第六章【片隅と隔心】8

 文化祭最終日翌日。午前中は文化祭の後片付けで潰れるのだから楽で良いじゃないか、と、何とか片桐を説得した俺は、片桐と一緒に登校した。厳密に言えば、授業が潰れるのは望ましくないし、片付けはそれはそれで面倒だ。後半には片桐も同感らしく、本来の理由に加えて欠席を希望していたが、そこを何とか連れ出すことに成功したわけである。


「相模原君、何だか一生懸命だね。何で?」


 と、片桐に無邪気に尋ねられても、俺自身、その理由は良く分かりはしない。


 ただ、片桐はいつ連続して休むか分からないわけで。学校に来られる時は来ておいた方が良いだろうと思うのだ。俺が「片桐に一生懸命」なのは、それだけでは無いかもしれないが。


 気怠さを押して文化祭の残骸を片付けながら、どうせ捨てるなら作らなければ良いのにと、俺はふと思った。前日まで光を受けていたものが、こうしてたった二日間で跡形も無く打ち壊され捨てられて行くのを見ると、少なからず哀愁を覚える。クラスの女子はそんなことに関心は無さそうな様子で、数人で集まりながら楽しそうに話をしつつ手を動かしていた。その中に俺は昨日の二人を見付け、また言い表し難い怒りにも似た感情が沸々とよみがえって来たのを感じた。


 昨日の夜に聞いた片桐と橘さんからの話によると、俺を探しに模擬店まで来た片桐は、その場に居た俺のクラスの女子二人に棘のある言葉を言われたらしい。内容は片桐自身も詳しく話してくれなかったが、どうやら二年生の片桐と三年生の俺が付き合っている(とは彼女達は断定出来てはいないらしいが)ことが気に入らなかったらしい。


 正直、どうでも良くないか? と思ってしまう。片桐が、では無い。二年と三年、片桐と俺が付き合っていることだ。互いの友人なら多少気になる恋愛話ということになるかもしれないが(事実、響野は結構な割合で尋ねて来る)、さして親しくも無いクラスメイトなどの恋愛が気になるものだろうか。


「どーでも良いな……」


 ダンボールの束を括る俺の口から小さく独り言が洩れて行った。






 ――その日、やっと文化祭の後片付けが済み、校内にはいつも通りの風景が取り戻された。


 放課後を迎え、珍しく響野がコロッケを奢ってやると言うので片桐共々、俺達三人は一緒に帰路を歩くことになった。


「お前らって、いつも歩いて帰ってるのか?」


「ああ」


「何で?」


「金が勿体無いから」


「私はそれもあるけど、この距離に百円以上お支払いするのは何だか残念賞気分だから」


 三人で歩くのは本当に珍しい。それ以上に、響野が奢ると言い出したことが珍しい。


「どういう風の吹き回しだよ」


「何が?」


「突然、コロッケ奢るって」


「ああ、別にコロッケじゃなくても良いぞ。ハムカツとか唐揚げでも」


 いや、そこは聞いていない。


「まあ何て言うか、無事に文化祭が終わったことで、俺からお前への労いというところかな」


「気持ち悪い」


「じゃあ食べなくて良いよ。片桐さんと食べるし」


「いや、食べるけどさ」


 中学からの付き合いがある響野だが、自分から率先的に「奢る」などと言って来たことはほぼ無い。俺の記憶にある限りでは二回だ。それが何故、今回突然にこんな話になったのか。俺は心底、不思議だった。まさか本当に文化祭に纏わる労いということは無いだろう。


 そういう俺の疑問を読み取ったのか、


「文化祭のっていうか、あれだな。サガミさ、クラスの女子とちょっとあっただろ。あれに対してお疲れさまってとこ」


 と、先程より少しばかり真面目なトーンで響野は言った。


「ああ、理解した」


「えっ、なになに?」


 興味津々といった感じで俺を見上げて来た片桐に話すべきか迷ったが、


「ほら、片桐に余計なこと言った奴が居ただろ。それでちょっとな」


 と、俺はぼやかし気味に伝えた。


 わざわざ一から十まで話して、再び不快な気持ちを思い出させることは無いと思ったからだ。


「あー、なるほど。え、相模原君も何かぶつかったの?」


「そんな大袈裟なことじゃない」


「話によるとカッコ良かったらしいですよ、サガミ君」


 少し前を歩き、振り向きながら言う響野がちょっと鬱陶しいと思った俺は、きっと間違ってはいない。


 高校の最寄り駅を少し左に行った路地に、その惣菜屋はいつもひっそりと開かれている。時々、高校生数人が店の前に立って思い思いにコロッケなどを食べているのを目にする。勿論、買い食いは良くない。しかし、学校帰りにこうして何かを買って食べるのはどうしたって魅力的なのである。奢りとなれば尚更だ。


 当の響野は早々にコロッケを一つ頼み、揚げ立てだという熱々のそれにたっぷりとソースを掛けて頬張っている。


「片桐、決まった?」


「うん、あのジャガイモが三つ刺さってるの」


俺は遠慮無く響野に会計を頼み(片桐の分も響野が支払ってくれた)、響野はコロッケ、俺はハムカツ、片桐はジャガイモ串をそれぞれに食べた。


 ここの惣菜屋は量の割に安く、しかもおいしい。しばし俺達三人が無言で食べ続けるぐらいに。


「買い食いって良いですねー」


 やがて、ひどく幸せそうに言った片桐に俺と響野は強く同意した。


 他愛無い話をし、俺達は駅へと歩く。俺は一応、奢って貰ったことに対し響野に礼を言うと片桐もそれに重ねる。しかし返って来た響野の言葉は全然関係の無いものだった。


「二人って付き合ってるのに名字呼びなんだな」


「あ、ホントだ!」


 片桐は、ハッとした様子で言った。


「名前にする?」


「あー……どっちでも片桐の好きな方で良いよ」


「目の前でイチャイチャされると複雑なんですけど」


 そうこうしている内に両ホームに電車がガタガタと走り込んで来て、そこで会話は途切れた――はずだった。


「名前にするね、怜君!」


 と、僅かに大きな声が背後でした。


 思わず電車に乗った瞬間に振り向くと、笑顔でひらりと手を振って見せた片桐と目が合う。その隣では響野がニヤニヤとした目で俺を見ていた。腹立たしい。


 お互いに違う方向へと電車は走り出し、やがていつもの風景が目に映り始めると、何となく安堵の息が零れた。自分でも理由は良く分からない。その正体が安堵なのかさえも実は分からなかった。ただ、文化祭という行事が終わり、片桐に笑顔が戻ったことは間違いなく嬉しかった。


 ――変化して行く紫陽花の色のように、俺と片桐は互いの呼び方が変わり、それに引っ張られるようにして目に見えない何かが少しずつ変化しているような気がした。俺は未だに片桐と呼んでしまうことが多く、綾と呼んだ回数は少ない。少しずつ、本当に少しずつだが俺達は変わって行った。それが何処に向かっているのかは、俺にも、きっと片桐にも分からない。まるで万華鏡が次々に生み出す模様のように――それよりはスピードが遅くとも――その形は捉え難いものだった。

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