第五章【糖分と塩分】11

 その日の夜九時、俺はまた短いメールを片桐に書いてみたが、日付が変わる頃になっても返事は返って来なかった。そして翌日の放課後も廊下に片桐の姿は無く、そのまま一時間待ってみてもそれは同じだった。


 帰宅後にメールを書いてみる。返信が無い。電話をしてみる。お決まりのガイダンスが流れる。翌日の放課後、片桐は来ない。それを三日繰り返した後、俺は考えた末に橘さんにメールを書いた。


 橘さんからはすぐに返信があった。片桐は俺の家にいる、と。そして、状態があまり良くないので都合が付くようなら様子を見に来て貰えないか、と続けられていた。俺が行って大丈夫かと尋ねてみたら、多分大丈夫という返事が来た。


 ――そして翌日の夕方、俺は橘さんの家のマンション下に立っていた。部屋番号を覚えていないので橘さんにメールで尋ねると、返信後、間を開けずに施錠されたエントランスの扉が静かな音を立てて開かれた。それを、やや緊張気味に通り抜け、エレベーターで九階まで上がる。玄関扉の前に立った時、何故か心臓が嫌な音でドクリと鳴った。そんな気がした。


 少し躊躇いつつインターホンを押すと、ピンポーンというゆったりとした音が響いた。やがて鍵の開く音がし、橘さんが顔を出す。


「こんにちは」


 扉を広く開けながら落ち着いたアルトで橘さんがそう言い、慌てて俺も挨拶をする。


「あ、こんにちは。お久しぶりです」


 玄関は以前来た時と変わらず、とても綺麗だった。靴を揃え、お邪魔します、と言って上がる。出されたスリッパを履き、木目の美しい廊下を橘さんに続いて歩く。リビングに出ると、ソファを勧められた。


「コーヒーは好き? 他に紅茶もあるよ」


「コーヒーで大丈夫です」


 カチャカチャという食器がぶつかる小さな音がした後、橘さんは俺の前に座って軽く髪を掻き上げた。


「今、コーヒー淹れてるから」


「ありがとうございます」


 広いリビングは、しんとしていた。その静まり返ったリビングで、俺と橘さんは黙ったまま向かい合っていた。


 そういえば、片桐は何処にいるのだろう。別の部屋だろうか。開かれたままのリビングと廊下を繋ぐ扉、その奥に見える扉に目を遣った時、俺の疑問を察したかのように橘さんが口を開いた。


「今、綾は寝てるんだ」


「あ、そうなんですか」


 そして再び沈黙が俺達を押し包む。その重苦しい雰囲気が、もしや事態は思ったより深刻なのでは無いだろうかと、俺の奥底で警鐘が鳴った。


 コポコポと、コーヒーの出来て行く音がする。静かな部屋に、その音は意外にも大きく聞こえた。


 ゆっくりと立ち上がった橘さんが、一つ大きく伸びをしてからキッチンの方へと歩いて行く。やがて、二客のコーヒーカップと砂糖とミルクをお盆に載せて橘さんは戻って来た。チューリップのような形をした真っ白なコーヒーカップ。その中でコーヒーが良い香りを立て、揺らめいていた。


「綾なんだけど。二日前にウチに来てね」


「はい」


「明らかに何かあったとは思うんだけど、聞いても言わないんだ。何度、尋ねてみても言わない。仕方無いからそのままなんだけど、今日で三日、学校を休んでる。相模原君は何か聞いてる?」


「いえ、何も」


 お互い、コーヒーに少しの砂糖を入れてミルクを落としながら話した。ポチャン、とミルクがコーヒーの中に落ちると、ゆらゆらと溶けながらそれは、ぽうぽう、とカップの底から浮かび上がって来る。


「まだ三日、とも取れるんだけど、もう三日、とも取れるんだよね。綾は時々、こうやって学校を休む。それが一日の場合もあるし、一週間の場合もある」


 カップとスプーンがぶつかり合う小さな音が響く。そうしてミルクは完全にコーヒーに溶け、セピア色とカラメル色を足して二で割ったような温かい色味になった。


「知ってるかもしれないけれど、綾は一年の時、単位が危ない教科があった。試験の点数と言うより、授業の出席日数がギリギリだったせいで。だから心配になってね」


 一口、橘さんがコーヒーを飲んだ。俺も倣うようにしてコーヒーを飲む。深い香りと味が駆け抜けて行った。


「三日休んで単位が危なくなるなんてことは無いだろうけど、授業内容は飛ぶだろうし、提出物だってあるかもしれない。それに進級早々にこうなって、これを今後も繰り返してしまうと」


 橘さんはカップを置き、そこで言葉を切った。


 皆まで聞かずとも、言いたいことは良く分かった。片桐が今までどれくらいの頻度で欠席を繰り返して来たかは分からないが、喩えば三日単位の欠席を頻繁にしてしまったら。当然の如く、授業の出席日数は削られて行くだろう。そして、また。


