第五章【糖分と塩分】13
――俺が大人だったら。片桐を前にして、俺はそう思わずにはいられなかった。
片桐が橘さんの家に泊まりに行く理由を、俺は
あの日、「ここは眠る為の部屋」と言った片桐の言葉に嘘は無かった。しかし俺は誤解していたようで、あの言葉が指すのは寝室だけだと思っていたが、どうやら違ったようだ。片桐は、この家全体を指して言ったようだった。
結局、橘さんが出張に出ている間の二週間、俺はこのマンションに来続けた。そこにある事情はたった一つ、片桐がここにいるからだ。
片桐は、学校を休みたがった。しかし、俺は何とか学校へ行くよう説得し、結果、成功した。説得と言うほど大した話はしていないのだが、学校を休むことや欠席日数が増えて行くデメリット等について切々と話してみたところ、意外にも片桐は真面目に聞いてくれた。また、欠席より遅刻や早退の方がまだマシだということも伝えておいた。遅刻や早退は二回で欠席一回分になる。遅刻二回イコール欠席一回、早退二回イコール欠席一回、遅刻一回と早退一回で欠席一回という案配だ。担任の城井から聞いた話だから間違い無い。なるべくなら多くは休んでほしくは無いし、遅刻や早退も少ない方が良い。俺がそう言うと片桐は少し考えるように黙り込んだ後、分かった、とポソリと言った。その時は若干、不満そうな様子であったが、翌日から片桐は学校に来ている。
放課後、教室の後ろ扉を開けると壁に寄り掛かって立っている片桐がいる。まさかそれがこんなにも安堵することだとは、俺は思いも寄っていなかった。だが、俺は安堵すると同時に無力感を覚えずにはいられない。片桐が抱えているものを取り除くことが出来ない。橘さんは、それは出来ないまでも片桐に空間を提供することが出来た。片桐が安心して眠ることの出来る場所を。
俺に出来ることは限られていた。話を聞く、メールをする、電話をする、一緒に帰路を歩く。冷静に考えてみて、たったそれだけかと俺は落胆した。他に何か無いものだろうか。片桐を前にすると良くそれについて考えるのだが、他に浮かばないのだから本当に困った。
だが、あれから片桐が少し変わった気がして、それだけが救いと言えなくも無い。元々、色々な話をくるくると良く話してくれてはいたが、そこに日常でぶつかる小さな不満や悩みなども織り交ぜられるようになったのだ。もしかしたら今まで、片桐は意識して明るさのある話だけを俺にしていたのだろうか。
「今日ねー、楓に言われたんだけど。橘さんの家に泊まりに行くのっておかしくない? だって。おかしい?」
唐突に告げられた言葉に俺は口に含んだばかりのコーヒーが空間に飛んで行く予感を覚え、慌ててそれを飲み込んだ。味わう暇などありはしない。
「おかしいと言うか……気にはなっていた」
そう、気にはなっていた。今は橘さんは不在だが、普段はおそらく居るのだろう。ここは紛れも無く橘さんの家だからだ。
「私ね、あんまりおかしいと思ったこと無かったんだけど。私が来たいと思って芳久が良いと言ってくれる、だから何も問題無いと」
「確かに、二人の間ではそういうことになるのかもしれないんだけどさ」
「だけど?」
先を促され、俺は言葉に詰まった。チューリップのようなコーヒーカップを置くと同時、なみなみとオレンジジュースが注がれたグラスを持って片桐が俺の前に座った。そして、じいっと俺を見ている。
「楓が言うには、付き合っているならまだしも別れたのにそれはマズいって。どうマズいのって聞いたら、相模原君は何も言わないのって逆に聞かれた。何も言わないよって言ったら、一度、話をしてみることを勧めます、なんて真顔で言って来るものだからさ」
で、相模原君はこれについてどう思う? そう問い掛けて、片桐は一気にグラスの半分くらいまでをゴクゴクと飲んだ。そして満足そうにグラスをテーブルに置き、俺の回答を罪の無い笑顔で待っている。
何がおかしくて何が普通かなど、誰にも分かりはしないだろう。判断基準は人によって異なるし価値観も違う。たとえ常識と呼ばれるものですら、それが全ての人間に適用されるかと聞かれれば明確に答えることは出来ない。少なくとも俺は。
