第五章【糖分と塩分】12
良く回らない頭で、とりあえず俺は鍵を閉めた。最近は物騒だからな。泥棒が入って来たら困る。
……いや、考えるべきはそんなことでは無くてだな。鈍く回転を続ける脳を抱えて俺は廊下を戻った。先程まで俺を含む二人の人間がいたリビングは、まるでその事実を無きものとしたかのようにひっそりとしていた。
ガラステーブルの上には飲み掛けのコーヒーと、そしてこの家の鍵が置かれている。俺は意識的にそこから目を逸らし、少し前と同様にソファに座った。何となく首を捻ると、窓の側に佇む植物が目に入る。絡み合うように伸びる枝の上、光沢のある深緑の葉がまるく集まっていた。
――この展開は一体、何事だ。そんな独白が脳味噌にポッと生まれた。そしてそれはグルグルと脳内を廻り出す。まるで俺をここに縛り付けるかのように。
二匹の蛇が互いに体を絡め合わせたような観葉植物の枝を見ながら、俺は思考を整頓しようと試みた。が、それはすぐに遮断されることとなる。カチャリ、という金属音が静かな空間に響いたかと思うと、パタンパタンという足音がゆっくりと繰り返され、そしてその持ち主がリビングに現れた。
「あれ……相模原君? 何してるの?」
何処かぼんやりとした夢心地な声が、ふわんと室内に広がって消えた。何してるの。それは
いや、片桐の様子を見に来たのだ。橘さんの許可を貰って。ただ、その橘さんは出張だとかで既に居なく、テーブルの上には家の鍵。これを俺はどうしたら良いのだろうか。
確かに片桐のことは気に掛かる。心配だ。だが、家主が留守の家に合鍵を使って上がり込み、そこにいる片桐の様子を窺うというのは何処かおかしな気がするのだ。
などと俺が考えている内に片桐はキッチンの方へと歩き、そして何やら冷蔵庫を開けたような音が聞こえた。その後、カチャカチャという食器の音とシューっという液体の沸騰音が聞こえ、やがてマグカップ片手に片桐がリビングに戻って来た。片桐は慣れた様子でソファに座り、マグの中に、フーッと息を吹き掛ける。ほわほわとした湯気が立ち上っていた。
「あ、相模原君も飲みたかった?」
「それ、何?」
「ホットミルク、砂糖入り。飲む?」
「いや、いい」
片桐は両手でマグカップを持ち、フーフーと冷ましている。そして少しだけそれを飲んだ。熱い、と小さく言い、マグカップをテーブルに置く。マグカップには赤いリボンを片耳に結んだピンクのうさぎが描かれていた。
「あれ、芳久いないの?」
キョロ、と辺りを見回し、ぼうっとした声音で片桐が尋ねた。俺が、出張らしいと答えると、ああ、そういえばそんなこと言ってた、と片桐は思い出したように呟く。
以前に来た時にも思ったが、この家は本当に静かだ。隣室などからの生活音がまるで聞こえて来ない。この空間だけが現実から切り離されているという錯覚すら覚えるほどに。
「何これ」
再びマグカップを持とうとした片桐が、テーブル上に視線を縫い留めた。それは俺が今、問題としている鍵を捉えている。
「まさか、鍵忘れて行っちゃった?」
「いや、持って行ったと思うよ」
「じゃあ何でここに置いてあるんだろう。仕舞い忘れかな」
片桐のその言葉に俺は沈黙する。どう言うべきか分からなかったからだ。しかし片桐はすぐに鍵から視線を剥がし、マグカップにそれを戻す。そしてホットミルクを愛おしそうに飲んだ。
「あ。今、何時だろう」
独り言のように言い、リビングの奥の隅にあるカラーボックス上を片桐は見上げる。そこには白い枠のまるい時計が掛けられていた。
俺は初めて、この部屋に時計があったことに気が付く。静寂に加担するかのように秒針の音が無いせいだろう、今までその存在に全く気付かなかった。時計は、夕方六時を指そうとしているところだった。
片桐はホットミルクを少しずつ飲んでいる。それを俺は、何処か現実離れした頭で眺めていた。
「そういえば。相模原君は何してるの?」
ここで。言外にそう告げて、片桐は最初の質問を繰り返した。確かに、思えば俺はその問いに答えていなかった。片桐が再度、尋ねて来るのは至極当然のことだ。しかし。
