第六章【片隅と隔心】4
″――彼女には、お気に入りの場所があった。雨露が凌げ、日光を遮ってくれ、空腹を感じた時には、その両腕から惜しげも無く果実を落としてくれる、緑豊かな樹の下だ。
彼女は、そこを離れなかった。時間のほとんどを、そこで過ごした。おいしいパン、香りの良い紅茶、読み掛けの小説。それらを持っては出掛けて行く。小高い丘の上に立つ、大好きな樹の下へ。
大樹が広げた、その両の腕には橙色のまるい実が美しく実り、陽光を一身に受けて、まるで太陽の子供のようにキラリキラリと輝いている。夜は、月と星の光に柔らかく照らされて、そこに宿る温かな心を示すかのようなまるい姿を――果実を宙に現していた。
大樹は、いつでも彼女を拒まなかった。朝も昼も夜も彼女を、ただただ迎え入れた。彼女は、降るようにそっと重ねられて積もって行くその事実に、ただただ安心していた。
ただ、彼女を迎え入れる大樹。ただ、安心する彼女。その間に流れるであろう何かには名前があるのだろうか。喩えば愛情、喩えば信頼、喩えば親愛。それは誰にも今は分からなかった。
否、分かる時など永遠に来ないのかもしれない。それでも良いと彼女は思っていた。彼女は、失いたくない、奪われたくない、ここにずっとこうして居たい。その祈りとも言うべき願いが叶うなら、叶えられ続けるなら。それならばそれ以外のことなど、どんな風だろうと構わなかった。
彼女の世界は、ちっぽけだった。名称だけを持つ「家」、痛みを与えられる「行き先」、安堵に包み込まれる「大樹」。これら三つが彼女を取り巻く世界であり環境であり全てだった。ちっぽけな世界は、ちっぽけに完結していた。
ぽとん、と彼女のスカートの上に色鮮やかな橙色の果実が落ちる。彼女は甘酸っぱい香りを広げるそれを手に取り、香りを楽しんだ後に、さくりと綺麗に皮を剥く。水分を抱え込んだ果実は彼女の喉を潤す。体を潤す。柑橘の香りは彼女を包む。それは幸福。
そんな毎日が、毎日続く。「家」も「行き先」も彼女を傷めたが大樹には棘は無く、あるのは穏やかな幸だけ。彼女は
――明日が来なければ良い。そう、彼女は願う。それでも必ず陽は昇り、必ず陽は沈む。そのサイクルが崩れることも崩されることも決して無い。それと同じように「家」と「行き先」と「大樹」の形作るトライアングルも、崩れることも崩されることも無いと彼女は思っていた。思い続けていた。
しかし、ある日、唐突に変化は訪れる。その夜は、いつもより月が赤に近い色に染まり、いつもより星が強く輝き、いつもより丘に生えた細い草という草がヒンヤリと冷たい、そんな静かな夜だった。何の音もしない夜なのに何処かが落ち着かず、何処かが騒がしいような感じが焦燥に似た何かの感覚となって彼女を息苦しいほどに押し包んでいた。
ドドドド、という音が不意に夜の静寂を破り、彼女の耳に一直線に届けられる。彼女がふと振り向いた先、山のようになってそこにある果実が彼女の瞳に映り込んだ。そこに一歩一歩と近付いた彼女は、自分の体の奥底、まるで何か未知の生き物をそこに飼ってしまったかのような不安を覚えた。胸が痛かった。脈打つそれは鮮やかな鼓動の心音を生み出し、彼女に与え続けて行く。
やがて小さな山となっている果実に辿り着いた彼女は、力を無くしたのか気が抜けたのか引き寄せられたのか、ぺたんとそこに座り込んだ。手を伸ばし、一つのまるい実を手に取ってみると、それはしっとりと彼女の片手に馴染んだ。もう片方の手で実を包み込むようにすると、それはますます彼女に馴染む。彼女の為だけに作られたかのように。
一つを手に抱いたまま、彼女は片方の手を山の方へと、そうっと伸ばした。触れる。そこに体温など感じないはずなのに、彼女は確かに温かみを感じ取っていた。それは実際的なものでは無く錯覚的、或いは想像的なものだったかもしれない。そうであってほしいという、彼女の願望によるものだったかもしれない。その時、深い闇に染まった夜空を大量の小さな光がヒュンヒュンと走り抜けた。まるで何かが泣いているような音だった。空から生じたその音に導かれるようにして、彼女はハッと顔を上げ、夜の空を見つめた。
クロスグリの実のように真っ黒で少しばかり深い紫の混じった夜の空には、それはもう次から次へと矢のように光が流れ、降り注いでいた。その今まで見たことの無い幻想的な
しばらく
彼女は、まるで何かに怯えるように震え、まるで何かから守るように、或いは
弾かれたようにして彼女は立ち上がり、落ちた果実の行き先を見定めつつ追い掛けようと一歩を踏み出す。しかし、月も星も無い夜の空の下では転がり落ちて行く実の行き先など見えず、果実と草がぶつかり合って立てるサラサラという僅かな音に頼るしか無かった。
闇の中を彼女は走り出す。最早、彼女の頭の中には止まらない果実を再びその手の中に抱くことしか存在していなかった。サラサラサラサラと、柔らかな川の流れる音のようなそれは、絶えず彼女を引き寄せ続けた。彼女自身が音の一部ででもあるかのように、彼女は転がり行く一つの果実を追い掛けた。追い掛け続けた。
やがて丘の一番下まで落ちた果実は、そこから更に数メートル先まで進み、やっとその歩みを止めた。遅れて、彼女がそこに到達する。果実を拾い上げてその無事を確認した後、心底から安心し切ったように彼女は小さく息をついた。
そして、ふと彼女は手の中の果実から自分の目の前へと視線を移す。そこには広大な草原が、ただ悠々とその姿を見せていた。
