第六章【片隅と隔心】1
高校と公共のバス停を繋ぐ道の両側に植樹されている桜の木は、もう全て葉桜となっていた。桃色の花びらがひらひらと宙を舞うことは無くなり、舗道を飾っていた柔らかなそれはいつしか姿を消した。
春の訪れというものは寒く冷たい冬の向こう側にあるせいなのか、非常に待ち遠しい。しかし、いざ訪れてみると、あっと言う間に過ぎ去ってしまう。既に季節は夏の訪問予定をちらつかせ、樹木の葉も雑草も、その予感を感じ取ろうとでもするかのように色濃く、力強く伸びていた。
「ムシムシする」
「そうだな」
「暑い暑い暑い」
「言うと余計に暑くなる」
「確かに。体感温度が上がった気がする」
「やっぱ、バス乗れば良かったかもな」
「節約」
五月の末日近く。俺達の広げる会話は、じっとりとした暑さの影響からか、簡潔なものになっていた。
帰宅する生徒のほとんどが通学バスや公共バスに乗り込む中、俺と片桐は片道三十分程はある駅への道を、てくてくと歩き続けている。帰りのホームルームが終わってすぐに学校を出たにも関わらず、前を行く生徒は数人しか見当たらない。それは放課後になって俺達が帰路を辿り始めたのが早いということなのか、バスを選択しなかったゆえなのか。後者のような気がした。
日光の勢いはそれほどに強くないのかもしれないが無風に近く、湿気がじわじわと体中に纏わり付いて来る。まだ梅雨の時期には早いと思うのだが。
暑さに負けたかのようにして、しばらく黙り込んだまま俺達は足を進めていた。やがていつもの書店を通り過ぎた辺りで、あ、と片桐が思い出したように声を発した。
「どうした?」
「暑さで思い出した。もうすぐ文化祭ってやつじゃないですか」
「ああ、そういえば」
「今年は、どうしよっかなー」
思案するように言い、更に「どうしよう」と再び繰り返す片桐。
「どうしようって、何が?」
「避難所。どこにしようかなって」
「避難?」
文化祭とは結び付かないその単語に俺は疑問を覚え、左隣を歩く片桐を見ると、ちょうど片桐も俺を見上げたところだった。
「文化祭のどこに文化を感じるのか甚だ疑問なんだよね。相模原君は文化祭に文化を感じる?」
「いや、良く分からない行事だと思う」
俺がそう言うと、パッと片桐の顔が輝いた――ような気がした。
「やった、気が合う! 楓は文化祭が好きみたいでね、もう凄く楽しみにしてるの。模擬店だったら何を売りたいとか、お化け屋敷だったら何を作りたいとか、展示は当日が退屈そうだから嫌とか。盛り上がり方が異常」
「異常って、何もそこまで」
「去年、私に文化祭は無理と分かったので今年は避難所に避難することに決めているんだ。それをどこにしようかな、というお話」
そこで視線を前方に戻し、
「誰か何とかしてくれないかなと思うけど。そんなことは無理だろうから。それなら私が私を何とかするしかないんだよね」
と、先程より少しだけトーンが低くなった声で片桐は付け足した。
俺はそこまで文化祭に嫌悪は感じていないが、別に好感も覚えない。無ければ無いで構わない行事だと思う。準備の日や当日は授業が潰れてラッキーぐらいには思うが。しかし、さすがに高校三年生の今の時期、ラッキーとは考え難い面もある。
「去年、片桐のクラスは何をやったんだ?」
「去年?」
片桐が聞き返した後、少しの間が空いた。
「去年……忘れちゃった」
「え、全然覚えてないの? 店とか展示とか」
俺は驚き、そう言うと、片桐は予想もしていなかった真面目な声で告げた。
「人間は、そんなに沢山のことを覚えていられないの。不要な記憶はリセットして行かないと脳がもたない」
そして、ね? と、俺を見上げて笑った。
返事を返しつつも、俺はその見事な笑顔に視線と心が吸い寄せられたような気がして、思わず息を呑んだ。
しかし次の瞬間には、ふっと力を抜いたような表情を見せたかと思うと、
「アイスクリーム食べたくなってきた」
と、夢みるような瞳で片桐は言う。
――出会ってから今日までずっと、俺は底知れない片桐が気になって仕方が無い。
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