だが、今の状況は何処かおかしいような気がする。ガラスのテーブルの上には所狭しと数々の料理が並べられ、俺はコーヒー、片桐はオレンジジュースを手に寛いでいる。俺の誕生日を祝う為、ということで片桐が大きなマカロニの入ったグラタンやら、ツナとコーンとアスパラのサラダやら、目玉焼きの載ったハンバーグやらを学校から帰って早々に作ってくれたのだが。
今日、学校が終わった後に俺と片桐は真っ直ぐここに来た。そして片桐が料理をし、俺の誕生日を祝う。寛ぐ。橘さんの家で。しかし橘さんは居ない。確かに橘さんは自分が居なくてもここに来て構わないと丁寧にも鍵を貸してくれはした。だが。
俺は改めて料理の並んだテーブルの上を眺める。やはり、何かおかしい気がしてならない。
「グラタン、おいしく出来たよ?」
食べないの? と言わんばかりに、片桐はマカロニに銀色のフォークをプスリと刺しながら俺に問う。
「うん、うまい」
俺がそう言うと片桐はにこにこと笑った。ホワイトソースまで手作りという、チーズたっぷりで程良く表面に焦げ目が付いたグラタンを食べると、思わず素直な感想が洩れた。確かに、うまい。ハンバーグやサラダも美味だ。けれど。
「この状況は違和感あるよな」
「違和感?」
「ここは橘さんの家なのに橘さんが居ない間に上がり込んで、しかもこんな寛いでさ。おかしいだろ、これ」
「でも、私はいつもこんな感じだけど。芳久だって相模原君が来て良いと思ったから鍵を渡したんでしょ?」
その、まるで何がおかしいの? と言うかのような口調に俺がおかしいのかと錯覚させられてしまいそうになる。
いや、この際、何がおかしいとかおかしく無いとかは関係無いとしておくことにしよう。とにかく今現在、俺が覚えている違和感へ焦点を当てることに努める。そして、初めに片桐が言った質問について。とは思うものの、結論めいたものは既に俺の中で形を取りつつあった。俺には、片桐から奪う権利など無い。片桐が安心して眠ることの出来る、この場所を。俺がそれに代わるものを与えることが出来るなら、まだ許されるのかもしれないが。生憎、一介の高校生にそんな力は備わっていない。
「片桐が、ここに来たいと思うなら。それならそれで良いと思う」
「そう?」
「けど、気になる」
「何が?」
「片桐がここに来ているということが」
「ん?」
軽く首を傾げた片桐。自分でも的を射ない言い方をしている自覚があるので、片桐のそれは不思議では無かった。
しかしどう伝えるべきか悩んでいた所、前触れも無く片桐が納得顔で、
「分かった!」
と、心なしか目を輝かせて言ったので、瞬間、ドキリと緊張が走った。
「もしかしなくとも、相模原君が気にしているのは男女のそれ?」
そんな無邪気に口にされても対応に困る。
「それなら問題無いよ、何も無いから。寝る部屋は別だし、芳久は帰りが遅い日の方が圧倒的に多いから私が一人の時間だらけだし。それに、毎日ここに来ているわけじゃないし」
「仕事、忙しいのかな」
「あんまり詳しく聞いたこと無いけど、多分。船がどうのこうのとか言ってた気がするから貿易関係かも?」
その時、俺は橘さんの職業よりも気になったことがあった。
「じゃあ片桐って、一人でここに居ることもあるのか?」
「ていうか、ほぼ一人。泊まって朝早くに起きると芳久が居ることが多いけど、泊まった日は大抵、起きるのがお昼とか夕方だし。土曜日とか日曜日なら、夕方でも居るかな。夜は居ないことが多いよ」
説明口調で淡々と述べる片桐。そこからは何の感情も読み取れ無かった。
ただ、俺の頭の中には映像が浮かんだ。夜にホットミルクを作り、そこに少しの砂糖を溶かして。アロマキャンドルとポプリから生まれるラベンダーの香りに包まれ、オルゴールのメロディーに包まれ、一人で眠りに手を伸ばす片桐が。
「そんなわけなので、安心して頂いて大丈夫ですよ」
