが住んでいて、そこに片桐が頻繁に行っていたことは知っていても、そんなのは所詮、表面上のことに過ぎない。そういう「事実」は、ほとんどの人が言われれば理解出来ることだろう。しかし、二人が過ごして来た時間や作り上げた形については、二人だけにしか分からない。二人以外の誰にも、理解することは出来ない。だから。


「寂しくなっちゃうな」


 だから、力無く笑った片桐がどんな想いでそう口にしたかなど、俺に分かりはしないのだ。


 ――否、分かりたくなかったのかもしれない。自分自身のことだって完璧に理解することは出来ないだろう。しかし、それは真実かもしれないが、今の俺には自分が導き出したその結論が逃げ道の他には到底、思えなかった。


「別に、これっきり会えないってわけじゃないだろ」


 片桐の頼り無い目が、俺のそれとぶつかる。ふと、逸らしたい気持ちが急速に込み上げて来る。


「メールとか電話だって出来るんだろ?」


「うん」


「その内、いつ頃に戻るかとか分かるようになるって」


「そうかな」


 気休めだ。俺が口にしているのは全て気休めに過ぎない。自分でも分かっている。だが、他に何が言えただろう。何を、言うべきなのだろう。


「あと……」


「どうした?」


 俺が先を促すと、


「引っ越すわけだから、あのマンションは手放すんじゃないのかなって」


 と、また両目を微かに伏せて片桐は言った。


 皆まで聞かずとも、片桐の言いたいことは分かりすぎるくらいに分かった。しかし、それこそどうにも出来ないことだ。あの家は当たり前に橘さんの家であり、片桐や、まして俺の持ち物ではないのだから。などという正論を突き付けたところで片桐が安らぐはずはないので、そんなことは間違っても告げはしないが。


「そうかもしれないな」


「そうかもしれないよね」


 巡るクラシックが、まるで鎖か何かのように俺達を取り巻いているような気がした。俺達の会話には発展性が無く、同じところをグルグルと廻っているだけのようだった。


「日常って、変化するんだね」


 片桐のその言葉は、俺にひどく強く響いた。片桐の中で、橘さんの存在は「日常」になっていた。それが、もうすぐに去ろうとしている。片桐にとって、どんなに衝撃的だろうか。


 ふと、思う。冷静に思考しているようでいて、その実、俺は冷静ではないかもしれない。表面的な現実を捉える力はあっても、内面的な心情を捉える力は無いかもしれない。それを裏付けるかのように、俺は自分でも思ってもみなかったことを吐き出した。


「片桐にとって凄く大きな存在なんだな」


 橘さんは。言外にそう告げた俺は、自分自身、生まれた言葉が信じられなかった。言葉自体もそうだが、その色も温度も冷たく無機質だったことを。主観的なだけでは無く客観的に見てもそうであることの証明が、片桐の大きく見開かれた目だった。


 さっきまで、不安と心配と悲嘆とで、消え掛けの蝋燭の火のように揺らめいていた二つの瞳が、瞬間、驚愕や戸惑いに満ちて、まるく大きく開かれた。だが、それはまたすぐに曇り、伏せられる。そのまま片桐はブルーベリーティーにそっと手を伸ばし、静かにそれを飲んだ。


 ――空になる、グラス。俺の方のグラスも空っぽになり、互いのそれには中途半端に溶け残った透明な氷が、まるで水晶のごとくにキラリと光っていた。


 時間にしてみれば僅かな間だったのかもしれない。しかし、俺は喫茶店に入ってから今までの中で、一番、落ち着かない心持ちでいた。他ならない自分のせいであることは良く分かっていた。そして何よりも沈黙が体に纏わり付くようで重く、苦しかった。


「別に世界が終わるってわけじゃないしね。そのうち帰って来るかもしれないし、怜君の言う通り、連絡が取れなくなっちゃうわけじゃないし」


 ね。と、伏せていた両の目を上げて片桐は少しだけ笑って見せた。


「ごめんね、何だか深刻風味になって。考えすぎだよね」


 だが、見せる笑顔には無理があった。悲しみをこらえて無理に笑って見せたのだ。きっと。


「あんまり考えないようにするね」


 片桐のそれらの言葉は必死に自分自身に言い聞かせるようで。そして、それは間違い無く俺が言わせたに違いない。


 分かっている。分かりすぎるほどに分かっている。伝わって来る。息苦しく、裂かれるような感覚さえ。それなのに何故、俺は未だに黙り込んだままなのだろう。


「ごめんね、急に。会ってくれてありがとう」


 刹那、散るように微笑みが咲いた。真っ青なワンピースに真っ白な模様、それと相まったのか、一瞬の舞い落ちるような笑顔がまるで空に溶けて行くような雲のように俺の目には映り。そして消えた。


 サラリと片桐のワンピースが揺れる。静かに席を立つ片桐に遅れて俺も席を立つ。片桐は怒ってはいないのだろう。表情も雰囲気も所作も、それを語らない。本当のところなどは誰にも分かりはしないけれど。俺はただ、片桐の後ろ姿を見ながら思った。

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