第五章【糖分と塩分】8
以前に橘さんと来た喫茶店。あの時と同じように店内にはクラシックが控え目な音量で流れ、落ち着ける空間を作り出していた。
窓側のボックス席に座り、注文をした後、俺は手持ち無沙汰に水を飲んだ。片桐は、ぼんやりとした様子で窓の外を見ている。それに倣うようにして俺も外へと視線を向けると、遠くの方に駅へと向かう生徒の姿がパラパラと見えた。以前よりも日が落ちるのが遅くなって来たのか、時刻が夕方になり掛けている現在、まだ空は明るいままだった。
「お待たせしました」
運ばれて来たコーヒーと紅茶、チョコレートケーキにシフォンケーキ。それらがテーブルの上に置かれて行くと、ウェイトレスの声がした時点で振り返っていた片桐の纏う空気がキラキラと光り始めたようだった。
ウェイトレスが去ると、早速、片桐はフォークを手に持って紅茶のシフォンケーキを一切れ、口に運ぶ。やはり、その所作は流水のように綺麗だった。
「おいしい!」
そう言って、笑う片桐。やっぱり片桐は笑っている方が良いな、と俺は自然に考えてしまった。以前までは、片桐に対してここまで明確に自分の感情を自覚することは無かったように思う。
俺はコーヒーを飲んでからビターチョコレートケーキを食べた。程良い苦味の効いたそれは、好みの味だった。そして再び、コーヒーを飲む。クラシックが廻る。喫茶店内を包み込むクラシックは、フレデリック・ショパンの「夜想曲 第二番 変ホ長調 作品九-二」だった。
カチャ、と僅かに音を立ててティーカップを手に取った後、片桐はゆったりとそれに口を付けた。そして、また僅かな音と共にティーカップを置く。そこで口を開いた片桐の声と向けられた眼差しは、疑いに満ちたものだった。
「ね、本当ーに誤解してない?」
「してないって」
疑問には思っていたが。が、まだ「誤解」のレベルには達していなかったのだ。嘘は言っていない。
じ、と俺を見つめたまま視線を逸らそうとしない片桐。疑っています、と言わんばかりだ。しばらくその均衡状態が続いた。何か言うべきかと言葉を探していた俺を遮るように、不意に片桐が一つ、ため息をついた。そして目線を手元のティーカップへと注ぐ。
「私、話してなかったよね。芳久とお付き合いしていたってこと」
確認を求めるように、間が空く。俺が短く肯定すると、片桐はスティックシュガーの袋をピリリと破り、サラサラと中身をカップの中に入れた。それを銀色のティースプーンでゆっくりと混ぜながら、続きを同じようにゆっくりと話し始めた。
「中学三年生の時、家庭教師として芳久と会ったの。高校受験に備えての勉強をする為とか言って、母が勝手に頼んだんだ。勉強にそんなに興味は無かったから面倒だと思ったけど、塾よりは日数が少なくて済むし、どっちか絶対なら家庭教師かなってことで」
手元から視線を離さないまま、片桐は言葉を続けて行く。
「細かいところは飛ばすけれど、だんだん私は芳久を好きになっていってね。勉強だけじゃなくて学校とか家の話を聞いてくれたし、おいしいパン屋さんに連れて行ってくれることもあった。告白は私から。ダメだと思ってた。年齢も離れているし、生徒の一人ぐらいにしか思われてないだろうって。それでも伝えずにはいられなかったから。ただ、ダメでも良いっていう覚悟みたいなのはしてた」
片桐はそこで言葉を切り、スプーンを動かす手を止めた。少ししたあとで、それを静かにティーカップから引き上げ、ソーサーにそっと横たえる。視線は未だ上げられないままだった。
「でも、芳久も私と同じ気持ちになっていたって知って。凄く嬉しかった。本当に。こんなに嬉しいことは、もうきっと二度と無いと思うくらいに。だけど、だけど私達は別れたの。私が高校に上がって二ヵ月くらい経った時、芳久の方から」
止まった言葉。上がらない視線。語る片桐の言葉は淡々としているようで、当たり前のように陰があった。聞いているこちらが苦しくなるほどに。
――芳久の方から。その後に続けられた言葉は、以前に橘さんから聞いた話の通りだった。恋人同士にならなくとも、俺達は一緒にいられるのだから、と。そして、俺の感情と綾の感情には差異がある、と告げられたということだった。
「差異?」
聞き返すと、こくりと片桐は頷いた。僅かに黒髪が揺れる。
「私が芳久を好きっていう気持ちと、芳久が私を好きっていう気持ちは違うんだって。良く分からないけど。そういう話を何度かして、別れることになったの」
膝上に乗せられていた手の片方をそっとテーブルの上に出し、片桐はティーカップに指を添えた。しかし、それ以上動かすことは無いままで、まるで時間が止まったかのように静止していた。
俺は、何とも言えない複雑な心情でコーヒーを口に入れた。