いつの間にか溢れ出していた光が、広々とした草原を照らし出す。数え切れないほどの細く柔らかな草に包まれたそこは広く、限り無いほどに広く。
途端、明るい薄緑色の草が一斉に揺れた。緩やかな風が吹いたのだ。彼女の左手側から右手側へと抜けて行く風は、サラサラという先程に耳にした川の流れるそれに良く似た音を生み出す。遊ばれるように草が揺れる。遥か彼方には地と空の境目が見えた。風が止むと音も止む。ぴたりと動かなくなった草原は、先程の揺れる柔らかな様子を唐突に消し去り、彼女の目前にその姿を晒す。
彼女は、サク、と一歩を踏み出した。また一歩、更にまた一歩と踏み出す。足が彼女の意思から切り離されたかのように、意思に反するかのように動き出したのだ。
彼女の意思。それは一体、何だろうか。彼女もまた、それについて考えていた。考えながらも両足は前進を
彼女は自分の右手の中にある果実に意識を向ける。足を動かしながら、右手を自分の目の前へと持って行く。まるく、橙色で、手のひらに収まる小さな可愛らしい果実。僅かに柑橘の香りが彼女に届けられた。果実に左手を添えて、両手で包み込むようにして胸の前でそれを抱く。その間も前進は
どれくらい歩いただろう。時間にしろ距離にしろ、その程度が彼女には良く分からなかった。一分かもしれないし、一時間かもしれない。十メートルかもしれないし、百メートルかもしれない。それが彼女には全く分からなかった。被膜に包まれたかのように。
何故か、誰かに呼ばれたような気がして彼女は振り向く。そこで初めて、彼女は歩みを
前も後ろも同じ草原。しかし、突然そこにゆらりと現れたものがあった。陽炎のように揺らめきながら現れたそれは、確かに彼女には見覚えがあった。いや、見覚えどころではない。それは彼女を守り、慈しみ、潤いを与えてくれた、与え続けてくれたもの。彼女にとって大切な、失えないもの。
小高い丘が彼女の瞳に映る。そこに立つ大樹が彼女の目に映り込む。それは彼女を取り巻くトライアングルの一つ。その中で最も大切なもの。彼女自身、どんな言葉で言い表せば良いのか分からないぐらい、それは非常に大事なもの。失うことなど、手放すことなど、今までに一度たりとも考えたことは無い。それが今や、とてもとても遠くにあった。
「あ」
不意に彼女の口から一つの音が洩れ出た。それは驚きか、悲しみか。彼女は呼吸も忘れたようにひたすらに大樹を見つめ、決して視線を逸らそうとはしなかった。その時、距離的に断じて見えるはずのないものが彼女の目に飛び込んで来た。ズームアップをしたかのように彼女の視界は大樹に迫り、そしてそこに実る多くの果実を捉える。彼女の両手が包んでいるそれと同じような果実が、数え切れないほどに実っている。
彼女の視界は、次に大樹と丘の全景を映す。思い出と呼ぶには未だ鮮烈すぎるそれが、彼女の全身を駆け巡る。そこで過ごした時間、与えられた時間、与えられた果実、守られた記憶。それがあったからこそ彼女は彼女を取り巻くトライアングルを耐えることが出来た。そうでなければ、たちまちトライアングルは形を失い、バランスを欠き、いつか彼女を飲み込んだだろう。それを一番良く知るのは彼女に他ならない。
しかし彼女が今、見つめている、向いている方向は後ろだ。呼ばれた気がして振り向いた先に大樹はあった。それが意味するものは。
別離。その二文字が、強く彼女を打った。いや、まだそうと決まったわけでは無い。まだ取り返しの付かないところまで来てしまったわけでは無い。すぐに引き返せば良いのだ、別れたくないのならば。しかし何故だろう、彼女の足はそこに根が生えたかのように動かなかった。視線は今もそのまま大樹を見つめ、視界には様々な角度からの大樹と丘と果実がグルグルと映る。巡る。
キラキラと、彼女の頭の上では変わらずに太陽のような光が光る。風は、そよとも吹かない。草一本、揺れることは無い。そこに立つ彼女も動かない。まるで一枚の絵画のようだった。それを壊したのは彼女自身だった。彼女の視界は通常を取り戻し、再び大樹は遠くなる。手の届かない場所に戻る。彼女と大樹の間には遠い距離が広がる。それは渡ることを許されない天の川のようだった。
彼女は、くるりと背を向けて歩き出した。前へ。小高い丘に、大樹に、決別するように背を向けて。前へ、前へ。そこには先程には無い、確かな意思が芯を持って宿っている。それを彼女自身もまた感じていた。
風が吹いた。両の手で包まれた果実から香りが舞った。それに惹かれるようにして、彼女は歩きながら果実の皮をさくりと剥く。たちまちにして強く舞い上がる柑橘の芳香。十二に分かれた実の内の一つを、神聖なものを口にするような面持ちで彼女は食べた。彼女の喉は自分でも気が付かなかったほどに渇いており、滑り落ちて行く水分がしっとりとそこを癒やす。
一度だけ、彼女は振り向いた。呼ばれたからでは無い、彼女の意思で振り向いた。そこには依然として小高い丘と大樹が見えたが、それらは先程よりも彼方にあり、かろうじて見えるくらいに遠くなっていた。その小さな景観が不意にゆらりと揺れた。現れた時と同じように、陽炎のように。消えることは無かった。ただ、ゆらゆらと揺れていた。それを目の奥に焼き付けるようにしてじっと見続けた後、彼女は体を反転させて再び歩き出した。″
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