「特に何もしていないな。敢えて言うならコーヒーを飲んで、橘さんと話してた」
自分の言葉で飲み掛けのコーヒーのことを思い出し、俺は目の前のチューリップのような形状のコーヒーカップを手にした。コーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
「芳久と、どんな話したの?」
無邪気な様子で片桐が問い掛ける。
「片桐について」
「私について?」
端的に返した言葉。そのまま疑問とされた言葉。
俺は思い切って切り出した。
「最近、学校休んでるだろ」
途端に表情の曇る片桐。俺は、そうなることが分かっていた。それでも聞かずにはいられない。
「メール見た?」
「ごめん、電源切りっ放しだ」
「放課後、居ないから心配してた」
「うん。ごめん」
途切れる会話。片桐がホットミルクを飲む。俺はコーヒーを飲む。それらが互いに二度、繰り返された後、この雰囲気には不似合いな
「寝ようかな」
ポツリ、落とされた言葉はすぐに部屋の静穏に吸い込まれて行く。消え去って行く。その寂しげな物言いが、柔らかな棘のように俺の胸を刺した。
「寝るって、今から? 今まで寝てたんじゃないのか?」
「うん」
おそらくは二つの意味合いで片桐が頷く。
「ホットミルクって睡眠を誘うよね」
「ああ、トリプトファンがセロトニンを作る材料に……いや、そんなことを話したいんじゃなくてだな。体調、悪いのか?」
「体調……風邪とかじゃないけど。眠たい。凄く」
凄く、にアクセントを置いて告げた後、また一つ片桐は欠伸をした。確かにひどく眠たそうだ。見ているこちらの睡眠欲まで引き出しそうなくらいに。
「昨日、寝なかったのか?」
「多分、眠ったとは思うけど。睡眠過多で日付の感覚がぼやけてる。良く分かんない」
片桐はどうでも良さそうに言って両手を前方へ伸ばし、眠たい、と小さく呟く。
「何か、あった?」
ついに俺は核心を尋ねた。と言うのも、このままだと片桐は本当に夢の世界へと飛んで行きそうだったからだ。早く原因を聞き出し、出来るなら解決策か、準じる何かを示したい。その焦りから生じた問いだった。
「何か……」
乾いた声で言い、そして考え込むように片桐は黙り込む。半分程、残ったホットミルクに注がれていた目線が、一瞬、揺らいだ。それを俺は見逃さなかった。
しかし、俺は片桐の次の言葉を待った。無理矢理に聞き出したくは無かった。仮に言いたくないならそれで良いとも思う。だが、このまま片桐が学校を休むことは回避したい。その一心で片桐から紡がれる言葉を俺は待っていた。
沈黙が続いた。リビングは本当に静かだった。何処か見知らぬ土地に一人放り出されたような、頼り無さのようなものを感じるほどに。
「ごめん。寝る」
「え?」
今までのぼんやりとした、夢に片足を入れているような声とは相反する、キッパリとした口調で片桐は言い放った。そして残っていたホットミルクを一気に飲み干すとスパリと立ち上がり、リビングを出て行こうとした。
「いや、ちょっと待って」
「眠たすぎて無理です」
その声には拒絶の色が濃く滲み出ていた。もしかしたら今まで聞いたことの無いものだったかもしれない。驚きは覚えたのだが、それよりも俺は気になることがあり、そこに構っている暇など無かった。
片桐はスタスタとリビングを出て、廊下の右にある扉を開く。予想に反して扉は閉められなかった。しかしながら中に入って良いものか躊躇いを覚え、四十度ぐらいの開かれた隙間から俺は様子を窺った。
室内は意外に広く、目に付いたのはベッドと小さな机だった。そのベッドの上に沈み込むように座った片桐はスリッパをポンポンと脱ぎ捨て、俯き加減で片足をゆらゆらと動かしていた。
「あのさ……言いたくないなら言わなくて良いんだけどさ。あんまり学校を休むと授業に遅れが出るし」
ここまで言い、何だか教師みたいで嫌だなと俺は自分で自分に嫌気が差した。