三度か、四度目になるだろうか、店内を流れるクラシックが変わった。その溶けるようにゆらりと柔らかなメロディーが、俺の脳味噌をゆらりと包み込む。考えなければならないことがあり、言わなければならないことがある。それなのに、そう思っている自分自身が何故か遠くに感じられるのだ。思考する場所、脳に被膜が張られたように。
目の前に座る片桐は、今もティーカップに指先を添えたまま悲しげに俯いていた。それが俺には不自然に映る。何故だろう。片桐は、身動きすら許されないとでも言うかのようにピクリとも動かない。それを何とか和らげてやりたいのだが、どうしたら良いか分からない。
コーヒーにミルクが混ざる時のような、ゆったりとした自分の思考回路に嫌気が差す。その遅すぎる情報伝達の理由を先に考えてみたところ、意外にもそれはすぐに回答が弾き出された。
――現実感が無いのだ。目の前に座る、今の片桐に。
現実感が無い代わりに強く違和感を覚えた。その理由はすぐに分かった。俺はここまで悲しそうな片桐を見たことが無いからだ。明日、いや今にも世界が終わってしまうとでも言うかのような。
言うべき言葉が見付からない。見付けられないと言うべきか。その中で一つ俺が掴んだ単語は「差異」というもの。先程に片桐の唇から紡ぎ出された言葉だ。
「さっき、差異があるって言ってたけど」
首だけを小さく縦に動かし、頷く片桐。
「自分と自分以外の人で、気持ちに違いがあるのって当たり前じゃないのか? 俺はそう思うんだけど」
「え?」
おずおずといった感じで、片桐がやっと顔を上げた。その事実に俺は少なからずホッとする。
「自分と他人は別の人間だろ。違うことを思っていて当然じゃないのか? 逆に自分と全く同じことを思っている人に出会ったら俺は怖い、かなり」
目の前の片桐の表情が変わったことに気が付く。何と言うか、呆気に取られたように見えるのだが。俺は何かおかしなことを言っただろうか。
内心、チラリと焦りが生じたその時、
「あ……そうだよね」
と、片桐がやはり何処かポカンとしたような様子で言った。
「おかしいこと言ったかな」
「ううん、おかしくない。全然。その通り!」
片桐のその言葉の最後には、エクスクラメーションマークが見えた。僅かに明かりが灯された言葉のようにも思える。
片桐はしばらく、そっかー、とか、確かに、とか小さく口の中で呟いていた。そして紅茶を飲むと、半分以上残っていたシフォンケーキにフォークを差し込み、それをもぐもぐと食べ始めた。つられるように俺もチョコレートケーキの続きに取り掛かる。
それからあまり間を空けず、片桐が俺の名前を呼んだ。フォークを置いてそちらを見ると、先程よりは緩やかな顔をした片桐とカチリと視線がぶつかった。
「えっと、まとめ。そんなこんなで私と芳久はお別れしましたが、友達関係は続いているんだ。それがもしかしたら相模原君に誤解を与えたかもしれないと……って、これは楓に言われて気付いたことなんだけど」
「うん」
「もし、そうだとしたらごめん。私が好きなのは相模原君です」
「うん」
そのまま俺が黙っていると、片桐もそれきり黙ったままだった。片桐は残されていた最後のシフォンケーキの一切れを惜しむように口に運び、紅茶を飲む。そのティーカップは空っぽになり、白い底が見えていた。
――また、クラシックが変わった。窓の外に目を遣ると、少しずつ夕暮れ時を迎えようとしている景色が目に映り込む。ちらほらと数人の生徒の姿が見えた。部活動の帰りだろうか。
ここに流れる時間はとても緩やかだった。静かに流れ行く川の水のような、コーヒーに溶けて行くミルクのような、日だまりの中でまどろむような時間だった。店内にいる人は先程よりも減っていた。
俺は残りのチョコレートケーキとコーヒーを味わい、カップを置いて顔を上げた。その時の、衝撃を。何と言ったら良いのだろう。その時に目にした片桐の表情を。
「ん?」
驚きが顔に出ていたのか、片桐は不思議そうに首を傾げて見せた。この時にはもう、数秒前の鮮烈な表情は消えてしまっていた。しかし、確かに何かが残されたのだ。俺の中に。
「おいしかったね!」
「ああ、そうだな」
「また来たいなー」
「また来ようか」
何処にでもあるような会話だった。他愛のない話だった。それでも、俺がそう言った後に笑った片桐は、冬に咲く向日葵を思わせる程に太陽に似ていた。
良く、今までの世界はモノクロだったけれど君と出会って世界はカラフルになった、というような歌詞を耳にするが、あれは嘘では無かったのだなと、微笑む片桐を見ながら俺は思った。世界に色が付く、その表現は決して大袈裟では無いと知った。
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