そう言って、相変わらず流麗な仕草でグラタンやサラダを食べて行く片桐。そこには何の淀みも無いように思えた。
「ああ、楓が言ってたのはそういうことだったのかな。何となく分かったような気がする。ごめんね、配慮不足だったかもしれない」
しかし突然、カチリとフォークを置き、片桐が真剣な瞳で俺を見た。思わず俺はカップをソーサーに置き、そんなことは無いと片桐の言葉に否定を返した。あまりにも片桐の様子が真摯だった為に、どこか焦燥感すら覚えたほどだ。
「ごめん」
「いや、謝らなくて良いよ」
「相模原君が嫌なら、もうここへは来ない」
言い切る片桐の声は静かで、とても落ち着いていた。俺を責める響きなどかけらも持たず、不愉快そうな響きも無かった。
正直、俺は返答を迷った。確かに気になることは事実だ。片桐が橘さんの家に行っている、そして時々は泊まっているということは。しかし、ここで平穏を手にしている片桐が居ることも事実。それを取り上げる権利など俺には無い。
複雑な心境だった。本当に。するとそれを察したのか、俺を見つめる片桐の瞳に困惑が滲み、揺れた。そして伏せられる。
「やっぱり無神経だったかな」
「そんなこと無いよ、気にしなくて良いし落ち込むことじゃない。片桐がそうしたいなら、それで良いんだ」
それは俺の真実だった。
「じゃあ、せめて回数を減らそうかな……」
「その辺は任すよ。俺はさっきの話を聞いて事情は分かったから」
「あ、男女の?」
「そんなところ」
上げられた片桐の目には困惑が浮かんだままだったが、少しだけ安心したようにも見えた。
――その後、料理の全てを綺麗に食べ終えた俺達は少しの間、話をした。それは高校のことだったり、好きな食べ物のことだったり、鉱石についてだったり。
俺が橘さんの家を後にする頃、時間は夜の九時に届こうとしていた。見送ってくれた片桐は笑顔で手を振ってくれ、俺はそれに喜びよりも安堵感を強く覚えて手を振り返した。
帰り道、星の綺麗な夜だった。メレダイヤのように小さな白い光をチカチカと放つ星々と、冴え冴えと太陽光に似た光を放つ半月が、ただ静かに物言わず、行く道を照らした。
夜の街並みに足音が響く。街路灯に照らし出された、駅前近くに僅かに植えられている桜の木は少しばかりの花を残し、その枝々のほとんどを緑の葉で埋め尽くしていた。毎年、桜の花は散ることが早いなということを思わせられる。
歩いている人はまばらだ。踏切を渡り、夜独特のしっとりとした雰囲気の中を歩いていると、何度も目にして来た片桐の笑顔と数回だけ目にした涙が、幾重にも重なる花びらのようにして、ふと心の奥にひらりひらりと咲いて行くのを感じた。その感覚は、ひどく不思議な感覚だった。どう言えば良いのだろう。今まで一度たりとも感じたことの無いそれに、俺は言い表し難い感情と言うか感覚と言うか……何かを掴み掛けては突き放されるような、困惑や戸惑いのようなものを確かに内側に覚えていた。それは、あの時に見た、水晶の中でちりちりと揺らめき燃えていた赤と橙の混ざり合った火のようで。そして緩く、鈍く、しかし確実に息づき俺の内を焦がしていた。
穏やかな夜の空気とは相反する、何処か落ち着かない、そわそわとした心を抱えて俺は帰路を歩いた。一歩一歩、足を進め、やがて家が見える頃、俺はその炎の正体を掴んだ。ああ、片桐だ、と。ゆらゆらと掴みどころの無い姿で、明るく、暗く、小さく、大きく揺れる炎は片桐だった。
夜気を含んだ春の暖かい風が空気を動かし、通り抜けて行く。そこには微かに木々の香りも包み込まれていた。
――俺が高校生では無く、大学生だったら。大学生では無く、社会人だったら。俺は、もっと実質的なことを片桐にしてやれるのだろうか。
今日も片桐は、あの部屋で眠るのだろう。キャンドルを灯し、穏やかなラベンダーの香りにくるまれて。もしかしたらホットミルクを飲むかもしれない、オルゴールの螺子を回すかもしれない。
胸がキシリと音を立て、痛んだ。
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