どうやら片桐も同じことを思ったらしく、
「先生みたいで嫌な感じ」
と、言った。
そして、ベッドから跳ねるようにして下り、机の横に立つと何やら手元に視線を落とした。ややあって、カチッという音がした後、片桐の手元が僅かに明るくなる。そしてそれは机の上を中心に広がった。キャンドルだった。その灯りを背に、片桐は真っ直ぐに俺の方へ向かって歩いて来る。何だろうと思っていたら、扉付近の照明スイッチが目的だったようだ。片桐がスイッチを押して明るさを落とすと、元々、少し暗めだった室内は更に暗くなる。キャンドルの火が存在を主張するかのように
室内の照明を絞った後、すぐにクルリと
何? と言いたそうに見上げて来る片桐の両目が俺とぶつかった。それに対する答えを持っているような、いないような――正直なところ、自分でも良く分からない心情で俺は片桐を見ていた。戸惑いを含んだ片桐のまるい瞳が揺れる。俺は何を言いたいのだろう。
「私、疲れてるから座りたい」
そこには、先程のような拒絶めいた響きは無かった。
「ああ、悪い」
反射的に俺が手を離すと、片桐はふらりとベッドへ戻って行った。その揺らめく炎のような震えるような動きが、まるで水槽の中を泳ぐ熱帯魚のようだった。ポスリとベッドに腰掛け、また片足をつまらなさそうに揺らす片桐。眠たいと言っていた割には、ベッドに潜る気配が無かった。
それを俺が不思議に思った頃、
「相模原君も座ったら?」
と、静かな、それでいて柔らかな片桐の声が降るように注がれた。
「それとも、もう帰る? 家の人、待ってるよね。ご飯とか」
「いや、言って来たから大丈夫」
俺は静かに片桐の隣に座った。すると、何か良い香りが鼻先を走って行く。どうやら机上で燃えているキャンドルからの香りのようだ。アロマキャンドルという奴だろうか。
片桐は未だ片足を揺らしていた。その横顔を、
「家に、居たくなくて」
その、たった一言に想いは凝縮されていた。
胸が締め付けられるようだった。それくらい、片桐が発した言葉は悲しく、深い響きを持っていた。
キャンドルの炎が揺れる。机の周りを照らす、まるい光が揺れる。薄暗い室内に生まれたコントラストは、とても幻想的に空間を包んでいた。その幻想めいた部屋で、片桐はポツポツと言葉を繋げた。それは俺に話していると言うよりも誰も居ない場所で一人、静かに囁いているような印象をもたらした。キャンドルの炎から広がる橙の灯りが片桐の目の表面に映り、ゆうらりと揺れる。俺の目も、片桐から見ればそう映るのだろうか。しかし片桐は顔を上げないまま、水滴が落下するように静かにポツポツと、消え入りそうな声で話すだけだった。
――時間にしてみれば三十分には満たないものだったかもしれない。けれどもその短い時間は、まるで時の止まった海底で水に揺れていたような、そんな不確かさを与えて来るものだった。部屋の雰囲気のせいかもしれない。
何となく片桐の家の様子が良好では無さそうなことは、今日を除いても今までの会話の端々から窺えた。別に良好か否かを問題にするつもりは無い。問題は、片桐の心が受ける重みだと俺は思っていた。だが、まさかここまで片桐が疲弊しているとは知らず、また気付かずにいた自分を思うと居た堪れなくなった。それでも、片桐と同じ高校生、片桐より一学年上というだけの俺に、具体的解決策を示すことは出来なかった。それがとても悔しい。
俺がそう言うと、俯いていた顔をゆるりと上げて、感情の宿らないように見えた表情を一転、意外にも片桐は笑って見せた。不意に目に飛び込んだその笑顔に、俺は不覚にもドキリとした。だが、その笑顔には陰があった。決して震える炎のせいでは無いだろう。そこには何かを諦めたような受け入れているような、寂しい表情があった。俺は何を言うべきか迷っていた。視界の片隅でチラチラと光る炎がこちらを窺っているような、そんな気がしていた。
けれど、俺が何を言わずとも、片桐の中で既に結論は出ていることを知った。やがてまた、途切れ途切れにポツポツと片桐が話してくれたからだ。先程よりも幾分かは光の灯された声で。