 はあ、と橘さんが溜め息をついた。


「休むな、とは言わないんだけど。休みすぎだと思うんだよね。何せ単位が危うくなるくらいだから。勿論、それだけの何かがあったんだとは思うんだけどさ」


「いつも、橘さんにも理由は話してくれないんですか?」


「話す時もあるし話さない時もある。そして今回は今のところ、沈黙」


「そうですか……」


 再びコーヒーを飲んだ後、橘さんは続けた。


「相模原君にも言ってないんだろう? 困ったな。明日辺りは学校に行くかな。ほとんど寝てばかりなんだよね。熱は無いし風邪とかでは無いみたいなんだけど」


 しかし、その言葉は俺に聞かせると言うよりも独り言めいた印象を受けた。心配と、憂いと、困惑が強く滲んだ言葉。そこに愛情はあるのかと、俺はふと思ってしまった。


 橘さんと片桐が付き合っていなくとも、俺は二人の間に強く結び付く何かを感じていた。友人や恋人とも違う、言い表し難い何か。橘さんや片桐が発する言葉の端々から、俺はそれを感じていた。それを不快だとは言わない。ただ、それを感じ取るたびに心の何処かがざわめきを生み出し、俺を落ち着かない気分にさせる。


「実は俺、今日から出張に行かないとならないんだよね。二週間程」


「は?」


 唐突に変わった話題に、俺は間の抜けた声が出てしまった。しかし気にした風も無く、橘さんは話を続ける。


「そろそろ空港に行かないと間に合わなくてさ。ああ、相模原君は一人暮らし?」


「いえ、違います」


「そうだよね。じゃあ都合の付く時だけで構わないからさ、時折、綾を見に来てやってくれない?」


「え?」


 不思議そうな目をしていたのだろう、それを受けた橘さんが補足するように言を継ぐ。


「俺もメールとかはするつもりなんだけど、電源切っているみたいだから返事があるか分からないし。あの様子の綾を放っておくのは結構心配なんだよね。で、相模原君にお願い出来たらと。聞いたんだけど、綾と付き合っているんだよね?」


「はい。そうですけど」


 半ば緊張気味に俺は肯定した。


「それなら綾も嫌がらないだろうし。ダメかな?」


「いえ、そんなことは無いですけど。でも、様子を見るって」


 俺がここに来るということだろうか? しかし今、橘さんは出張に行くと言わなかっただろうか。その疑問をまたも察したように、橘さんは口を開く。


「鍵は綾が持ってるから。あ、でも寝てると開けない場合もあるのか」


 一人納得したように言って橘さんはソファから立ち上がる。リビングを出て、廊下の左側にある扉の先へと入った後、すぐに橘さんは戻って来た。そして再度ソファに座り、その手に持っているものを目の前のガラステーブルの上にパチリと置く。俺は目を見開いた。何処をどう見ても、これは鍵だ。しかも話の流れから言えば、もしかしなくとも。


「これが家の鍵。綾が開けなかったら、これで入って」


「え、あの」


「大丈夫、俺は別に持っているから困らないし」


「いえ、そういうことでは無くて」


 俺は、眼前に座る人と置かれた鍵を見比べてしまった。いや、誰だって驚くだろう。驚かないのか? これは普通の流れか? 


 橘さんは、どうかした? とでも言うように、にこにこと微笑んでいる。


 いや、ちょっと待って下さいと俺は言いたい。俺と橘さんはここまで親しかっただろうか。橘さんの不在中に自宅の鍵を預かる程に? 喩え名目が片桐の様子を見る為だとして、この展開には何処かおかしな点があるのでは無いだろうか。いや、ある。


 変わらずに金属の光沢を示す鍵から目を離し、俺は橘さんに尋ねた。出来るだけ丁重に。


「あの、これはここの家の鍵ですよね」


「そうだよ?」


「それを俺に貸してくれるということでしょうか」


「そうそう」


「その心は、一体」


「えっ、だから綾の様子を見るのにドアが開かなかったら困るからって。まさかドアを破壊して中に入るつもりじゃないよね?」


 どうも俺の意図するところがうまく伝わっていないようだ。俺は微かな目眩を覚えた。


「いえ、そういうことでは無くてですね」


 何とか俺は自分の思う所を伝えようと口を開いたのだが、それは橘さんの明るい声によって遮られる。


「ああ、俺は相模原君のことは信用しているから大丈夫。何しろ綾と付き合っている人だからね。悪用なんかするわけ無い」


 そう言い切り、そしておもむろにコーヒーカップを持って立ち上がると、


「申し訳無いんだけど、そろそろ行かないとならなくてね。慌ただしくてごめんね」


 と、謝罪を口にした。


 キッチンに足を向け、おそらくはカップをシンクに置き、すぐに戻って来た橘さんはリビングの片隅、観葉植物の隣に置いてあった深い藍色のスーツケースに手を掛けた。


 橘さんはそれを持ち、


「また機会があったら話したいな。俺は行くけど、ゆっくりして行ってくれて構わないよ。何なら泊まって行ってね」


 と、爽やかに言って玄関先へとスタスタ歩いて行った。


 慌てて俺は立ち上がり、後を追い掛けると、既に橘さんは靴を履き終えてドアノブに手を伸ばしていた所だった。そして俺に気が付き、振り返った橘さんは突き抜ける青空のような清々しい笑顔だった。


「それじゃ、綾をよろしくね。俺もメールとかはしてみるから」


 言い残し、橘さんは扉を開けて行ってしまった。カチャン、という扉の閉まる控え目な音が消えた後には、呆気に取られた俺が一人、玄関先に残された。

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