両手の指先を合わせて語る片桐。その声には少しずつ芯が通り始めていた。それなのに俺は見ていて息苦しさを感じていた。まるで水の中にいる時のように。或いは、呼吸の仕方を忘れたかのように。
そんな俺の心情など知らず、片桐は淡々と話し続けた。俺の発した言葉はごく僅かで、その多くが、うん、とか、ああ、とかだった。それでも特に不満そうな様子など見せず、片桐は話して行く。俺は話を聞いている心の片隅で、炎に照らされた黒髪が綺麗だと思った。
やがて話し終えた片桐は、いつしか交差していた自身の指先を解き、両手をそっと膝の上に置いた。片桐の声が広がらなくなった室内は、途端に静けさが支配する。
俺は、自分の手を見ながら言葉を選んでいた。いや、探していたと言うべきか。片桐に何かを言いたかった。伝えたかった。しかし、俺は今、片桐に何を伝えようとしているのだろう。そんな根本的なところから俺は自身の思考を始めなければならず、その事実をもどかしく思った。
ジジ、とキャンドルの芯が燃える音がした。しんとした室内にそれは意外に良く通った。
「良い香りでしょ。ラベンダーなの」
不意に片桐が言い、そちらを向くと自分のつま先を見つめている片桐が視界に入った。
「アロマキャンドル。ラベンダーの香りは良く眠れるんだって」
「聞いたことはあるな」
会話は途切れ、そしてまた静寂。物音一つせず、薄暗い室内を照らす炎のせいなのか、時間の流れがうまく把握出来ない。
「ここは、眠る為の部屋なの」
また不意に片桐が言った。
「眠る為?」
「そう、眠る為」
俺の聞き返しをそのまま肯定し、片桐は頷いた。
その声には悲しみこそ無かったが、何処か俺を落ち着かなくさせた。うまく言えないが、遠い、知らないところへ片桐がヒュウと吸い込まれていなくなってしまいそうな。そんな、気がした。
片桐は、あまり間を空けずに次の言葉を続けた。
「眠る前には、こうやってラベンダーのアロマキャンドルを点けるの。ホットミルクを飲んだり。ホットミルクには、ちょっとお砂糖を入れるのが好き。枕の中にはラベンダーのポプリが入っているし、ベッドサイドにも置いてある。オルゴールもあるよ」
立ち上がり、ベッドサイドに置かれた小さな木製の小箱を持って片桐は再びベッドの上にポンと座った。キリキリキリと、螺子を巻く。すると、何処かで聴いたことのあるメロディーがオルゴール特有の少しの悲しさを伴って流れ始めた。
これは小物入れにもなっているんだと告げて、片桐はその小さな正方形の蓋を開ける。薄暗い室内でハッキリとは分からなかったが、そこには以前に見た石が一つ、ポツンと置かれていた。確か水晶と言っただろうか。
「これ、相模原君が拾ってくれたよね」
「ああ、そうだな」
「あの時、本当に嬉しかった。ありがとう」
「いや」
水晶がキャンドルの光を受けて神秘的に煌めく。「銀河鉄道の夜」に、水晶の中で小さな火が燃えているという描写があったことを思い出した。
「あのさ」
俺は何かに後押しされるようにして言葉を発した。片桐が、こちらを見上げる。
「俺が片桐に、実質的にしてやれることって少ないのかもしれないけど。もしかしたら無いのかもしれないけどさ。でも前にも話したように、何かあった時は言ってほしい。それで俺に出来ることがあればしたいし、もしも無くても、それでもやっぱり話してほしい。俺は、片桐が悩んでいることを知らずにいたくない。勿論、話してくれなくとも察したいとは思う」
オルゴールの音色が次第にゆっくりとしたものになって行く。
「俺は、片桐がそんな風に泣くのを我慢しているような顔でいられると、辛い。片桐が嫌じゃなかったら、さっきみたいに色々なことを話してほしい。それが明るい話じゃなくても構わない。絶対に真剣に聞くから」
やがてオルゴールの音が、ふつりと止まった。
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